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いつも何度でも
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■ 前 編 ■
コンラートは横たわる自分を覗き込んでいる人影に気がついた。かすむ目を凝らし、ぼうっとする意識を叱咤して。捕らえた姿はだが、まだ夢を見ているのかと自らを疑ってしまう類のものだった。
息をするのも忘れるほどの美しい造詣が、自分を見つめていて。
肩につくかどうかの髪は艶やかな黒に見える。強い魔力を擁する兄とて、濃灰色でここまで濃い色ではない、漆黒だ。そして彼の身につけているのまで黒衣だと気がついて、彼は魔王かそれに連なるものだと考えた。
そう、すべては推測だ。魔王の護衛たるコンラートですら、初めて目にする人物だった。
強い光を湛えた瞳がふと緩む。その色も黒。黒、だ。眞王廟におわす大賢者猊下と同じ。
綻ぶように笑むのを目にし、このとても美しい彼がそれまでひどく緊張していたのだとわかった。
「よかった。気がついて」
僅かに鼻にかかる、柔らかな声で告げる。
握り直されて、自分の右手が温かな彼の両手の中に囚われているのも認識した。利き手を押さえられている不安よりも、安堵を感じて、そう思った自分に不信を覚える。
彼から悪意のようなものは感じない。むしろただただ労わりだ。おそらく最高位に近いほどの高貴な人物が自分に付き添ってくれている。と考えて、ふと、魔王の顔が出てこないことに気がついた。
「どっか痛い?」
考え込んだコンラートに、双黒の持ち主が心配げに声をかける。
「いえ――」
かろうじてそれだけ返し。
焦燥が押し寄せる。なぜ、守るべき対象を思い出すことが出来ないのか。魔王陛下、だ。自分の母親のことはわかる。百年前に退位して――そうだ、その次に即位した…。
「けど結構ひどく頭、怪我してたし――ギーゼラ呼んでくるよ」
握りしめていたコンラートの右手を掛布の中に仕舞って席を立つのを、思わず掴んで引き止めていた。
「魔…王…陛下?」
「え?」
軽く見張った黒い瞳に、間違えたのかと慌てる。
思い出すことのできない魔王その人と、この目の前にいる黒衣を纏った双黒。ごく自然に、それはイコールで繋がるだろうと考えたのだが。
彼は首をすくめ、どこか幼い仕草で口を尖らせた。
「ごめん…だけどつい。待てなくて――けどそんな無茶もしてないから。ちょびっと傷塞いだだけだから」
彼の指が目の前を横切って頭部に這わされる。
「あ…けど結構でかいハゲが…。てか、あんただって。ああいうのは、おれだって怒るよ? 打ちどころ悪かったら死んでんだぞ」
髪を掻き分けるのにパラパラと固まった血が零れた。頭を怪我したのか。
「庇ってくれてありがとうだけど…だけど。何度も言うようだけど、あんたが死んだら魔王の厳命に背いた大罪人で広場に骸晒すから」
うかうか死なないように、と神妙な顔で続けられる。
彼が魔王であるのは間違いないらしいとはわかったけれど、それ以外が一切理解できない。
「だからごめん。機嫌直しなよ」
どうにも甘やかに聞こえる声音で続けれて、髪を梳く指が滑り降りて頬を這う。
ね?と覗きこまれてたじろいだ。その吸い込まれそうな黒い瞳が間近に迫るのもだけど、更に、魔王にここまで親密な振る舞いをされる理由がわからない。例え彼が臣下との距離の取り方が近いタイプなのだとしても、これではまるで――。
「陛下…」
頭の下の枕に遮られて大した距離は稼げなかったが精一杯身を引いた。息詰まるようなこの空気はどうも拙いと思ったのだ。やはり魔王のことも、彼の意図も何ひとつ理解できなかったけれど。
彼の片眉がピクリと震えた。黒い艶を湛えた瞳が温度を下げる。彼個人のことはわからずとも、これは高貴な人の不興を買ったのだということは知れる。
だが魔王はコンラートを咎めることはせずに、何かを飲み込むように一呼吸した。
「だってすげー血だって出るし。あんたは意識がないし。魔力で怪我治したりするの、あんた嫌がんのわかってたけど――あの時はそんなんどうでもいい位びっくりして」
相変わらずすぐ傍からもたらされる言葉は切なく悲しげで、訳もなく大丈夫だからと慰めて差し上げたくなるようなものだった。が。その内容から察するに、魔王の護衛のくせに肝心の魔王がわからない自分とは違って、彼は自分をよく知るらしい。
更に考える。自分は怪我をした。おそらく魔王を庇って。魔王はその魔力をもって自分を癒してくれた。その上心配してこうやって付いてくれている、と。
いくら代わりに怪我をしたからと言ってもそれが護衛というものなのであるから、この魔王は随分と優しいことだ――それとも暇なのか、と、政をすべて摂政に任せていた前王のことを思い出す。宰相と王佐が有能だからそれでもいいのか、と二人の顔を思い浮かべて、そんなことは普通にきちんとわかっている自分の記憶の疎らさに首をかしげる。
魔王のことだけが、わからないのだ。その側近のことも、自分の職務に関しても何の不自由もなくわかっているのに。自分は朝から晩まで魔王に張り付いて警護して…――。
「コンラッド? 大丈夫か?」
恐る恐る肩を叩かれて目の前の人に焦点を合わせる。
「やっぱまだ気分悪い? ギーゼラ呼ぶ…」
コンラートは沸き起こる不安に押されるように目の前の人の腕を掴んだ。
「覚えていないんです。自分が何をしていたのか…あ、いや、自分が誰であるとか何であるだとかはわかっていて…朝起きた時間とか…朝食の献立だとかは言えるのですが…その時誰がそばにいたとかいうのが――」
自分の記憶に欠損がある。三日前のとりわけ特別でもないことを聞かれても、もうあやふやだったりするのはよくあることだが、今朝朝食を誰と取ったのか、もしくは一人だったのかもしれない――そんなことが思い出せない。
そのまま記憶を進めても、所々に穴がある。その時誰と居たのか。何の為にそこに居たのか。遡らせても同じだった。
例えばひと月ほど前にあった夜会で自分は白い礼服に派手にワインを零されて――そんな出来事は思い出せるのに、なぜそんなことになったのかというと曖昧に、指の隙間からすり抜けていくように掴めなくなる。
握りしめた手を宥めるように撫でられて、コンラートは自分が魔王に働いていた無礼に気がついた。
「あ…失礼…」
柄になく取り乱したことを恥じて、そんな自分に違和を感じていたら。魔王の心配気に寄せられていた眉が更に寄って、引っ込めた手がまた捕らえられる。その手がとても温かだと感じたのは、自分の手足から血の気が引いていたためだろう。
「頭に怪我したから――一時的に混乱しているんだよ。きっと」
心配しなくてもいいと、労わる微笑みに乱れる気持ちが凪ぐ。
「あちこちぶつけた痣もすごいし。しばらくゆっくり休んでいいよ」
魔王がコンラートの袖口をたくし上げると、確かに赤や青の内出血の跡がついていた。言われてみれば、体が強張っているのは意識を失くしていたからばかりではないようだ。だが手足に欠損は無い様だと、そんなことを確認しているうちに一時の混乱は収まる。そして、記憶にむらがあるというこの恐慌を魔王陛下にぶつけるのは誤りだと、そんな真っ当な判断も下せるようになっていた。
「書庫で書類整理してたんだよ。そんで書架が傾いて雪崩みたいに本が降ってくるのをあんたが庇ってくれて――覚えてない?」
魔王が恐る恐る、といった風に尋ねるのにも冷静に対応できた。
「無理と無茶で詰め込まれていた書庫のことはわかるのですが」
その書類整理の件と事故の記憶がない。
「ん。そっか。まぁおいおい思い出すんじゃね?」
そうっと撫でられた手に大丈夫だよと言われている気がした。
「取り敢えず念のためにギーゼラ呼ぼう」
コンラートは魔王の護衛であり、その自分が肝心の護衛対象のことがわからないなど。それは随分厄介な事態であると思われた。だが有耶無耶にしておけることでもない。コンラートは席を立った背中に告げた。
「申し上げにくいのですが――私は陛下のことも思い出せないのです」
■ 後 編 ■
「せいぜい考え過ぎて焼き切れてしまったといったところだろう」
不意に宰相から告げられて、ユーリは外交文書から顔を上げた。昼下がりの執務室は王と宰相の二人だけ。コンラートは療養を命じられて自室に軟禁状態だった。
何が、とは言わずだが、最愛の護衛からすっかりその存在を忘却されてしまった魔王には違えることなく意味を汲み取れる。
「記憶から抹殺したいほどイヤだったとかならブチのめしてるよ」
片頬ゆがめてそう返すと、グウェンダルはそうか、とだけ答えた。
大変わかりにくいけれど慰められているらしい。
確かにコンラートがユーリの記憶だけをすっかり綺麗に消し去ってしまったその理由を想像してみれば。実は存在を全否定したいほど疎ましかった、だとか。ユーリの居ない世界で一からやり直したかった、だとか。あまり――まったくいいようには考えられない。
だがコンラートとも百年越しの付き合いだ。そんな否定的なことばかりを信じてしまうには、長い時間がたち過ぎた。
まずコンラートの愛情を根底から疑うなんてできない。それくらいは解らされている。
大体百年もつるんでいれば、例え敵同士だって情くらい湧くもんだ――そんな実感はしかし。その情に縛られているのに耐えきれなくなって…しがらみを一切合財捨ててしてしまいたかったのか。などという考えを引き寄せてしまったり…。
まぁ全く泰然自若としていられるわけでもなかった。さっきから一向に進まない書類のページが示すように。
結局のところ、なんだかんだと理屈を捏ねても、愛する人に否定されてユーリは大層落ち込んでいた。
「なぁ、やっぱそうだと思う? あいつ、おれのことヤになたんだとかじゃないよなぁ」
強気な言葉とは裏腹な、今度は弱音を漏らすと、当人の兄でもある宰相は気まずげに視線を彷徨わせながらもきっぱりと肯定する。
「あいつがそんなこと。あるわけがない」
「だよなぁ」
ユーリは手にした書類を机に放り投げ、天井を仰いだ。
「誰だってそう思うもんなぁ。――こんな大事件なのに侍女も衛兵も文官もスルーなんだぜ。だーれも心配とかしねーの。あぁまたいつもの」
「犬も食わないなんとやら、か」
「…ちがうって」
勿論別に仲たがいをしているわけではない。単に一方的にコンラートがユーリのことを忘れ去っているだけだ。
ただそういった類の二人の間のトラブルは、その絆を誰もが疑いもしないために、微笑ましく傍観で済まされてしまっている。
「はたから見たらそうなんだろうけどなぁ。ちくしょう、他人事だと思いやがって…」
「そういうわけでもないだろうが」
書類の上に突っ伏したユーリの背中に声がかけられる。
「――わかってる、ケド。…近衛兵たちが、おれが何日であいつを落とすかって賭けてんだぜ」
「なんだそれは」
そんな情報までは宰相も把握していないらしい。
「おれのことをすっかり忘れて真っ白白紙な状態になったコンラッドが、何日で再びおれと恋に落ちるかって。だからあいつにこれまでの関係を言うなってさ」
「は? おまえはそれを承知したのか」
呆れた声に顔を伏せたまま頷いた。
だって。もし。コンラートが、ユーリとのしがらみを断ち切りたく思っていて忘れてしまっているのなら。そんなこと。告げるなんて、できやしないじゃないか。
記憶の欠落ということからも大事を取って安静を言い渡されていたコンラートだったが、ユーリが訪ねるともちろん床についているはずもなく、積み上げた報告書の綴りに目を通しているところだった。
警護対象の記憶がなくとも職務の返上を認めなかったのはユーリだが、コンラートはその穴を公式の記録で埋めようとしているらしい。
「そんなあせらなくってもいいよ。もしかしたらまたひょっこり思い出すかもしれないし」
これは間違いなくユーリの希望。
「それに別に過去なんて必要ないだろう。あんたの仕事は今のおれを守ることだ」
机に広げられた綴りをパタンと閉じて、ユーリは直立して自分を迎えたコンラートに座るように促した。
先触れを立てて来訪を予告するべきだったかもしれない。せめてノックの後、応えを待つだとか。
いつものように当たり前にドアを開けたら、突然の魔王の来訪にコンラートの顔に戸惑いが浮かんだのを見てしまった。
それはそうだ。ただの護衛の私室を魔王がそう頻繁に訪れるものではない。上司にちょくちょくプライベートまで介入されたら、うっとおしいことこの上ないだろう。
そういうことも理解はしていても押しかけるのを止められないのだから。どうせ手放せないならば中途半端に休養を与えておくより護衛につかせた方がいいのかもしれない。
ユーリが角を挟んだ隣に腰を下ろすのを待って、コンラートも席に着いた。
いつもだったらユーリはまずこんな位置には座らない。コンラートの隣だ。並んで腿なりが触れ合うくらいの距離でないと、とたんに彼の機嫌が悪くなるからだ。といいつつ、ユーリだってよほどの暑い盛りでない限り、それについてやぶさかではない。
慣れない位置は横並びとは違って相手の様子がよく見える。取り繕った下の、落ち着かないコンラートの様子だとか。そんなのもすべてユーリにはお見通しだが、筒抜けになっていることすらコンラートは忘れているのだ。
内心の嘆息を押し殺して「調子はどう?」と尋ねる。
上司が部下に具合を尋ねるというのは、仕事を受ける気があるかどうかの確認だ。
魔王の来訪が仕事の話だとわかると安心したのか、緊張が解ける。
「ええ、もうすっかり」
「じゃあ明日から少しずつ護衛に戻って貰おうかな」
それから、我ながら自虐的だと思いながら付け加えた。
「やっぱりあんたじゃないと落ち着かなくってさ」
案の定、とたんにぎくりと強張らせるコンラートを目の端に捕らえてユーリは話はそれだけだと腰を上げる。
忘れてしまったくせに。なのに少し踏み込んだだけで過剰な反応を示す。なんだ、記憶に残らずともそういったことは忘れないのか。恨みが深すぎて染みついてるんだったら嫌だ――皮肉に笑ったつもりが身ぶるいが出た。
幸い礼を取るコンラートには見られなかったが。
「この身をかけて陛下をお守りいたします」
長年の魔王業でポーカーフェイスだってすっかり身に着いたはずだった。
「よろしく」
旋毛を見下ろしながら返した言葉は平静だったと思う。
コンラートを早々に護衛の任に戻したのは正解だったとユーリはにんまりする。
移動中や人と会う間、後ろに従えている分にはこれまでとなんら変わらない。執務室でだって、これまでと同じく、自然体でいるようでいて油断なく気を配る立ち姿はそのままだ。
それ以外の、他愛のない言葉のやりとりだとか、言葉にすらならない部分さえ考えなければ。まったくこれまで通り。ユーリを警護するコンラート。
彼の部屋に押し掛けたり、踏み込んだ会話を要求したりしなければ。彼は相変わらず頼りになる完ぺきな護衛だった。
ユーリはきちんと魔王の分を守ってさえすればいい。ついその姿を確かめたくなるのを堪え、次の案件を引き寄せる。ただ、その時グウェンダルが軽く咳払いをたのに目をやり、更にその向こうのコンラートを視界にとらえてしまった。
嫌なら見なければいい。ユーリが、ではなく、コンラートが、だ。気がつけばユーリのことを見ている。そして視線が絡みそうになれば苦々しく逸らすのだ。
溜息を飲み込んで。書面に向かう。ただじっと見つめられるのなら本望だ。その視線の質さえ気にしなければ。たとえ向けられるのが憎悪だって、それがコンラートからなら上等だと、ここ数日でユーリはそんな風にさえ思うようになっていた。
なのである夜、魔王の私室へと送り届けられた時に「少しお時間を頂戴しても」と切り出されて。ユーリはてっきり引導を渡されるかと覚悟したのだ。
コンラートに向かいの席を勧め、キャビネットから酒とグラスを二つ取り出す。コンラートの好みにするか自分を優先するかに少し迷い、そんなことに迷うのも少しでも決定的な言葉を先延ばしにしたいからだと気がついて。結局とっておきの極上物を取りだした。
酷いことを告げられて、傷心のままに自棄酒に突入しても翌朝残りにくい――そんな姑息な計算が働いたのだ。何を言われたって聞き入れる気なんてなかったけれど、全く傷つかないわけでもない。
この封を開けるときは、もちろん自分も相伴に与ると根拠のない権利をずっと主張していたコンラートだったが、もちろん目の前の彼にはそんなやりとりの記憶だってない。律儀に分け与えようとしている自分が少し可笑しくなった。
「で、何?」
自然に浮かんだ笑みに乗せて問いかけたら、コンラートはすうっと息を呑んだ。
大体コンラートは決してわかりやすい男ではない。表情を取り繕うことに掛けては超一流だ。だが、何分長い付き合い――いや、どうしてだかユーリにはわかるのだ。穏やかな表情の下の僅かな変化にいちいち動揺する自分に面倒くさくなる。
コンラートが長い溜息を吐いた。苛立ちを吐きだすかのように。視線は刃のように険呑でユーリを動けなくする。
「私は何を忘れているのでしょう」
始まりはそんな質問だった。
ユーリが魔王であること。それ以外に。何がコンラートにそんな疑問を持たせるようになったのか――気をつけていたつもりだったが思わせぶりな素振りをとっていたか…何かコンラートを不快にさせるような。だからコンラートはあんなにも物言いたげな目を? 忘れているくせに。
「何を忘れていると思う?」
はっきり言えよと促したら。
「私の部屋に陛下の私物が」
答えは予想外に間抜けなものだった。
「ああ――なるほど」
うっかりしていた。確かにコンラートの部屋には幾つか着替を用意してあるし、持ち込んでそのまま置きっぱなしにしてしまっている資料だとかもあった。
護衛の部屋に半同棲の王。それは不思議だろう。
「で、あんたの解釈は?」
愉快になって聞きたくなった。
「私の指輪と陛下のその」
ユーリは自分の左薬指の細い指輪に目を落とした。よくある、と言ってしまえばそれまでのシンプルなものだが、紛うことなくコンラートの指に嵌るのと揃いだ。
「それに関して私の記憶がないことも」
コンラートの記憶にないということは、魔王が絡んでいるということ。
「なんだ。指輪の意味はわかってるんだ」
もっとも今では眞魔国にもすっかり浸透してしまった風俗だった。頷くのを見て、こんなことじゃ近衛兵達の賭けは不成立だなと考える。
コンラートの膝の上に置かれた両手は拳を作って、白くなるまで力が込められていた。
そんなにしたらきっと当たる指輪が痛いだろうに。そんなにも嫌か。あぁ、それとも困っているのか。記憶にはないのですが魔王とデキてました――。
思いついた例えに笑ってしまった。
酔いつぶれて目が覚めたら隣に如何にもな裸の上司が寝てた、とか。確かに。既にホラーだ。
睨みつけられて、ユーリは笑いを引っ込める。だが笑うぐらいしかできない。
「その通りだよ。あんたの予想通り。だけどそこまで職務に含まれてないから安心しろ。今のあんたは魔王の護衛でしかない」
向かい合って座るのは嫌だ。顔だって何だって丸見えになる。平静が崩れないようにユーリはそうっと息を詰める。
コンラートは相変わらず険しい視線を向けている。
「辞任は許さない」
気味悪がられようと疎まれようと。
きっぱり言い切って注いだままになっていた杯に口を付けた。味なんてわからない。ただこれ以上コンラートの顔を見ていたくなかったし、自分も見られたくなかった。
「陛下は今もおれが好きですか」
杯を傾ける手が止まる。
「好きだよ」
強いアルコールに喉が焼ける。手の中の液体は美しい琥珀色をしていた。
好きだけど、それだけだ。それだけだから見逃して――。
磨かれたガラスの杯がぶわっとぼやけた。熱くなる目の縁に、慌ててユーリは席を立つ。なんだ最悪だ。恰好悪い、と。
「待って」
呼び止める声を無視して部屋を横切る。追いかける靴音。逃げ込もうとした奥の扉に手をかけたところで捕まった。
「逃げないで。俺が好きなんでしょう」
だけど殺してやりたいと思う。
「寝台の横の二番目の抽斗は見たか」
コンラートは黙ったままだ。無言が答えだ。そこには二人が身体を繋ぐ際に必要なものが放り込んであった。
「隣の部屋にも同じ物が――」
終いまで言う前に乱暴に肩をドアに押しつけられて、噛みつくみたいにして口を塞がれた。
寝てみたらわかることもある。真理だとユーリは思った。例えばねちっこくコンラートから向けられていた視線の理由だとか。
笑ってしまう。気がつかなかったのはきっとユーリの引け目のせいだ。いくら憎しみと紙一重だといえど。あれが恋情故にだなんてまさか、だった。
あんたはこういうのが嫌になったんじゃなかったのかと胸倉掴んでやりたい思いだが――百年物のしがらみはコンラートにとってもそう簡単に断ち切れるものではなかったらしい。
ただ辟易したのはコンラートがユーリのことを尊称でしか呼ばないことだった。
陛下なんて呼び方で求められたことなんてなくって。囁かれるたんびに、自分の中のコンラッドの恋人だった事実まで丁寧に消していかれる気がした。
顔かたちも声も身体も抱擁だってよく知る、すっかり馴染んだ相手。だからこそ余計に違和感を覚える。こんな冷え冷えとした気持ちは、慣れなくって持て余す。
今ならまだ、否定して。今のことだって間違いにしてしまうことだって出来るんじゃないかと、隣の男から背を向けて、そんなことを考えていた。
そばに居るだけでいいと思ったくせに結局それだけでは我慢が出来なくなって。それで身体を重ねてたら今度は気持ちも満たして欲しくなる。だけど、そしたら。また、いつか。
両手で顔を覆ったら、瞼に冷えた指先が心地よかった。
ただの王と家臣ならば、ずっとそばに置くことを許してもらえるだろうか。
突如起こったその振動は、横たわっていた分、良くわかった。
「あ…」
不審を感じると同時にくぐもった爆発音が聞こえて激しい揺れが襲った。
即座にコンラートの身体が被さる。項に彼の緊張を痛いくらいに感じて、きつく腕に閉じ込められ。ビリビリ窓ガラスが震え、長く鳴動が続く中、ユーリはじっと息を殺していた。
そして非常事態だというのに浮かんだのは、こんなふうに守ってもらえるならば単なる王と護衛で充分だ、という安堵に似た決心だった。
たとえユーリの記憶を失くしてしまったって、ユーリが王である限りコンラートはいつだって変わらず一番近くで守ってくれる。ちゃんとユーリとの百年分の記憶があって、ユーリの恋人だった時ともなんら変わらずに。あの事故の起こった書庫と同じ、身を呈して庇われる状態におかれて、ユーリはそんな絶対に気がついた。
窓枠が余韻に震えるのを残して揺れが収まると、にわかに部屋の外が騒がしくなり始めた。
眞魔国はユーリの生まれ故郷に比べて地震が少ない。それよりよっぽど頻発するのが。
「アニシナさん…」
「おそらく」
ユーリの呟きを受けてコンラートが頷く。周囲を警戒しつつユーリの上からどいて。
今頃兵士が地下実験室へと確認に走っているだろう。血の盟約に守られた王城がアニシナの破壊行為にも丈夫に出来ていて良かった。そんなことを考えていたから、ユーリはコンラートの変化を見落としていた。
「あれ? あ。ユーリ…」
間抜けな調子で呼ばれて顔を上げたら、呆然とコンラートがこちらを見詰めていた。存在を確かめるように瞬きしている。
不思議なものでも目にするような反応に眉が寄る。
「何? どうしたコン…」
コンラッド、と呼びかけようとして、先程彼が自分のことをユーリと言ったことに気がついた。
「コンラッド…あんた…」
思い出したのか――とは声にならなかった。
コンラートは困り切った顔でユーリを見ている。いや、困ったふりをして。
かっと血が上る。腹が立つのか。嬉しいのか。安堵しているのか。恥ずかしいのか。色んな感情が混ぜこぜで、何だかもうよくわからないけれど。だがコンラートが妙に嬉しそうで、笑み崩れそうなのをなんとか我慢しているのは、よーくわかった。
拳で思いっきり肩を殴りつけて、頭から掛布を引被る。
そうだこいつに限って、だった――背中を向けて後悔に臍を噛む。
すっかり取り乱してドツボにハマって。あり得ない悲観的な想像に溺れて勝手にあぷあぷしてた自分が恥ずかしくってならない。
ユーリが彼を手放せないのと同じように、彼だって同じようにユーリから離れられない。そんなこと、当然わかっていた筈なのに。
「辛い思いをさせてしまって申し訳ありませんでした」
神妙な台詞だけれど何となく声が浮かれている。
思い出しただけでなく、記憶が無かったあいだのこともしっかり覚えているらしい。ユーリは歯噛みする。
人の気も知らないでっと、はらわたが煮えくりかえるが。そんなこんなのユーリの葛藤をきっちりしっかり理解しているからこその、この機嫌の良さなのだろうと思い至って。
ユーリは蓑虫のようにぎゅっと身体に寝具を巻き付けて、不貞寝を決め込むことにした。
「すいません、ユーリ」と、全くすまなそうでない声が掛る。
『陛下』に対するものとは違う調子。むしろ恋人に対する甘えをたっぷり含んで。安堵と羞恥で息が詰まる。
「本当に――忘れてしまいたいだなんてあるはずもないのに。もしあるとしたらもう一度あなたを口説く楽しみのためかな」
盛大に脂下がっているだろうのが見なくったってわかる。
「くっそーっ!知るか馬鹿っ」
宥めるような手が延ばされて、ユーリは蓑虫のまま振り払った。
だけど口先だけの謝罪で、手は離れない。
「でもね、ユーリ。たとえ俺があなたを忘れたくって忘れたのだとしても。きっと俺は何度だってあなたを愛してしまって同じことを繰り返すんだと思いますよ」
俺はどうしたってあなたからは逃げられない。そう言外に告げられるのを、火照る頬を敷布に擦りつけながら聞いていた。
そんなこと。知っている。
だけど。
百年の蓄積の賜物である、このまったりぬるくて限りなく怠惰な居心地の良さをユーリはなかなか気に入っていた。
随分久しぶりに感じるそんな空気を堪能しつつ。ユーリはもう一回謝って貰ったらキスをして仕切りなおしだ、と、そんな算段をつけて。
「ユーリ…」
End
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