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かえるの王子さま

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「陛下っていうな名付け親…」
「―――――」
 眠りの底から引きずり出された直後。頭はまったく働いていないらしい。だめ、まだ眠い、とぎゅっと目をつぶってから眠気を振り払うように開いた。
 朝日を横顔に浴びて、きらきら音を立てそうなさわやかな微笑みで護衛がのぞき込んでいる。緩く弧を描いた口元がほどけて、耳に甘い声が。
「ケロケロ、ゲロ」
 違和感の理由はこれか、とぼうっとユーリは目の前の男を眺めた。コンラートの唇の動きとなめらかな声は一致する。間違いなく彼の発言である。
 ではどういう意図で? 彼一流のギャグなのか。ごめん、わかってあげられなくて…。ユーリはどう反応すればいいのか決めかねる。
 コンラートはなかなかベッドから出ようとしないのを気遣う表情で、またケロケロ言ってユーリの額に手をやった。
「…いや、体調が悪い訳じゃないから」
 手を退けさせて、なのにまだ悪ふざけを続けるの?と、ここでユーリは初めていぶかりを覚えた。面倒事の予感を覚えつつ、身を起こす。
「なぁ、コンラッド。それ、本気?」
「ケロ?」
 きょとん、としてみせる護衛にからかう色は見つけられない。
 どうやらコンラートの渾身のギャグとかではないらしい。
「ケコケコ、ケロケロ」
 再びコンラートは気遣わしげにユーリに手を伸ばしてくる。眉の間をそっと指でなぞるからきっと難しい顔をしていたのだろう。
「コンラッド、あんた、さっきからケロケロしか言えてない」
「ケロ?」

 部屋を出ると扉を守る兵士たちが悪い顔色で宙を睨んでいたので、きっとコンラートがケロケロ言いながらここを通ってきたんだろうと推測する。
「えーっと…その、ごめん」
 ユーリが謝ることではないが、どうも申し訳ない気持ちが拭えなくて、つい。
「いえっ、滅相もございません!」
 だけど兵士たちはあからさまにほっとした顔をした。
 だからって、コンラートの言葉がおかしいのはユーリのせいではないし、ユーリになんとか出来る事でもないのだけど。
 ユーリはカエル語しか話せない護衛とで抱えていても埒があかないと、早々に助けを求めることにした。幸い、ユーリには頼りになる宰相と王佐がついている。
 しばらく口を閉じているようにと重々コンラートに言い含めて、ユーリは執務室を目指した。なんだかの期日が今日までだそうで、この時間でも彼らはすでに部屋に居るだろう。

 案の定、たどり着いた執務室に二人の姿はあった。インクのにおいに混じって紅茶や香ばしいのがほのかに漂っていたので、朝食もここですませたのかもしれない。
 いつもよりも早い時間に姿を現した魔王に、ユーリ贔屓がすぎるギュンターは大げさに褒めてくれたが。
「実は…そうじゃなくって」
 コンラートがケロケロしか言えないことを説明すると、ギュンターは困ったようなやっかいそうな微妙な表情を浮かべ、顔も上げなかったグウェンダルは手にしたペンの先を潰した。
「黙って立っている分には何の支障もあるまい。そんなことより、まずは机の上の書類を昼までに片づけろ」
「ええっそんなことって…だってカエルなんだぜ! 言葉通じないんだよ!」
「物には優先順位というのがあると言っている。コンラートの件は後だ! そもそも、この法案もおまえが言い出したことが発端だろうっ」 
 ばんっ、と机を叩かれて、飛びつくようにユーリは席に着いた。
 目の前には今度の会議にかける法案の関連が小山をなしていた。昨夜この場を離れた時には無かったものなので、ユーリが寝ている間に築かれたらしい。
 それを言われれば確かにユーリも辛い。本当にいつもすいません、と心の中で感謝して、ユーリはペンを握る。だけど本当にカエルなんだよぅ、と聞こえないように呟いて。
「ケロケロケロ」
 そのカエル語でコンラートがなにやら話しかけるのに、そういえば朝食を食いっぱぐれていると思い出す。
「うん、お願い」
「ケロ、ゲロ、ケロ」
「そうだな、今日は蜂蜜で。あ、っていうか、あんたしゃべっちゃ駄目だよ。厨房の人たちみんなびっくりするから」
「ケロ」
 コンラートはさらさらと字を書くそぶりをしてみせる。
「それってカエル文字じゃないの?」
 コンラートは笑ってユーリの側まで来ると、手からペンを取り上げた。
 試し書きの紙を引き寄せて、『永久に変わらぬ愛を魔王陛下に』。優美な筆致で書きつけてみせた。芸が細かく『愛』の部分だけが英単語になっていた。
「もうっ」
「クケ」
「おまえらっ!」
 宰相の一喝が響いた。

 コンラートの問題に順番が回ってきたのは、夕方近くになってからだった。
「なんでもかんでもわたくしのせいにされては迷惑です」
 呼びつけられた眞魔国の赤い悪魔、マッドマジカリスト・アニシナは、そう憤慨してみせた。
「だけど、ほら、コンラッドが」
「ケロケロ」
「ってしか言えなくなっちゃって!」
 アニシナは面白くもなさそうに横目で見遣って、器用に片眉を上げた。
「護衛に口など必要ないでしょう。黙っていればいいだけのことです。主人の機密を守るべき側仕えは舌を切り取ったという話もあるくらいです。何が困るというんです?」
「いや、困る、困ってるよ!」
 この男がそんな意味のあることを口にしているとも思えませんが、となにげに酷い物言いを続けるアニシナだったが。
「まぁ、まるでわたくしに責任がないわけでもないですし」
「やっぱアニシナさんのせいなんじゃん!」
「ちょっとした事故ですよ」
 いちいち非を認める気は無いらしいのに、グウェンダルが強引に話を進めた。
「それで、どうすれば元に戻るのだ」
 どうも宰相殿は、幼馴染の引き起こす害は天災のようなものだと諦めているふしがある。
「カエルを人に戻すのは姫君のキスと相場が決まってます」
 はい? ユーリはぽかんとアニシナを見て、コンラッドを見て、アニシナを見た。
 …何、そういうおまじない的なのでいいの? もっと良く効きそうなヘドロ色した粘性のある飲み薬とかじゃないの?
 疑わしげなユーリに、アニシナの一瞥。
「何かご不満でも」
「いえ、なんでもありません」
「では」
 アニシナは歩みを進めると無造作にコンラートの襟首を掴んで引き寄せた。
「うわああああっ、タイムタイム!」
 アニシナがコンラートを引っ掴んだまま動きを止めたのは、魔王の止めが入ったせいか、宰相の机の上の書物が雪崩を起こしたせいか。
 もっとも、早まるなっ、とグウェンダルが取り乱したのが、どっちの身を慮ってのことなのかはわからない。
「おや、なんです。あなた方はこの男がケロケロ言うのを治させたいのでしょう? 心を伴わない、たかだか口を合わせるだけの行為に何の意味があるというのです」
 案外乙女な心を持ち合せている一部の男子たちはなんとも言えない表情になった。
「いや、だけどさ、…そう、グレタでいいじゃん!」
「コロケロ、コロコロ」
「そうか…そんなすぐにグレタを呼び戻せないか。おれも一週間もそのままなんてヤダよ」
 アニシナが呆れたようにコンラートを突き放す。
「やはり、わざわざ元に戻す必要など、どこにも無いではありませんか。ケロケロだけで十分意思疎通が図れています!」
「ええーっ。でも、ほらっ、やっぱ無惨じゃない? コンラッドかっこいいのにさ! 口から出る言葉がケロケロだなんて!」
 はっきりとアニシナは、姫君にあるまじき仕草で鼻を鳴らした。
 ユーリは途方に暮れる。コンラートは困った顔でユーリを見ている。
 いつまでもコンラートをこんな状態にしておくことはできない。それは確かだ。自分が少しがまんすればいいことなのだ。たとえコンラートが自分以外の誰かとキスをしたって、それはアニシナの言うように治療にすぎないのだし。
「――やっぱ駄目〜っ」
 お姫様じゃないとダメなの? 魔王様じゃ無理?
 ユーリはコンラートの両手をがしっと掴んで向かい合う。ちょっとびっくりしたみたいにコンラートの目が見開かれる。唾を呑む音はユーリ自身のものか。それとも他の誰かのなのか。
 わーん、お願い、これで治ってーっ!
 腕を引くことでコンラートに屈ませて、ユーリはぶつけるように唇を合わせた。
 姫君という要件を満たしていない分、ユーリは心を込めた。しっかり念入りにキスをする。
「私も暇ではないのです。こんなことでいちいち呼び付けられては迷惑です」
「しかし、そもそもはおまえの…」
「何か言いましたか?」
「…いや」
 息継ぎが追いつかなくて、だんだん頭がぼうっとしてくる。ふわふわ覚束ない足腰を支えるようにコンラートの腕が腰に回って、ユーリは促されるままにその身に縋った。頭を支えるように沿わされた手が髪に潜って、地肌を撫でられる心地よさにうっとりする。
「愛してるユーリ」
 かすかに唇が触れ合う距離でそう囁かれて、自分もだと、言葉を返すかわりにまたキスを求めた。
 抱き合ったまま一歩二歩と後ずさって、机のへりにぶつかって止まる。促されるままに机のへりに尻を載せる。立っているのが辛くなっていたユーリは、甘い吐息に安堵を混ぜた。
 そのままゆっくりと後ろに倒されて、先を期待して胸が高鳴る。けれど。何か。このまま流されてはいけなかった何か、があったような。
 ゆるく胸を押すユーリの髪を、コンラートが宥めるように撫でた。
「皆はとうに部屋を出て行きましたよ」
 そういえば随分前にドアが閉まる音を聞いたような気もする。ならば良いかと、ユーリは真上から降るコンラートの唇を受け入れた。

 魔王様のキスも有効だったことに気が付くのは、もっとずっと後のこと。


End


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