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5つのキスの仕草 + 定番ネタで5のお題
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01 目を閉じてキスのおねだり――記憶喪失
やたら威厳のある大男と小柄な赤毛の女性が言い争っていた。
「なにも陛下を実験に付き合わせることはなかろう」
「勿論わたくしとて、それくらい弁えてます」
「だったら、どうしてこんなことになった」
「陛下が思いの外意地汚くあらせられたということでしょうね」
おれはその男の机にあった毒入りクッキーを盗み食いして、現在絶賛毒に冒されている最中らしい。症状としては、記憶がないこと。
思いの外意地汚くて他人の机の上のクッキーを盗み食いしてしまうようなおれは、これでも陛下と呼ばれる立場だと教えてくれたのは、駆けつけた護衛のウェラー卿コンラート。「コンラッド、でいいですよ」とやたら笑顔が眩しいナイスオヤジ。
ついでに「お腹が空いてらしたんですよ。謁見が押して満足に昼食も召し上がれなかったから」と慰めてくれた。
「残念ながらまだ効果に持続性はありません。今の状態では一日二日程度で元に戻ってしまいます」
赤毛の女性が言うのに大男は「二日ほどなら何とかなるか」と溜息をついた。
おれが国王ならば彼はこの国の宰相だそうだ。
「なるほど。どうりで偉そうだ」
率直な感想にコンラッドはぷっと吹き出して、宰相殿は凍りそうな視線を投げつけてきた。
「…すいません」
「このあたりは形式的におまえの承認が必要なだけだから、丁度いいだろう」
そう目の前に積まれた書類におれはサインを入れる。
渋谷有利、と高等魔族文字とは違う署名は何度か練習したら書けるようになって、どうやらこれが本当に自分の名前らしいと納得する。
「なぁ、おれってお飾りの王様なの?」
「え?」
意外な質問だったらしくコンラッドは目を丸くした。いや、質問が率直過ぎたのかな?
「そういう微妙な立ち位置もわかっといた方がいいかなぁって」
「まさか。あなたは正真正銘のこの国の統治者ですよ。皆あなたのことを敬愛してます」
「おまえよばわりなのに」
「あれは彼の愛情表現です」
コンラッドはこわもて宰相殿を振り返って笑って、ぽんとおれの頭に手を置いた。彼は眉間に深い皺を寄せて咳払いをひとつした。
ものすごくわかりにくいよ!
子供にするような仕草で髪を掻きまわすのは、これはどうやらコンラッドの愛情表現らしい。
そんな扱いに反発を覚えない、むしろちょっとくすぐったくなるおれは、そのあたりで渋谷有利という王様の人物像を作ることにする。
署名が終わると何かの儀式があるからと、その段取りを急いで覚えることになった。
天井が高いだだっ広いホールみたいなところへ行って、ここでも教授はコンラッドだ。
この護衛殿は先程からずっとおれが魔王渋谷有利として振舞うのに適切で簡潔なアドバイスを与えてくれている。王様の護衛というのは何でもこなすらしい。
コンラッドはおれを正面の一段高い所に立たせた。
「あちらから入って来て、ここまで進んで下さい。そしたら取次の者が任官状を渡しますから、それを読みあげて…あ、文字は解りますよね」
おれは頷いた。
「覚えている部分と忘れている部分と、どういう線引きになっているのか知らないけどね。文字は解る――あ、そう言えばさっきした署名の文字。あれは普通のじゃないよなぁ」
おれの呟きを聞いてコンラッドはとても興味深げな表情をした。
「あれがどういう文字だとお思いですか?」
「え?…いや、いいや。眞王様の加護のある特別な文字だとか、そんな感じかなぁって思ってるけど――どっちにしろ一日二日で思い出すんだろ? どうでもいいっていうか。深く考えないようにしてる」
自分では前向きだと思っている消極的な答えを返すと、コンラッドは声を上げて笑った。
「不安じゃないですか? 自分が何者かわからない状態で」
わざと作ったような意地悪げな口調。
「やめてくれよ。あんまりそっちを考えないようにしてるんだから」
もちろん、不安が無いわけじゃない。
ちょうど良い高さの段に腰を下ろしてから、王様がこんなことしちゃあ叱られるかなと思ったけれど、コンラッドも段に凭れるように座り込んだ。
彼が大らかなのか、この王様がいつもこんな調子なのかはわからない。
「すぐに思い出すならあれこれ思い悩むのは無駄ってもんだろ。とりあえずやり過ごせばいいかなって。それに、それを言うならあんたらもだろ?」
「確かにね」
長い脚をもてあまし気味に片膝立てて、スマートな立ち振る舞いをするのにこういう不調法な仕草も決まっていて、コンラッドは大層もてるんだろうなとぼんやり思った。
護衛と言うからには腕もそれなりだろうし、眉をとぎらせるのは古い傷跡のようだ。口角をきゅっと上げて笑うのも楽しげに瞳を輝かせるのも、落ち着いた大人が垣間見せるやんちゃな表情、とか言って、きっとご婦人方を喜ばせるんだろう。
ふと彼の瞳が単なるヘイゼルでないのに気がついた。思わず見とれているとコンラッドが怪訝な顔をして、慌てて視線を外す。
「その、あんたの瞳。変わった色をしているな」
「ええ。あなたも気に入って下さってますよ」
「――へえ」
おざなりな相槌を打ったものの、そこにとても濃いものを感じる。護衛の瞳の色を気に入るって、なんなのだろう――深く突っ込んではいけない気がして、やっぱり流すことにする。どうせあと一日二日のことだ。
なのにコンラッドはおれの腕を引いた。瞳が真っ直ぐに覗けるように。
光彩が銀色に鈍く光って見える。なんだか急に鼓動が早くなって、息が詰まる気がしてきた。
「あ、いや、確かに珍しいけど…どうぞおかまいな…」
息が吸えない。二人の間の空気が濃すぎるのか。
「俺達、つきあってるんです」
言っちまいやがったよ、こいつ。おれが御遠慮申し上げた方が良いかなーと思っていたデリケートな部分を、あっさりぶちまけて下さいましたよ。
コンラッドは俺を観察するみたいにじっとみつめている。口元は笑っているけど、冗談なのかどうなのかまでは判らない。ただ、楽しんでいるのは確か。
「あのう。おれは女の子が好きな気がするんですが」
「ええ、そうですね」
「あんたはどう見ても男だよね」
「ええ」
それと、近いです。とても。だけどしっかり掴んだ腕で距離を作らせてくれない。
「そんなあなたと俺がこうなるにはそれだけの、紆余曲折山あり谷あり波乱万丈のロマンスがあったんですよ」
上目づかいで小首を傾げてみられてもまったく可愛くないけれど、薄く刷いた笑みの大人の色気がものすごい。
「…それを今のおれに言ってどうしろと」
コンラッドが俺を捕まえているのとは逆の手を伸ばした。剣士らしく深爪に整えられた指先が俺の唇をなぞる。
「記憶が戻ってからでいい話だよね? 明後日まで置いといていいことだよね?!」
一瞬、確かにいじめっ子の表情を浮かべ、魅惑的な瞳は瞼の奥に閉ざされる。
おれ、記憶を失って以来、最大のピンチ。
02 腕を回して熱いキス――入れ替わり
ゆーたいりだつー…寝起きの頭でそう思った。
幽体離脱、だ。目の前に自分がいる。実は鏡、じゃなくて。寝台の横に立ってこっちを覗きこんでいる『自分』。
なんだ、おれは死ぬのか。死んだのか。そのわりに何処も痛くないし苦しくない。安楽の内に死んだのか。だったらまぁいい。もうちょっと寝よう。
ユーリは自分が夢を見ているのだと疑っていなかった。
掛布を肩の上まで引っ張り上げて背中を向けた。手足を丸めて落ち着く体勢になって眠りの底に舞い戻る。
なのに。
「寝なおさないで」
夢の中のもう一人の自分に揺り動かされてしぶしぶ目を開けた。
「なんだ…夢の中だったら寝ててもいいじゃん…」
「残念ながら夢じゃないですから。現実です」
非常識をのたまう『おれ』を見上げた。
「現実? おれが分裂してるのが?」
幽体離脱から分裂になったのは、自分に肉体が備わっていると知覚したからだ。
どうにも鏡を覗いているような気持ちにしかならない顔を見つめた。
「…コンラッド?」
毎朝起こしてくれる護衛の名前を呟いてみる。
『おれ』はそうだと頷いて見せて、確かに自分でしか有り得ないのに、これはコンラートなのかもしれない、とユーリは思った。
更にはなんとなく自分の声が変だ。寝起きだけじゃ済まされない違和感。
「なーんかあいつがしゃべってるみたいな…ひょっとして」
「ええ。あなたは俺です」
ユーリは散々鏡の前でコンラートの顔した自分の顔をぺたぺたやって、次にユーリの顔をしたコンラートの顔もぺたぺたやった。現実なのか。現実なんだな。不条理だけど!
「あなたを見ているより鏡を見ている方が楽しいんですけど」
ユーリの声をしたコンラートが残念そうに呟く。
「だよなぁ。ああ、でもさ」
中身ユーリは少し顎をそらしぎみに、斜めを向いて鏡の中の自分、コンラートの姿に視線を投げる。
「おおっ」
次は角度を変えて片頬だけで笑って見せる。
「わぁぁ」
「止めて下さいっ! 俺はそんなナルシストじゃないですから!」
見るに堪えなくなった中身コンラートがユーリを鏡の前から引きはがす。
「けちー。いいじゃないか、減るもんじゃないし」
「あなたも俺が鏡の前でうっとりしてたら嫌でしょう?」
考えてみたら確かにちょっとサブイボが立ちそうだったので、続きはあとでこっそりやろうとユーリは引き下がった。
そして二人して相談の結果。ユーリとコンラートが入れ替わっちゃった『だけ』で、特に困ることも…ない? どうせそのうち元に戻るだろう的な対応をとることにした。
そもそも精神が入れ替わるなんて極めて不安定な状態が、長続きするはずがない。ほっときゃそのうち戻るだろう。それが自然の理というものだ。
実家に帰ってるアニシナを呼び戻す必要もないかと結論付けた。
実際、二人がこっそり入れ替わったところで何の差し障りもなかった。
たまたまユーリの仕事も落ち着いていて、日常のルーティンのような業務ばかりだったこともある。魔王が執務室で書類を捌いていたって、隣の王佐や宰相はそれが実は護衛だなんて思いもしない。
一度だけ、護衛が欠伸を噛み殺しているところをグウェンダルに見られたが、それだって疲れているのではないかと労わられたくらい。
初めはうっかり魔王の前を歩きそうになっていた護衛も、昼を過ぎるころには黒い頭を眺めながら斜め後ろをキープすることに慣れた。
小さな会議が終わって部屋を出たところで、護衛を呼びとめる声がした。
フォンロシュフォール卿は魔王に足止めした非礼を詫びて護衛に持ちかけてきた。
「実は領地から甥っ子が出てきてね。あれは剣豪と名高いあなたにとても憧れているんだよ。急な話で悪いが、どうだろう。そう、ほんの一時間で良い。相手をしてやってくれないか」
自慢じゃないが今の護衛には腕に覚えなんて小指の先ほどもありはしない。教師は最高だったけど、結局どうせこいつが居るんだし、とか。向こうだって結局は自分が居るし、と思ってたはずで。あまり身に付かなかった。
それでも長年、当の剣豪の指南を受けてきたことは事実。それにこの身体能力があればなんとかなるかも。なんてちょっとその気になっていたのに。
魔王が突如、腕を取って引っ張った。護衛相手にらしからぬ距離だ。
「申し訳ないが、しばらくはお貸しする訳にいかなくてね。――そう、代わりにグリエ・ヨザックでも。ああ、あいつの剣筋は上流向けじゃないか。だったらフォンクライスト卿はどうだろう?」
「ちょっ、あんた…」
「何か不都合でも? ウェラー卿」
「いーえ」
いささか強引な魔王の介入にフォンロシュフォール卿は鼻白んだが、まさか文句など出るはずがない。
「フォンクライスト卿とはこれまた豪勢ですなぁ! いやぁ、これは甥っ子も泣いて喜ぶでしょうな」
あんた師を売ったな、と咎める視線を、魔王は素知らぬ顔で無視した。
あと、おれ、そんな場所もわきまえずイチャイチャしないし! おれの評判落とすな〜。
滞りなく入れ替わったまま一日が過ぎて、さて、就寝時の警備はどうするべきか、となった。
不寝番の兵に守られるのは魔王の身体。魔王の中身は心許無い腕前の剣豪の内だ。
だったら城の中で一番安全な魔王の寝室で一緒に寝ればいい。もとよりこのような事態でなくともあることなので何も不都合はない。
しかし万が一、不測の事態が起こった場合。
「腕が立つのはどっちなんだろうな」
「まだ昼間のことを根に持ってます?」
「べっつにー。魔王の専属護衛に案外大したことないなんて噂立つのも困るしー」
言葉に反してユーリの口調は屈託まみれだ。
「そういうわけではありませんよ。ただ、あなたに怪我でもさせたらと」
「それもあんたの身体じゃん」
だけどユーリだってコンラートの身体に怪我を負わせたいわけではない。昼間の横やりは妥当なものだったのだと納得するしかないのだが。それでも。
「もうちょっとやりようはあったと思うけどな!」
コンラートは小さく笑って夜風が吹き込む窓を閉めに立った。
外見は魔王でもついこんなふうに立ち働いてしまう。ユーリも決して横柄なわけではないが、こっちは単に気が回らない。
「なぁ。あんた、おれを見ないよね」
「そんなこと…」
コンラートは否定しようとして、だけど諦めたように息を吐いた。
「だって自分の姿見たって楽しくないじゃないですか」
「おれはずっと一日あんたのつむじ見てたぞ」
「それが仕事ですからね」
いや、護衛の仕事は周囲に警戒を払うことであって、おれを見てることじゃないだろ。
「冗談ですよ」
コンラートはにっこり笑ってみせたけど。
「誤魔化すなよ」
ユーリは戻ってきたコンラートの腕を捕まえた。そうすると流石にあからさまに逸らしはしないけど。
日頃鏡の中に見つける姿だ。それが自分とは無関係に動き回ることに気持ち悪さを覚えないわけでもない。
微笑みを繕うユーリの顔だったが、じりじりしたコンラートの緊張が伝わってくる気がした。
ユーリは手でコンラートの黒い瞳を覆い隠した。顔を寄せる。鼻先を触れ合せて唇を重ねた。
空いた方の腕でコンラートの身体を絡め取ると、いつもよりも余った感じがして、それがユーリの身体であることを教えられる。
おずおずとコンラートの腕が背中にまわる。確かめるように手を這わせて、やがて止まった。
ユーリが感じるよりも強く、きっとコンラートは自分への嫌悪を持っている。
「そんな嫌うもんじゃない。おれはコンラッドが好きだよ。凄く好き。大好き。愛してるよコンラッド」
コンラートの声が繰り返しそんなことを囁く。
自分で自分が好きだって。すごいナルシスティク。可笑しさがこみ上げるけど。
だけど、本当に。コンラートは少し自分を好きになってやればいいと、言葉の合間にキスをしながらユーリは思った。
だから代わりに何度でも言ってやる。
「コンラッドのことを愛してる」
突然魔法がとけるように元に戻ったのは、単に時間がきただけなのだろう。
それでもおまじないが通じたのかも――コンラートが少しでも自分自身を好きだと思ったからだと、そんなふうに考えれば、ユーリはちょっと嬉しくなった。
03 唇をなぞってキスの回想
――性格反転
コンラートすら置き去りにして息抜きに出てきた城下で、突然雨に振られてしまった。
急に暗くなってきた時点で何処か店にでも入れば良かったと後悔しながら、ユーリは手近な廂に飛び込んだ。夕立だ。すぐに上がるだろう。
そこに大きな鞄を雨から庇って男が飛び込んできた。
どこかで見た顔だと思った。ハチミツみたいな金髪に青い瞳。商人風の身なりに、城内ではないだろうと記憶を浚っていると向こうがユーリに気がついた。
「あぁ! いつかの美人じゃないか」
男がコンラートの声でしゃべった。
「あーっ! あんた!!」
思い出した。コンラートそっくりの声をした赤の他人、失礼極まりない奴!
半年も前のことだ。街中で耳に飛び込んできた声があまりにもコンラートに似ていて、驚いたり妙に親しみを感じたりしていたら、こともあろうかこの男はユーリにキスをして逃げたのだ。
「オイコラ、返せ、おれの唇!」
あれからしばらく、お一人で城下に行かないでください、と監視の目が厳しくなった。ま、今日は上手く抜け出したけど。
男は嬉しそうな笑顔を見せた。
「しょうがないなぁ」
そして顔を傾けて身を乗り出す。ユーリは飛び退いた。
「バカか! 何考えてんだ! いるか!」
ユーリは万感の思いを込めてもう一度「バカっ」と罵った。
「そうだ、君。名前は何ていうんだい」
生憎バカに名乗る名前など持ち合わせてはいない。
「美人、で結構」
男は「ふるってるねぇ」と喜んだ。
軽い。なんだこの羽毛のような軽薄さ。同じ声をしている分、その違和感が半端ない。
ユーリは男に向き直った。相手をしてくれると思った男は嬉しそう。
「違う。声だけ聞いてると俺の男がバカなことをしゃべっているような気がして気持ち悪いの! つーか、黙れ。その声でしゃべんな」
「お口が悪いぞ? そんなんじゃ彼氏に嫌われるぜ。折角上品な顔してるんだ」
「うるせえ。相手を見てやってるよ。対バカ仕様だ」
前回の狼藉の件があったにせよ、他人をここまで罵倒することなどないユーリだが、なぜか止められない。
はじめから虫の居所が悪かったこともあるが――それで城を抜け出して来た――きっとこの声が悪い。極めて親しい相手と同じ声。そこにどうにも親近感を覚え、なのに彼とは似ても似つかぬキャラクターという部分に盛大に裏切られた気持ちになる。
「それにしても羨ましい。こんな美人が恋人だなんて。ちょっと俺のこと、その恋人だと思って甘えてみないか。デレの部分も見てみたいな」
「いっぺん死んでこい。天国の入り口は案外近い所にあるぞ?」
「君とだったら潜ってみたいけど」
まだ湧いたことを言い続けるので、バカでも判るように教えてやった。
「おれの男は相当腕が立つ。長生きしたかったら悪いことは言わない、すぐに王都を離れた方がいい」
「へえ、そんなに強いんだ。じゃあさ、もしそいつに勝ったらオレと付き合えよ? 昔はちょっとは鳴らしたクチなんだぜ」
「おーおー。勝ったらな」
男はしばらく考え込んで、やがてひとつ頷いた。
「じゃあさ、俺と逃げようよ」
勝負するんじゃなかったのかよ。
「そんな明日をも知れない生き方してるやつよか、オレと来た方がずっといい暮らしさせてやれる。これでも結構手広く商売やってるんだ」
なぁコンラッドー、あんた、どういう人物を想像されてるんだと思うー?
「買い付けが終わったらカーベルニコフの港からスヴェレラへ行くんだ。数カ月は戻らない。なんだったらしばらく国外で暮らしたって」
…一個師団で追っ手がかかるよ。
このバカを見ていると、あいつのイラっとさせられる遠慮がちなところだって、なにか得難い美徳のような気になってくる。
「なにかな?」
「いや。おれ、あいつのこと好きだなぁって」
「ちょっと目を瞑って」
「やだよ」
男はしょうがないなぁと後ろを向いた。何を始めるつもりかとあっけにとられてたら。
「俺も愛してるよ…――その、君、名前、なんだったっけ?」
「ユーリ」
「愛してるよ、ユーリ」
判っていても、胸が躍る。往来でなんてこと言うんだ――じゃなくてー。
「こんのバカっ! さっさとスヴェレラでもどこでも行ってこい! 二度と帰ってくんな!」
ユーリの蹴りをひょいと避けて、声だけコンラートは小降りになりはじめた雨の下に飛び出した。
「じゃあまたな、ユーリ!」
憎たらしいことに投げキスなんて寄越して、人が戻り始めた街の中に紛れていく。
唇をなぞってキスの回想――なんてするかバカっ!
04 頬に触れてキスの終わり
――タイムスリップ
絡んだ舌が小さな水音を立てた。零した吐息の甘さに、ユーリはコンラートの頬を両手で包むと身を引いた。
そのまま長椅子の上に押し倒す気だったらしいのを「駄目だよ」と嗜める。
「どうして」
「それがさ。一昨日の夜のことなんだけど」
ユーリはコンラートの肩を押して傾いでいた身体を起こした。居住まいを正して遠くに追いやられていたカップを引き寄せる。
「…いつのまに」
きっと蹴飛ばしでもしてはいけないとコンラートが避難させたのだ。だったらいよいよコンラートはここで、そのつもりで。ということはあの忠告は現実だったのだろうか。
「一昨日、どうしたんです?」
「夜中に起こされたんだよ」
コンラートが怪訝な顔をした。
「一昨日はお一人でお休みでしたよね」
衛兵からそんな報告は受けていないとでも考えているのだろう。
「それがさ。『おれ』に、起こされたんだよ」
「夢の話ですか?」
「まぁ…おれもそう思って、本気にしてなかったんだけどね」
カップを干すと、コンラートがおかわりを注いだ。どうやらキスの続きはひとまずおいて、話を聞いてくれるらしい。
「その『おれ』は、三日後の未来から来たって言うんだ」
「いよいよ夢っぽいですね。その微妙に未来のあなたは、一体なんのために?」
「…しばらく執務室で不謹慎なことをするなって」
ユーリとコンラートは黙って顔を見交わした。一秒。二秒。三秒。
「だろー? けどさぁ」
「そうですねぇ」
単なる夢だと無視してしまっていいような。しかし敢えて今ここで強行しなくてもいいような。
何しろここは神聖なる国政の場で、今はお天道様まぶしいお茶の時間である。いくら王佐は領地に帰っていて来週まで不在、宰相は先程もにたあとして連行されたとはいえ、監視役が居なければいいというものでもない。
「その『おれ』が言うにはな? グウェンに見つかってしこたま怒られ…」
その時、ノックも無く扉が開いた。飛び込んできたのは当のグウェンダル。音高く閉めて、悪い物が入ってこないようにとでもいうように背中で扉を押さえる。
「間一髪、実験に掛けられる前に装置が火を噴いてな」
悪い顔色で冷や汗を拭っている。
「…あ――ああ、お帰り。無事で何より」
ユーリとコンラートは再び無言で見つめ合った。
「やっぱ夢じゃなかった?」
「ですが三日後の未来からって…あなたそんなこと出来るんですか」
「まさか。少なくとも今現在のおれはそんなこと出来ねえよ」
「それに、こう言っては何ですが、わざわざこんなことを忠告に?」
「そりゃあ…きっと、もんのすごーくっ、怒られたんじゃないのかな…」
九死に一生を得た宰相の心中を推し量りながら、囁き交わす主従だった。
05 息継ぎをして長いキス
――女装or男装
「さすがグリエちゃん。相変わらず良い身体だ」
つぶやくユーリの声には多分な敗北感。
袖や丈が長すぎることは判っていたが、何、この胸や肩の余り具合! 外から眺めていても彼のほれぼれする肉の付き方は判っていたが、脱いだらもっと凄いのね。
あんまりにもな余分にはクローゼットを漁ってスカーフを詰めてみた。
なんだこの窪み…ああ、鳩を入れるところか。さすがお庭番の戦闘服だけあって仕掛けがいっぱいだ。
最近は監視の目が厳しくて、ちょっと息抜きに出るのも一苦労だ。ついには凄腕諜報部員に借り受けたドレスで変装までする事態に。
ドレスの裾は摘まみ上げることで誤魔化して、帽子のベールを下ろせば、よし! これで絶対ばれない。
ユーリは淑女の振りで廊下を行く。足幅は小さく。音は立てない。もっとも、高さのある靴は不安定で、自然に小幅になってしまうのだけど。
王佐と出くわした時はさすがに冷汗を掻いたが、廊下の端に控えて頭を垂れていたら、まったく気付かず行ってしまって、ユーリはいよいよ自信を深めた。
だよなー、まさかおれがこんな恰好してるなんて思わないよなー。わははは!
馴染みの事務官にお辞儀してみる余裕まで出てきて、だけどユーリと見破る者はいなかった。せいぜい、誰だったかな、と怪訝な顔をされるくらい。
こんなことならもっと早くからこの手を使うんだったと、門へと続く回廊を進んでいたら。向こうからコンラートがやってきた。
誰もこれがユーリだなんて気が付かなかった。顔だって隠している。不審感をもたれないよう振舞いさえすれば、切り抜けられるはず。
ユーリは努めて背筋を伸ばした。落ち着け。堂々としていれば大丈夫。
先程王佐をやり過ごした時のように道を譲って頭を垂れた。
ウェラー卿は軽い靴音を立てながら目の前を。目の前で立ち止まった。
ばれっこない。気がつくはずがない。震えないよう、心の中で叱咤する。背中をつうと汗が滑り落ちていった。
コンラートがふ、と息を吐いた。
「御令嬢、そちらのお衣装はあなたには少々大き過ぎるようですね」
あれ。気付いてないのか? つか、通り過ぎの女性にいちいちそんなこと言ってまわってんのかこの男は!
だがコンラートは淑女に対するにはいささか乱暴な動作でユーリを引っ張り上げた。
「良く化けましたね」
あまり褒められた気がしないのは、そこまでするか、という呆れが含まれているからだ。
「するよ! しますよ! 半日で良い! 日没までには帰ってくるからおれを娑婆に出してくれー!」
「ああ、もう、そんななりして暴れないでください」
「はなせー 行かせてくれー」
もがいたら、袖口のレース飾りの中に何か引っかかるものがあった。え、何だろ…
「おっと」
食事に使うくらいの大きさの刃物が飛び出て、明後日の方にすっとんで行く。
「危ないでしょう!」
「ごめーん。けど邪魔するからだぞ。だから離せってば!」
丁度その時、警備の交代をすませて詰め所に戻ろうとしていた小隊が、立木を挟んだ小道を通りかかっていた。揉み合う男女に何事かと注意の目が向く。
「おい、あれ、閣下じゃないか」
「ホントだウェラー卿だな。さすがは希代の色男。こんな時間からこんなところで」
「けど、なぁ、あの女性、女にしてはちょっとデカ過ぎないか?」
「あっ! あれはグリエ殿だぞ? 先週猊下のお供をされて来た時、確かあんな色のドレスを…」
ウェラー卿が荒々しく女性を引き寄せた。ベールが取り払われて、小さいな帽子が転がり落ちる。女性が顔をさらしたのは一瞬にも満たない間で、間髪いれずウェラー卿が女性の顎を掴んで被さった。
『あああああっ?!』
衛兵達から声なき悲鳴が上がった。
女性はウェラー卿の腕の中でしばらく抵抗を示していたが、やがて背中を叩く拳が縋るようなものに変わる。
「何、ウェラー卿とグリエ殿?!」
「いや、しかし、伝説のルッテンベルク師団の指揮官と副官だろ」
「幼馴染なんだろ」
「今も仲が良いって陛下がおっしゃって…」
「そうだ、陛下だよ! どうすんだ?!」
『うわあああああ〜』
しかし、そこは血盟城詰の兵士。内心で大絶叫していたって、隊列は粛々と進んでいく。回廊で濃厚なキスシーンを繰り広げている恋人たちになど、まったく気付きません、とばかりに。
ただ、魔王と護衛とお庭番が三角関係という噂が血盟城を席巻するのに、そう時間はかからなかった。
End
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