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渋谷先生とウェラー君

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「天気予報あてにならないな!」
 腹立ちまかせ乱暴に髪を拭きながら有利がぼやくと、コンラートがそのタオルを取り上げた。
「ところによって夕立があるって言ってましたよ」
「言ってたっけ?」
「はい」
「だけど夕立って。二時から降るのが夕立か?! しかも痛いくらい降ったぞ」
 有利は土曜日の今日、自分のクラスの生徒であるウェラー・コンラートを草野球チームの練習に誘っていた。
 昼過ぎに家を出る時には眩しいくらいの青空だったのだ。立派な入道雲がそびえていて――ってだからか。練習を始めてすぐに、ざあっと冷たい風が吹き始めた。そしてあれよあれよという間に底が抜けたような雨が降り始めたのだ。雷鳴も轟いて、河原で野球練習なんて、即中止解散である。
 それで誘った手前有利はコンラートを、河原からダッシュで十分の自分の部屋へ連れてきたわけだが。先にシャワーに追い立てて、貸した着替えは長身で体格のいいコンラートにはぱつぱつで有利を凹ませる。
 そしてコンラートが自分の髪を丁寧な手つきで拭っているのに気が付いて眉を寄せた。
「丁度いい高さにあるからとか思ってるんじゃないだろうな」
 突然そんなやっかみを振られてコンラートが目を丸くした。
「いや、いい。それより、悪かったな。せっかく来てもらったのに」
「天気は先生のせいじゃないから」
 メンツが足りないからと呼びつけたのだが、本当は眩しい太陽の下に引っ張り出したかっただけだ。…結局雨だったわけだけど。
 コンラートは有利が担任する二年四組の生徒だ。複雑な家庭環境の上、両親は海外で、高校に入った去年からは独り暮らしをしているということだった。一年次の担任であるフォンクライスト先生から気にかけてやっていて欲しいと引継ぎを受けていたこともあるが、ユーリも彼の妙に大人びた表情が気になっていた。  成績は優秀。人望もある。端正な容姿で女生徒たちの憧れの的。欠点などどこにもない、誰もが羨むような完璧な存在をそつなくこなしているような――それは凡人の有利のひがみなのかも知れないけれど。人当たりの良い微笑みが作り物めいている気がしたのだ。
 周囲から良い子であることを求められ続けた子供は期待に応えようと無理を重ねる――そんな話を思い出したこともある。ストレスの解消には外で大きな声を出して、余計なことは考えずに汗をかくのが一番だな!ということで有利は自分の所属する草野球チームに誘ったのだ。そこは大学生から社会人の愛好家が集うチームで、コンラートのことを知る者は誰もいない。様々な年齢、立場の人との緩やかな繋がりは、きっと彼にいい刺激になるとも思った。
 なのに。有利は窓の外を恨めしく眺めた。相変わらず土砂降りは続いている。
「つか、拭いてもらわなくても大丈夫だから。ありがとう」
 コンラートの手からタオルを取り戻す。
「乾きましたよ」
 仕上げとばかりに指で髪の流れを整えて微笑むのに。
「やっぱりちんまいとか思ってるだろ!」
 噛みつくとまたきょとんとした。
「いえ。そんなつもりじゃ。ただ…」
 言って視線を逸らしたコンラートの首筋がぱっと赤くなって。だけどそのときは有利にはその意味がまるでわかっていなかった。



 初めがそうだったせいか、週末の練習後コンラートが有利の部屋で汗を流していくのは習慣のようになった。そして有利が作った夕食を一緒に食べる。時にはコンラートが作ることもあった。独り暮らしのせいか、高校生にして彼の手際は驚くほど良かったし、正直、有利が作るものよりずっと上等だった。
「絶対おれの作るやつよか旨いよな」
「俺は先生が作ってくれた料理の方が好きですよ」
 そういって本当にたまらないような表情で笑うのを見て、有利は内心よしよしと思っていた。有利の作戦は思っていた以上の効果を上げたのだ。青空の下でみんなと汗を流している間に、コンラートはこんなにいい顔で笑うようになったじゃないか。本当に野球って素晴らしい!
 そんなコンラートのいい笑顔が近づいてきた。確かに女子が騒ぐだけの容貌だな、とそんなことを感心していた。
 日本人よりずいぶん色素が薄い目だと思っていたけれど、さらに独特の風情があることに気が付いた。その目が、やわらかく眇められてふわりと閉じた。睫毛も長いな、と思ったのが最後だった。
 柔らかく押し当てられた唇が来た時と同じように自然に離れた。
「何…」
「好きです。あなたが」
 笑顔に苦しげな色が混じるけれど、それでもうかされたような熱っぽさで。ああ、こいつは恋をしているんだな、と思った。誰に?
「…おれに?!」
「好きです」
 肩を強く押されてバランスを崩す。後ろに倒れ込む衝撃を覚悟したけれど、背中に回った腕に抱きとめられる。
 再び口をふさがれた。そっと啄んで切なく息を吐く。下唇にいじらしく歯を立てられて、吐息と一緒に薄く口を開いたのはほだされたからなのか、自分のいじましさか。あるいは単に早くなった拍動に呼吸が苦しくなっただけなのかもしれない。だけど何一つ決めかねる間に、うっかり受け入れるような態度をとってしまったことが負い目になって突き放せない。
「ダメだ」
 肩を押し返したのはさんざん口づけを交わした後で、まるで説得力がないことは有利自身にもわかっていたけれど。だけど断じてこれ以上させる訳にはいかなかった。それは何よりコンラート自身のために。
「やめ、ろ」
 完全に床に転がされて、もがいたら左足がちゃぶ台を蹴飛ばして皿がぶつかる不穏な音が響いた。怯んだ隙に有利よりも立派な体格を使って抑え込まれる。美しい筋肉をまとった肩が有利の胸元を押さえて封じられる。触れるコンラートの身体がどこもかしこも熱かった。
 鼻の奥がつんとしたが、それは教え子に押し倒されている不甲斐なさよりも彼の煩悶が辛くて。だってこんなことしたって、何にもならない。
「ごめんなさい」
 苦しげな声がいつまでも耳の奥に残った。



「こんなやりかたは間違っているって、わかっているんだろ」
 コンラートは青ざめた顔で凍りついたように床の一点を見つめている。そこに何か大切な公式でも書かれているみたいに。
 有利は手を伸ばしてコンラートの頭にやった。身体の奥がひきつれたように鋭い痛みを伝えたけれど、意地でこらえた。
 身じろぎすらしないコンラートを、有利はぎゅっと抱き込んだ。
「死にそうな顔してんじゃないよ――あ…まぁやったことは相手によっちゃ犯罪だけどな。そこは死ぬほど反省しないといけないけど。――幸い相手はおれだし」
 顔をあげる気配に有利が腕を緩めると、そこには絶望したようなコンラートが居た。まるで傷つけられたのは自分の方だとでもいうような。
 血の気をなくした唇がゆっくりと動く。
「犯罪でもいいです。俺のしたことは罰せられるべきだと思う。だから許したりしないでください。なかったことになんて、しな…い、で」
 最後の方は声にならなくてそのままぎゅっと唇をかみしめる。
 ずいぶん自分勝手な言いぐさだ。そんな感情の押し付けは通らない。さっき有利に働いた暴力行為と同じく、だ。
 自分はコンラートの担任で、教師である以上、教え子の間違いは正さなくてはならない。しかもこんな重大な思い違い。看過できるわけがない。けれど。  悩みすぎて禿げそうだ。ユーリはそっと天井を仰いだ。
 有利は再びコンラートを抱きしめた。伸び上ってぽたぽたこぼれ落ちる涙を啜った。しょっぱい。悲しい涙はしょっぱいってどっかで聞いた気がする。本当か嘘かは知らないけれど。
 ああ、どうしたものか。溜息しか出ない。
 深く抱き込んでなだめるように髪をなでる。やっぱりコンラートは固まったままだったけれど、溢れる悲壮感が戸惑いに変わりつつあった。
 本当にどうしよう。
「あのさ。ここでこんなこと言っちゃうと、すんごくお前のためにならないってわかってるんだけどさ――」
 有利はなかなか最後の逡巡を振りほどくことができなかった。
「おれも、おまえのことが…――好きです」


End


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