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日日是無事

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 毎晩共寝しているわけではないので、そうでなければ、朝、コンラートは魔王の寝室へ起こしに来る。
 かと言って枕を共にすることとセックスはイコールではない。何もしないままただ護衛の部屋で一緒に休むこともあれば、本来の豪奢な寝台で独り寝することもある。その選択にはとりわけ深い事情があるわけでもなく、疲労の具合だとか、むしろ甘えたいだとか、単に冬は人肌恋しくなるだとか――意識に上らない位の要因が複雑に絡み合って、そこに気まぐれと状況が大きく影響して決まる。
 完全に王の寝所が護衛のそれになるのは外聞が悪いと煩い外野に注意されるので、見逃してもらえる程度に入り浸っている。
 逆に王の部屋でコンラートが眠ることは全くないわけではないけれど、これはごく稀だ。それが主の部屋で眠るのに居心地悪さを感じてか、はたまたいかにも『お手付き』な雰囲気に複雑なものを覚えるからかは。面と向かって問いただしたことがないからわからないけれど、たぶんその当たりが理由なのだと思う。
 その朝も、隙のない軍装と爽やかな笑顔で起床を促される。
 雪景色に拡散する光は明るく硬質で、その中に立つコンラートは冷たい空気までもが似合うと感じた。自分と同じ夏の生まれのくせに――。
 見慣れたはずの姿に、だけど寝起きの頭でついつい見とれてしまって。「陛下」の呼び掛けに我に返る。
 くすぐったい風で嬉しがっているコンラートの声。彼の容姿が好きなこともすっかりバレているので、名前ではなく『陛下』と呼びかけたのはわざとだ。
 それには答えず、暖かな寝台を抜け出て。そばに立つと腰に両腕をまわして抱きついた。
「おはよう、名付け親」
 あまり身長差のない肩に、顔を埋める。起きぬけの熱の籠った身体に彼の軍服はひんやり硬い。すんなりした見た目を裏切る背中を抱きしめる。すっかり身体を預けても揺らいだりしない。
「ほら、寝ないでください」
 とんとん、と背中を叩いて、柔かな声が合わせた胸から直に聞こえる。
「んー」
 名残惜しくその身体を離したら、急に肌寒さを感じて身震いをひとつ。


 着替えを手伝われながら今日一日の予定を聞く。魔王のと、護衛の、それぞれの。
 ずっと王に張り付いているのが本分だが、優秀な武人である男はたとえ軍籍を退いていたって、何かと便利に使い立てられている。
「俺は予定通り。また雪にならなければ明日の夕刻には戻ります」
 郊外の駐屯地の名を告げられる。主要街道、ましてや王都周辺は整備されているといっても、雪の季節の移動は何かと困難だ。
 前もって決められていたことで。今更一日や二日離れていたって、別にどうってことはない。ただ、ふとした拍子に今日は居ないのだと思い出せば、少し、すーすーするだけ。先ほど彼の身体を離したときのように。
「あぁ、それと地方からお目通りを願う者が参りましたので入れときました」
「入れときましたって…今日は一日会議室だろ」
 右側のカフスボタンに苦労していると、見かねてコンラートが手を伸ばす。
「ええ。だから夕食に」
 飯くらいゆっくり食わしてくれと抗議する前に。
「ゲルリッツからの客ですよ。土壌調査の結果と今後の方針の報告とのことです」
 魔王の直轄領、ゲルリッツの農業指導を任せているイェリネック卿の名前が出されれば。文句は引っ込んで頬が緩みがちになる。そんなあるじへ上着を着せ掛けながら。
「喜びすぎです」
 反して護衛は声に不機嫌が混じる。
「なんだよ。わかっててわざわざ夕食時に入れてくれたんだろ」
 葡萄栽培のエキスパートである彼の手土産は間違いなく上質のワインだ。そう考えるとユーリはそわそわ、今から待ちきれなくなる。
 件のイェリネック卿オリビエは、そうとはしらず魔王陛下に一目惚れし、ユーリの主人だという触れ込みだったコンラートに譲ってくれと直談判してきた男である。彼の営農の手腕を高く評価したユーリに恋心を付け込まれ、魔王直轄領の面倒を押し付けられて。そして今回の登城となったわけだが。
 ユーリにはイェリネック卿は『葡萄の人』という認識らしいが、彼以外は『魔王陛下に横恋慕かました男』だと思っている。なのであまり無邪気に喜ばれると、コンラートは少々複雑なものを覚えないでもないのだ。
「あ、コンラッド、呑めないからって拗ねてる?」
 たとえユーリが手土産しか見てなくても。
「拗ねませんよ。ユーリ、これ以上イェリネック卿に酷いことはしないように。彼には彼の人生があるんですからね。言動に注意して」
 自分の足で回れる規模の畑しか見ないのがポリシーだと聞いていて、それでも強引に任命したという負い目があるユーリは、そういう風に言われると少しこたえる。――自分への純粋な感情を利用するような真似をしたこととか。
 だけど彼のような知識と情熱がある人が、単に伝来の領地を継ぐだけでは終わってほしくないというのもあるのだ。自分を望むそれには答えられないけれど、以外のところで相応の報いをしたいとは思っている。
 そっと窺えばコンラートはいつもと同じ様子。ただ、自分の視線を感じてもこちらを見ることがないのが、不自然。
 ――やっぱ拗ねてんじゃん。
 理由はユーリが考えたようなことではないけれど、恋人の機嫌の具合は正確に掴める。自分の気持ちの在りようなんかよりも、もっとずっときちんと。


 会議に先立って根回しのために呼んであった十貴族の到着を告げられて、早々に朝食の席を立つ。
 いつもならコンラートは出立の前に顔を見せに来るのだけれど。
 先程の様子からしてひょっとしてそれは無いかも知れない――そんな風に思うのは、待っていて来なかった場合に悔しいからだ。相手に媚びへつらっているような…いや、コンラートが想ってくれているよりももっと好きらしくって、悔しい。彼の手の内でじたばたしているような気がする。
 それに、こちらもにこやかに送り出すには、少々わだかまりがある。余計なことを口走ってこじらせるより、互いに時間を置いた方がいい時だってあるのだ。
 コンラートと顔を合わせられなくなった状況に、すこうしほっとする。そんな言い訳じみた事を心内で唱える時点で、既にアレなわけだけども。
 短い打ち合わせを終えて、執務室で資料をめくっていても彼は来なくって。なんだか置いてけぼりをくらった気分で。コンラートの出立を尋ねたら、既にという答えだった。
 自分は打ち合わせで部屋に籠っていたんだし。そんなところに彼が顔を出すはずもなく。別に怒って黙って出て行ったわけじゃないんだから。
 そう、ちょっと冷静になって――明日は帰ってこい。


 会議室の扉が開かれて退出しても、そこにコンラートが控えているわけではないのを見ると、また朝のもやもやが甦る。
 いってらっしゃいを言わなかったことが、こんなにも尾を引くとは思わなかった、と、こっそり嘆息する。
「あのあたりが落とし所だ」
 あとをついてくる宰相にたしなめられる。振り返ったら。
「領主達の足並みを揃えさせることも大事だろう。あまり偏ったことをするといらん対立を生みかねん」
 続く言葉に、会議室の中でのことを指しているのだと気がついて。曖昧に頷いた。
「…違うのか?」
「何が」
「だからその…」
 どことなく上の空の魔王に、そういえば今日は護衛の姿がないのだと気がつく。一日や二日外してなんで今更こうなのかと呆れて、それ以上追及しなかったグウェンダルは正解だった。さもなくば「だってコンラッド、黙って出ていっちゃうし」なんて泣き言を聞かされかねない。
「ああ、そういえばイェリネック卿が登城しているそうだな」
 彼がヴォルテールの地方貴族であることもあって、この後の報告も兼ねた夕食の席にグウェンダルも同席することになっている。馬鹿馬鹿しい理由で落ち込んでいられるのも目ざわりなので、ユーリが浮上しそうな話を振ってやるが。
「そう。きっといいワインとか持ってきてくれるだろうからって、夕食時にセッティングしてくれたんだよ。コンラッドが…ね……――」
 ええい、鬱陶しいっ!


 明けて翌日。執務の間の休憩時。お茶の横に添えられた小さな焼き菓子を眺めながらユーリは物憂い溜息をひとつ。
 ジャムをはさんだビスケットは、意外にも彼の好物だったりする。あまり甘い物など食べない彼の、そんな例外もユーリは知っている。そしてそれに使うジャムは苺じゃないといけないのも。
 イチゴジャムサンドから目を離して、少しぬるくなった紅茶を飲みほす。
 また、昨日から居ない護衛のことを考えていたのに気がついて、そんな自分に苛立つ。
「どこかお加減がよろしくないのでは」
 ギュンターが心配げに尋ねてくる。
「グウェンダルも気分がすぐれないとかで今日はこっちに出てきませんし…」
 風邪でも流行っているのではないかと、年を感じさせない湖畔族の王佐は美しい顔を曇らせる。
「あれ。グウェン具合悪いの?」
「いえ、自室の方で仕事をしているそうですけれど」
「ふーん。昨夜は元気そうだったけどなぁ――おれは元気だよ。お茶、もう一杯貰えるかな?」
 ギュンターが席を外した間に、ビスケットを二つ、ナプキンに包む。
 今日もいい天気。曇ったガラス越しに明るい光が差し込む。年が明けて、徐々に日の入は遅くなっている。まだ高い太陽を探して。
「ほら、また溜息」
 そうギュンターに差し出された湯気の立つカップを手にして、執務に戻る。
 ――昨朝コンラッドはなんだか不機嫌だったけれど、具体的に彼を怒らせる何かがあったわけではない。ただ何か引っかかることがあったとか、虫の居所が悪かったとか…そういった放っておいたってかまわない類のものだ。自分に挨拶なく出て行ったのだって、打ち合わせ中だったからだし。
 昨日から何度も繰り返した思考をトレースする。
 自分が謝らないといけないようなことは、何もない――はず。だけど気がつかないうちに怒らせていたのなら、謝ったっていいんだ。あいつは時々、変に意固地だから。居心地悪い空気が続くくらいだったら、俺が大人の対応を取ってやったっていい。
 そんなことをつらつら考えながら、決済の箱に入れられた書類に機械的にサインを書き込んでいく。
 窓の外で、溶けた雪が枝から滑り落ちた音がした。
 ぬかるんだ道で馬を駆る困難を思ってまたうっかり漏れそうになった溜息を、慌てて飲み込む。


 夕刻までにと言っていたコンラートは夕食の時間になっても戻らなかった。日は二時以上も前にとっくに沈んで、暗闇を行くことを考えれば帰城は明日だ。現地での仕事に手間取っているのだろうと、取り立てて誰も気にしていない。
 ユーリだってそれはよくわかっている。わかってはいるが。
「陛下、やはり具合が悪いのではないですか」
 湧かない食欲のまま皿を下げさせているのを王佐が見咎める。
「あぁ、いや、別にそういうんじゃないよ」
 医師を呼べと騒ぎ立てそうになるのを宥めつつ。
「ちょっとくたびれただけだから――うん、今日はもう休むわ」
 寝ちまえば。次に目を覚ましたら、あいつは帰ってくる。なんだったら本当に風邪でも引いたことにして、帰ってくるまで眠ってたっていい。具合が悪いって言ったら、たとえあいつがまだ怒ってたって、免じて許してくれるだろうし。
 なんて計算もしつつ。  だけどいつもの習慣を無視して早々に寝台に入ったって、一向に眠気は訪れない。法学の専門書なんていう睡眠薬にしかならなさそうな書物を持ち込んだって、結局同じ行を何度も目で追うだけで、頭に入らないし、眠くもならない。
 護衛の部屋へ行こうか、と思う。本人が居なくったって、部屋に残る彼の気配は気持を落ち着かせてくれる。
 このままここでイライラと寝返りを繰り返しているのと、温まった寝床を抜け出して火の気のないコンラートの部屋を訪ねるのと――逡巡していると、寝室の外で人の出入りの気配。控え目なノックの音。ユーリは慌てて本を開く。
「まだ起きてらっしゃったんですか」
 返事を待たずにドアを開けたコンラートが、読書のための明りにそう言って。全く怒っている様子のない、いつもの声。ユーリは本からゆっくり目を上げた。
 目の慣れない暗がりの中に、旅装のままのコンラート。髪は夜露を含んで少し乱れている。でも、いつもと変わりのない、綺麗な微笑み。いつもの立ち姿。
「ただいま帰りました」
「ん。お帰り」
 寝床から手を伸ばしたら、届くところまで来てくれる。雪の残る中を駆けて来た身体からはひんやりと冷気が立ち上る。氷のように冷えた唇がユーリの唇を掠める。
「寒かったろ。早く風呂入ってきなよ」
 ユーリもいつもの口調でそう告げて。いつもの無関心具合で手元の本に視線を戻す。
「あなたも、もう遅いですから早く寝て下さいね」
 そう残して退出するのに生返事で答えた。
 扉が閉まる音を聞いて、この二日間で一番長い溜息をこぼす。ふわりと暖かな安堵で息の最後の方はくすくすいう笑いに変わる。
 急に眠気と――空腹を覚えて。寝台を抜け出して隣室のテーブルの上に置いたままだったナプキン包みを取って戻る。行儀悪く寝台の中で菓子を口に放り込む。就寝前に食べるにはあまり良くなさそうな甘味がじんわり嬉しくて。またちょっと、くすくす笑った。


End


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