『ひみつどうぐ』
スタツア直後の恒例行事、お泊り会。
自称婚約者が寝静まるのを待って枕を抱えて恋人の部屋を訪ねたユーリは、数か月の時間を取り返すべく喋り続けた後で、電池がきれたように黙り込んだ。
いつ眠ってもよいように灯りはすでにベッドサイドにあるだけだ。枕を寄せ合った近い距離ならば、僅かな灯りでも十分に相手の顔はよく見える。
とはいっても、ユーリには灯りがなくたって少し身じろいだだけで肩が触れ合うほどに近い恋人の表情などお見通しだったけれど。
「眠くなりましたか? 今日は疲れたでしょう?」
自らの意思で移動ができない魔王陛下が異なる世界の壁を越えるのは、呼ばれる理由があったからだ。
愛娘や婚約者からの熱烈な歓迎に加え、さっそく魔王決裁の必要な書類や会議と目まぐるしい一日を過ごしたユーリを気遣う眼差しの温かみは眩しいほどで、ユーリはつい視線をあらぬ方へとさ迷わせた。
「眠くは、ないよ」
むしろずっと聞き役に回っていた彼の方が眠いのではないかと視界の端で顔を窺ってみるのだが、恋人はただ優しい眼差しを返すばかりだ。
会いたかった人がそこにいる。
ほんのり心が温かくなるのを感じながら、ユーリは先ほど考えたことを恋人へと打ち明けた。
「携帯電話があったらいいのになって思ったんだ」
「携帯電話、ですか?」
地球で過ごした経験を持つ彼は、どういうものか知っていたらしい。
以前、ユーリも所持していた。ほとんど使うことはなかったし、壊れてしまってからは無くてもいいやとそれっきりになっている。
だが、いまは切実に欲しい。
たとえどれだけ願ったとしても、この世界と繋がる電話などありはしないのだけれど。
ひとたびスタツアしてしまえば、次はいつ会えるのか分からない。異世界などまるで無かったかのように、待っているのは十六年過ごしてきた日常だ。
「あんたと繋がる電話があれば、話がしたいと思った時にあんたとすぐに会話ができるのに」
魔王ではない高校生として過ごす日常の中で考える。
伝えたいこと聞きたいことができたって眞魔国ならばいつでも話すことができるのに、地球ではそれも叶わない。
今回だってそう。
離れている間に、たくさん話したいことができたのだ。さっきまで、それはもうたくさんの話をしたけれど、まだまだ足りない。話す前に忘れてしまったこともたくさんあったはずで。
だから、願う。
携帯電話が欲しい、と。
恋人はユーリの話を聞いた後で、ふわりと口許を和らげた。
伸ばされた手の重みを頭上に感じる。それから、彼の指先が髪を梳く感触。
「会えない時間にあなたのことを考えるのも楽しいものですよ」
彼と自分の違いを感じるのは、こういう時だ。自分はそんなに大人になれない。
ユーリが不満を隠さずに顔に出すと、彼は笑った。
子供扱いされたこと、そして彼の余裕が悔しくて表情を険しくすれば、皺が寄った額に唇が押し当てられた。
そのまま彼の鼻がさきほど梳いていた髪に埋もれて、クンと匂いを嗅ぐ。
愛おしむような、存在を確かめるような仕草に、険しい表情を続けていることができずに、ユーリは尖らせていた唇を引っ込めた。
「あなたをこちらに迎えてから、次に会った時に話したいこと、見せたいもの、食べさせたいものが少しずつ増えていくのはとても幸福なことだと知ったんです」
窓の外に広がっているだろう星空を思い起こさせる瞳を伏せて、数ヶ月のことを思い出しているのかもしれない。
「でもね」
けれどすぐにユーリと僅かな距離をあけることで顔を覗き込んだ恋人は、声のトーンを落とした。
「声だけでも聞きたいと願うこともありますよ」
低く囁く声音に、心臓が跳ねる。
同時に、ベッドサイドに置いた灯りの炎が小さく揺らいだ。
先ほどまで微笑んでいたはずの恋人の顔から笑顔が消えていた。
彼の手がユーリの項に触れた。髪と肌の境目を軽く撫でてから、僅かに力を込めて開いたばかりの距離をつめる。
「ただ、困ったことに声を聞いてしまったら姿が見たくなる。姿を見てしまったら、次は直接触れたくなる。そして、ひとたび触れてしまったら、離したくなくなる」
情熱的な言葉のまま、額が触れ合った。
熱を測るように。きっと今の自分は高熱のようだろうとユーリは心臓を乱しながら考える。
「だから、我慢してるんです。こうして思う存分触れられるのを楽しみに」
そして、携帯電話などでは足りなかったのだということを知った。
どこでもドアがあればいいのにと、ちらりと浮かんだ思考は恋人の唇の中に融けて消えた。
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