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猫に小判 豚に真珠 野球小僧には香水

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 人ごみの中、ふわりと記憶にある匂いが鼻を掠めた。それがどこで嗅いだものだとか思い出す前にせり上がってくるのは、ドキドキと照れくさいような困ったような――無意識に頬に手をやって、その指先の冷たさに火照っていることを知る。
 ああ、この匂いは。――甘い甘い花の香りは、黄金の髪の美女が身にまとうそれだ。出るべき所はしっかり出た柔らかな身体に抱きしめられる感触までセットで出てきて、反射的に血が昇る。
 でもまさか、地球の、こんなところにツェリ様がいるはずもなく。よく似た香水をつけた誰かとすれ違ったのにすぎないのだと納得。
 そう、こんなところ。溢れるレオとライナちゃん。『埼玉西武ライオンズ優勝おめでとうございます』何度目にしても嬉しい文字。
 新聞を買い漁り、スポーツニュースを録画しまくってもまだ治まらない…むしろ更に加速した勢いのまま百貨店の優勝セールにまで出てきてしまった。身を包む球団歌が幸せだー。
 その幸福感にさっきまでなかったこそばゆさが混じるのは。ツェリ様に似た香りに引き摺られて出てきた――んだろうな。やっぱり。
 甘い匂いと柔らかな身体に捕まって、嬉しいやら恥ずかしいやらで焦っていると、必ず彼女の息子が助けてくれる。「陛下がお困りですよ」と。でもその声の底には本音の不機嫌が混ざっていて、俺をその腕から引き離すのにも必要以上の力が篭っている。
 しれっと何くわぬ顔をして、だけどその内心では母親の戯れさえ無視しきれない彼を知るのは、胸の奥がトクリと甘く疼く。

 いっかー。10%オフだし。日本一になった記念に。
 浮かれてるんだ。優勝おめでとうのコピーとエンドレスで流れる球団歌に煽られて。日頃絶対足を踏み入れることなどない化粧品売場なんて異次元で、自覚はある。だけど浮かされたまま、凝ったデザインのスプレーをメンズの文字を頼りに物色している。
 更に小さく併記された値段にも怯むのだ。男だからと言うより高校生的に居心地が悪い。店のお姉さんの微笑ましそうな視線も痛い。
 それでも天井吊りのポスターのレオに勇気づけられ、片っぱしからに鼻に近づけて。いい加減鼻の奥が痛くなった頃に手に取った香水瓶。青い液体が揺れている。その爽やかさは、苦いような大人っぽい匂いばっかりだった中で、すぅっと入ってきた。
 爽やかで軽やかで涼しげで。彼のイメージそのまんまだと思ったら、覚えのある震えが背を這い上がって。瓶を取り落としそうになる。
 気まずさをごまかすように慌ててチェックした値段は…並んだ小さな数字の一番上に30ml \4,725。決して安くはないけれど、一番小さい奴なら。10%引きで4千円ちょっと。場違いな感覚の余韻をぎゅっと押し殺して、「すいませんーん」とさっきからちらちらこちらを窺っていた店員さんを呼んだ。

 高級感あふれるブランドロゴ入りの紙袋はちょっと恥ずかしい。おふくろに頼まれてきた贈り物の用事を済ませる間も、手にした小さな袋がこそばゆくってならなかった。まさか男にあげるんだなんて誰も思ってないだろうけど。――店のお姉さんにもプレゼント包装だなんて言えずに自宅用で通したんだ。
 それでも来週の優勝パレードのルートの下見はしっかりして、帰宅、の前に村田んち。
 村田の顔を見るなりあっちに行きたいって言ったならば、野球小僧に違和感バリバリなブランドの袋をひょいと覗きこんで、ふーんと。何もかもわかっているような顔をするから開き直る。耳の奥では、ライオーンズ ウオウオウオ ラーイオーンズ…まだ鳴り続けている。
 だっていつ始まるかわからないスタツア待っていたら、ずっとこの袋、持ち歩かなけりゃならないじゃないか。



 初冬の噴水の池の水は冷たい。血盟城の中庭でよかったけれど、でもここまで狙えるならいっそ風呂でもよかったんじゃないか、村田。
 心の中での親友への愚痴は、だけど、甘い甘いおかえりなさいの声の前に霧散する。
 突然帰ってきたのに疑問の言葉もなく、嬉しくってしょうがないってのが、照れくさそうな視線や声の調子に混じっている。そんなまっすぐな感情を向けられると、さっきまでの勢いだけでは乗り越えきれないような気恥かしさも、もっと違う熱量を持った気持に押しやられて。久しぶりの愛しい人を瞬きも惜しんで見つめてしまう。
 彼の住む世界へ戻ってきたことを告げる挨拶も、嫌になる位甘くなってしまうのは、もう、それは許してくれ。久しぶりなんだから。
 濡れた服を着替え、火を入れた暖炉のそばで我がライオンズの日本一への軌跡を語り――最終戦で宿敵を逆転した下りは涙まで滲んだ――で、優勝の記念に、と濡れた紙袋を渡すと、ああ、やっとそこに繋がるんですね、とコンラッドは中を覗いて、でもやっぱり不思議そうな顔をした。
「どうして贔屓のチームの優勝で香水なんですか」
「えぇっ?!…あ、西武って親会社が電鉄会社で…百貨店もやってて、そんで、セールやってたから…――凄くいい匂いなんだぞ、あんたにぴったりだと思うしっ」
 泳ぐ目としどろもどろな口調に憐れみを覚えてくれたのかそれ以上の追及は止めて、嬉しそうに受け取ってくれたからよかったものの。
 これをあんたの匂いにしてしまったら、あっちに帰った時もいつだって思い出せるだなんて――言えるわけないだろう。

 コンラッドが控え目に纏った香りは、日頃は気付かない位のもので、でも、その腕の中に囲い込まれたりすると鼻をくすぐる。元よりの彼の匂いと絶妙に混じり合って、化粧品売り場で知った爽やかな香りがコンラッドの匂いに定着するのはすぐだった。
 それで、香水は体温が上がるとふわりと匂い立つんだということを知り。時間がたつと香りが変わることも知った。
 爽やかだとばかり思っていた匂いは、コンラッドの肌の上で薫らせると、柔らかく甘く、なのに男を感じさせる匂いに変わる。
 それは官能的な匂いにゾクゾクするのか、その香りに触れるのがそういうシチュエーションだからそんな風な印象を持つようになってしまったのかはわからないけれど。
 すっかり馴染んだ匂いは、それを嗅いだときの幸福感だとか愛おしさだとか、その他彼に感じるあらゆる感情を包みこんで記憶に擦り込まれる。



 二週間ばかりのタイムラグを挟んで地球の日常に戻り。本屋へ寄った駅前ビルの雑貨屋の前で見覚えのある香水瓶を目にしたのは、それから更にひと月も経ってからだった。
 無意識の連想で暫く逢わない恋人の姿が浮かび、その肌が燻らせる香りを思い出し、ついたプライスカードにぎょっとした。なぜならあの日優勝セールで買った――しかも実は化粧品は対象外だとかで10%引きにもならなかった価格の半分だったから。
 どうしてそんなことになるのか…ひょっとしてこれはニセモノか…水濡れしたブランドの紙袋、あれが二千五百円だったのか…とぐるぐる考えながら、それでも買ってしまう自分の乙女ぶりには辟易する。そしてこんな胸の内、誰も知るわけがないのに、恥ずかしくて恥ずかしくて死にそうだ。
 そして買って帰って、スプレーをひと噴きして、そのあまりに恋しい香りに堪らなくなるのだけれど。
 匂いは案外記憶に残るものなのだと思う。そしてその記憶は感情と直結している。帰宅時にどっかの家から肉じゃがの匂いが漂ってきて、あ、これは肉じゃがだ、と思い出す前に、肉じゃがを食った時のウマかったって満ち足りた記憶だとかが呼び覚まされるみたいに。
 爽やかな香水の香りに、身を振り絞る位に好きだという強い気持ちが溢れてきて、この世界のどこを探してもいない相手に募る想いが苦しい。
 優勝セールの人ごみの中でツェリ様に似た香りとすれ違った時のように、こそばゆいような嬉しいような、そんなささやかな気持ちになれたら楽しいだろうに――企みは大失敗で、痛くて痛くて堪らない。



 二人揃って血盟城に帰って来てた時、そう言えば、と村田が聞いてきた。
「ウェラー卿、あのトワレつけてないねぇ。ほら、君があげたやつ」
 懐かしくも痛い話題に飲みかけのお茶を吹きそうになる。
「…あぁ、あれね、もう止めさせたよ」
 虚ろに返すのに、いつかのようにふーんと相槌を打ってこちらを見つめる目。何もかも、わかっているとでもいうような。
「だってアレ、ちょっと街中歩いたらおんなじ香水つけた奴、いっぱいいんだよ」
 諦めて遠い目で白状する。
「君の大好きな人と同じ香りを損所そこらの男が付けてるのが許せないって?」
 揶揄するように村田の声に笑いが混じる。
 目を逸らしたまま、カップを煽って。だけど許せないんだからしょうがないだろっ――口に出すのも躊躇われるそんな身勝手を一緒に飲み下す。
 匂いの記憶は本能に近い部分に残されるのだろうか――理屈で制御しきれない感情を、何かと掻き乱す。


End


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