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その手は桑名の焼き蛤

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 別にそれまで飲みたいとも思わなかった酒に頼ったたのは、あれが初めてだった。
 でもそっちは理由かも。コンラートの部屋にはそれがあって、口実にして彼に泣き言を聞いて貰いたかっただけなのかも。
 で、どうだったっけ。随分と昔の記憶を探る。
 おぼろにしか思い出せないが、きっとコンラートはユーリの望みを叶えてくれたんだろう。希望どおり飲ませてくれて、ユーリの繰り言をうんうんと聞いてくれて、慰めてくれたはず。
 確か、飲みつけないユーリの為に、戸棚の酒を果汁で割って出してくれた。話の内容がうろ覚えなのは、それを初めに以降何度も同じようなことを愚痴っているせいだ。
 ユーリが恋愛で躓く度にそれをコンラートの元へ持っていくのは、他に適当な人物が思い当たらないからだった。
 コンラートはユーリを個人としても魔王としても見てくれてる。そんな相手はそういない。しかも女性によくもてて経験豊富。なわりに、関係がこじれての醜聞なんてとんと聞かないから、やっぱり適任だったわけだ。
 気安さも手伝って、泣き言を聞いてもらうのは毎度のことになっていたけれど。
 困惑を覚えるのはそこだ。彼はいつから自分のことが好きだったのだろう? 思えば随分と酷なことをしていたのか。
 知らなかった故の無神経さで「もうおれ、あんたと付き合うわ」なんて冗談も口にしていた。実に笑えないが――うーん…あれは二十年近く経つのかな? セーフかなぁ。ヨザックの口ぶりではコンラートは随分と昔からユーリを想っていたらしい。…アウトか。
 だけどあの時も、ユーリはひどく堪えていた。
 そのときの彼女はとても優秀な情報分析官だった。破局したからといってユーリの事務官から外すわけにもいかなくて。二度と彼女なんて作らないと嘆くしかなくて。

「だけど半年前までは、あんなに楽しそうになさっていたじゃないですか。悪いことばかりじゃなかったでしょう?」
 終わった恋についてそう諭されて、鼻の頭にしわが寄る。
「そりゃ楽しいときだってあったけどさ。だからってこんなの――」
「プラスマイナスゼロだったら、はじめっからゼロ?」
 コンラートが笑うのに、卓に突っ伏したままうんうんと頷いた。
「あぁ。もう仕事したくないー。執務室なんて行きたくないよ」
「だったら彼女を異動させるんですか」
 そんなこと、できないとわかってて、わざと意地悪を言ってくる。
「振られたから左遷、なんて出来ないだろう」 
 格好悪い。
「じゃあ栄転?」
「…それも変だろ」

 それで。
「やっぱ、あんたっていいよな。女はもうこりごり。男だけでいい。友達がいたらそれでいいよ。男友達と遊んでるのが一番いいよな。面倒なくって楽しく遊んでられるだけで」
 と。
 もっとも、時間が経てば、彼女は再び信頼のおける単なる事務官になった。順調に出世はしているけど、それはユーリの意図でなく彼女の実力だ。そしてユーリだって、それで本当に女性に懲りた訳でもなく。ただ、そっちはあまり順調とは言えない。…なんで続かないかなぁー。
 テーブルの上、散った肴のクラッカーの屑を指先で集めつつ、つらつら考える。
 改めてみればコンラートと酌み交わすのは、彼の気持ちを知ってから初めてのことだ。
 ユーリはコンラートが自分に惚れていると知っている。コンラートはユーリがそのことを知ったことを知っている。
 言葉にすればそんなややこしい状態で、なおかつ二人とも、知らんぷりを決め込んでいる。
 こうやって深夜に二人っきりで向かい合っていても、何ともないんだもんなー。第一、友人という関係が馴染みすぎた。
 じっとコンラートに視線を当ててみる。
 たしかにご婦人方が放っておかないだけある男ぶりではある。かっこいいもんな。ふと、純粋な興味が湧いた。この男はあの唇でなんと口説いて、どんな風にキスするんだろう。
 そしてそんな内心をおくびにも出さず、友人の話に相づちを打つ。手酌で杯を満たして、ついでにコンラートのにも継ぎ足す。
 ユーリがこの唇とならキスできるかも、なんて思ってたって。たとえこの瞬間コンラートがユーリの唇を塞ぎたいなんて考えていたとして。
 現実は淡々と杯が重ねられていくだけだったりする。
 淡々と。淡々と。普通にただの友人同士。
 またユーリが酒瓶を差し向ける。
「まだ入ってます」
「だったら空にしちゃえよ」
 いつかみたいに酔っぱらって、ちたあ素直になりやがれ。
 空けさせた杯にまたなみなみ注いで。だけどおれの前では無邪気に酔いやしないんだ。全く可愛くない。
 ユーリ自身、酔いが回っているのか、絡み酒じみた苛立ちを覚える。そんなこんなで執拗に注ぎ続けていたのだけど。ついに満たす途中で瓶が空になった。
 悪いな、と腰を浮かせたら、手で留められる。 
「ほんとにもういいですよ、これで」
「まだ飲めるくせに」
「これ以上したら理性を失いそうだから」
「いいじゃん。そんなもん捨てちまえ」
 冗談めかしてそんな誘いを向けてみたのに。コンラートは怖いなぁと笑っただけだった。
 流しやがった。本当に、こいつは。憮然と自分の酒杯を干す。おれのことが好きなんじゃないのか。
 ユーリが元カノとよりを戻そうとしたら笑顔で邪魔をしてきたのである。なのにここで誘いをかけてみれば、するりとかわす。
 注ごうとして、すでに空だったことを思い出す。手を伸ばしてコンラートの前の杯を取り上げて煽った。
 酔う気もない奴は飲まなくていい!
 苦笑のコンラートが席を立つ。
 だけどユーリとて、新しい封を切られたって一人で飲みたいわけじゃなし。もういいよ、と声にする前にコンラートがユーリの前で身を屈めた。
 顔を寄せられるのと、引こうとする肩を押さえられるのは同時で、あらがう間も、考える隙もないうちにキスされていた。え、と思っているうちに下唇を緩くかまれ。だけどさっき、誘うようなことを言ったからには突き放すのはおかしいか、と考えているうちに上唇を吸われた。
 ちゅっと音を立てて離れていって、コンラートはたいそう人の悪い笑みを浮かべていた。
「まだ召し上がりますか」
 唇を?――いや、違う。ぐいっと手の甲で唇を拭う。もう酒はいい、と思っていたのは本当なので首を振る。
「ではそろそろお部屋にお送りしましょうか」
 盛大に眉間に皺を寄せて睨み上げるのに、コンラートは涼しい顔。腹立たしいので、せいぜいユーリは何でもない声を出した。
「そうだな明日も早いし」
 ほんとになんなの、こいつは。



 まさかずっと考え続けているわけじゃない。だけど喫緊の懸案事項があるわでもない、たとえば馬車で揺られて移動中。思い出したように浮かび上がってくるのは、護衛のキモチについてだ。
 四六時中後ろに張り付いている割に、普段は片隅に追いやれてしまえているのは、やっぱり百年かけて彼の存在に馴れすぎてしまったからだろう。良しにつけ悪しにつけ。
「なぁ、なんでなんも言わないの」
 何のことを指しているのかと、向かいに座るコンラートは、窓の外に向けていた目をユーリに戻した。
「あんた、おれのことが好きなんだろ」
 捻りもぼかしもしないストレートな物言い。だけどそうでないと何の回答も得られないことは、このひと月が示している。
 泥酔したこの男からひそかに片思いする相手がユーリ自身だと聞いて。互いに腹の内を判り合っているのにも関わらず、冗談でかわして一ヶ月だ。
 いい加減じれてくる。そうでなくとも彼とは違ってユーリは気が短い。
 コンラートはまた窓の外に目をやった。もう、誤魔化されてやらない。ユーリがじっと待っていると、小さく息をついて顔を向ける。
「好きですよ。とてもね。より多くを望み過ぎてその末に全てを失くしてしまうよりは、今の安寧を大切にしたいと思うくらいに」
 悟り澄ましたコンラートの言葉に、ユーリは唖然とした。
 別れるときのことまで考えて恋なんかするか?
「ある程度は考えるんじゃないですか? だから職場の恋愛は御法度なんじゃないですか」
「そうなの?」
 ある程度はね、と繰り返してコンラートは肩をすくめた。確かに恋は理性や計算でするものではない。
「だけど俺はするんです。理性や計算で。だって感情で突っ走って転けたら痛いじゃないですか」
 今のこの距離をなくすなら、それ以上なんて求めない。コンラートはそんなことを言う。
 当て擦りにしては棘の無い言葉に、靴を蹴りつけてやる気にもなれなくて。ぷいと外を見た。すいませんねー。いつも突っ走って転けて。 
 向こうの丘まで畑と防風林の景色が続いている。いつの間にか馬車は郊外に出ていたらしい。
 一歩で詰まる距離。だけど友人――いや、魔王と護衛の距離である。
 王都の中より荒い舗装に、時折馬車が揺れる。そんな中、ユーリは立ち上がった。中腰のまま、その一歩。
「危ないですよ」
 コンラートが万が一に備えて手を差し伸べる。構わず彼の顔の脇に両手を付いた。
 額同士がくっつきそうな距離だ。ユーリは銀の光彩の散る目をのぞき込む。
「あんたが望むなら、簡単に手に入るものなのに」
 歩き始めの子供を庇うように伸ばされた腕は、ユーリの背を抱くこともなく宙に浮いたままだ。たとえば車輪が石を噛んでユーリが倒れ込んででもこない限りは、それもないらしい。
 頑固者め。憎らしいくらいに平静を保つのに、小さく笑ってユーリは体を離した。
 どさりと元の席に戻って、何でもないことのように垂れた髪を掻きやる。
「しかも原状回復も可能」
 つられたようにコンラートも薄い笑みを浮かべた。
 別れたってまた護衛と警備対象に戻るだけじゃん。
 大人になって純粋でなくなった代わりに、様々なことに鷹揚になった。たとえば、魔王も百年もやっていれば、抜いては自分を語れないだろと、開き直れるくらいに。身近な者と深い仲になれば後が面倒なことも経験済みだ。それだって、いずれ時間が解決することを知っている。
 そしてやっぱり。恋は理性や計算でするもんじゃないだろ。


End


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