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右手
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謁見の間から直接会議室へ移動している途中だった。少し時間が押していて、廊下を歩きながら事務官から説明を聞く羽目になっていた。
「このあたりまでは譲歩が必要かと」
ユーリが思っていた以上の歩み寄りを求められそうな、そんな事務官の予想に眉をひそめて。苛立ちにすこうし動作が雑になっていた。
儀礼用の裾の長い衣装で階段を昇る時の捌き方なんて染みついている筈だった。片手に資料を握っていたことも原因だったかもしれない。まぁとにかく色々注意散漫だったのだ。
でないと裾を踏ん付けて素っ転ぶなんて。
傾いだ身体をとっさに抱き止めようとした護衛を振り払う形になったのはわざとじゃない。
会議資料をこんなところでまき散らすわけには、とユーリが足掻いたからだ。
そしてその紙切れを死守した結果が、妙な角度で着いてしまった右手だった。
「あぁ、大丈夫…なんともないから」
気まずさに早口で言い訳しながら立ちあがる。
こういう時はいっそ笑ってくれた方がまだマシだとユーリは思う。囲んだ事務官達にこぞって心配されるのはどうにも辛い。
注目は浴び慣れていてもこういうドジはまた別問題だ。打ちつけた脛が痛いだとか、右手が痺れたままだとかいうのは瑣末なことで、それよりも真っ赤になっているだろう耳たぶが熱くてならなかった。
「ごめんごめん…それから――あぁ、あの話は通ってるんだっけ? ギュンターは何て言ってた?」
なんとか立て直して、一行は直前の打ち合わせを続ける。大切な資料はすぐ後ろのコンラートの手の中に預けられたけれども。
正午を少し過ぎて会議室を出たら、暫く傍を離れていたコンラートが寄って来て。この後は会議の出席者達と会食の筈だった。なのに。
「昼食は陛下のお部屋の方に用意してます」
告げるのに、やっぱりこいつは抜かりがないと感心したが――素直に出すのも癪で何も言わなかった。きっと自室にはギーゼラも待機しているのだろうと予想する。
先程転んだ時に階段に着いた手首は、恥ずかしさが納まるにつれてずきずきと熱を持つようになっていた。
きっと庇うような仕草でばれたのだろうが――ひょっとしたら転んだ時に既に判っていたのかもしれない。
振り返ったらコンラッドが「痛みますか」と聞いた。
「いつから気付いてた」
「あの場で騒がれるのは嫌みたいだったから」
そう笑いかけて、「でもまさか本当に痛めているとは思わなかったんですよ」と神妙な表情になった。
疼く右手をなんとなくその視線から庇った。とりわけ検分してこようとしないのは、やっぱり既に診断と治療の手筈が整えられているからだろう。
「他に痛いところは」
「ない。足に青丹出るだろうけど」
こんな廊下の真ん中で手を取られたって困るとはわかっていても。でも撫ぜられてる間くらいはこの痛みも紛れるんじゃないかと拗ねたくもなったり。怪我人は我が儘で気難しい。
そんなこんなでギーゼラの見立てによれば、やはり手首の筋を痛めているそうで。
しばらく動かさないようにと添え木を当ててがっちり固定されてしまった。指の先を残してぐるぐると包帯を巻き付けられて、ひどく痛々しい。
右手だった。暫く安静にしていたら問題なくまたボールを投げられると聞いてひと安心。が。右手。
「仕事できないよ」
「ですねぇ」
この状態を見て青ざめるのは宰相だとか補佐官たちの方らしい。
昼食をせっせと皿の上で切り分けながら、コンラートは淡々と――いや、むしろご機嫌…?
「どうぞ」
口元に運ばれた一口大の料理を前にして、ユーリは自分のカトラリーを左手に取った。
突き刺して口に運ぶくらいは左手で十分用足りる。乗ってやらないこともないけれど、今のユーリにはそんな余裕が無かった。
もっとも、それでしょぼーんとされてしまうと困るのだが。甘やかしすぎだと自覚しながら、ユーリは皿の上のパンを視線で促した。
こんな場合じゃ齧りついても誰も咎めないだろうけれど、これは片手ではちぎれない。かといってちぎったパンを皿の上に並べられるのも小鳥にでもなったようで微妙だ。
食事を共にするというのは親近感が湧くものだとユーリは納得する。だから会食なんて仕事が増えるんだろう。本能が求める部分を共有することによって得られる一体感なんてものがあるのかもしれない。一緒に眠れば尚更かも。そのうち会議のメンバーでパジャマパーティなんて…――薄ら寒くなって慌てて否定する。
なるほど性行為なんてその最たるもんだと、ユーリは差し出されたパンのかけらを受け入れるために口を開いた。
いずれも信頼がないと出来ないことで、はたして自分はどれほどこの護衛に委ねているのかと呆れる。だけど何の躊躇もなく任せられる相手がいるというのはひどく幸福で楽なことだった。
「陛下ーっ 陛下の右腕といえばこの私っ それは王佐の務めなのではないのですかーっ」
水っぽい絶叫が執務室に響き渡る。
思わずユーリはコンラートと顔を見合わせた。
「右腕って…ただの雑用係じゃん」
「そうだギュンター。俺はただ陛下の右手の代わりをしているだけで、陛下の代理で会議に出席するのは王佐じゃないと出来ない重責じゃないか」
「こんな文鎮代わりにあんたを使い立てるなんて。そんな人材の無駄遣い、出来る筈がないだろー――あ、資料取りに来たんじゃないの? えっと…次は港湾整備の打ち合わせだっけ?」
さっと立ちあがったコンラートがギュンターの手に綴りを渡す。
「ギュンターに任せとけば確実だもんなー」
間髪いれずにユーリが駄目押して。
「確かに。陛下のご意志を何よりも理解しているわたくしにしか出来ない仕事ではありますね。それでは陛下のご期待に応える成果を必ずや上げて参ります!」
体裁良く追い払うことに成功。
「いや、適材適所っていうか…おれが近くに居ない方が優秀だからさ…」
誰にともなしに言い訳がましく呟いて。元の位置に戻った肩にすりっと寄りかかった。
コンラートが再びペンを取り上げて、口述筆記の続きを促す。
「んーと…周辺各国との協調を第一にー、くだんの新条約の締結に関してはー」
幾らもしないうちに、今度はグウェンダルのペン先が音高く折れて集中を途切れさせる。
「お前たち…」
じっと書面を睨みつけたまま呻くグウェンダルをそうっと伺ったら。
「そういうのは部屋に帰ってやれっ」
窓を震わせる怒鳴り声が落ちてユーリはひゃっと護衛に縋りついた。
「大きな声を出さないで…陛下が怯えるだろう」
よしよし、と頭を撫でて宥められてユーリも反抗心を取り戻す。
「そうだよ。だいたいそういうのって何だよ。ちゃんと仕事してんだ…」
「大体そんなもの、さっさと治癒すればよかろう! それを何だ、神聖な執務室でいちゃいちゃいちゃいちゃとっ」
コンラートはユーリの右側にぴったりとくっついて座り。文字通りユーリの右手を務めていた。
それで丁度いい位置に慣れた肩があるものだから、ついいつものように凭れかかってしまって、そうなればコンラートも習慣で空いた左の手をユーリの頭に置いてしまうのだ。
「…普通だよな?」
「そう変わらないでしょう」
グウェンダルの手の中でペン軸がへし折れた。
「ひどいなぁグウェン。おれだって治したいと思ってるんだぞ。不自由だしさ。だけどどうしてか治癒できないんだよな。不思議なことに」
「今更お前らのことをどうこう言うつもりはないが、けじめはきちんとつけろ…」
「つけてるよなぁ。だってコンラッドさっきからおれんこと陛下って呼んでんしさ」
「はい」
部屋じゃユーリって呼ぶよとコンラートの影からそう言ったら、グウェンダルは机をぶっ叩いて立ち上がった。
「うひゃっ」
首を竦めるユーリをよそに、そのまま物凄い勢いで目の前の書類を取りまとめて、湧き目も振らずに執務室を飛び出していく。
「あー、行っちゃったぁ」
「遠慮してくれたのかな」
「なわけないだろー」
「でも折角だし」
「…馬鹿言ってないで。続き。締結に関しては慎重なる対応を望むー」
とやりながら、相変わらずぺったりくっついたままなのだから、緊張感はまるでない。
それでもそうやって幾つか用件を片付け。固定のために血行が悪くなって、すっかり冷たくなった指先をマッサージなんてされていると。思い出すのはこの怪我の場面だった。
あの時、差しのべてくれたのに振りほどいてしまった腕を、ユーリはそっと撫でた。
コンラートはその意図を探る様に、でもすぐに気がついて破顔した。
「ひどいな。俺より書類が大切なんだから」
「まさか」
伸び上がってキスをしたのは、その返答が嘘なことへの詫び。
政務は四六時中つきっきりでご機嫌をとってないと、すぐに手綱を離れて暴走する。コンラートの場合は、要所要所さえ抑えておけば、まぁ…なので。
「だけどこの場合は書類を掻き集める手間よりあなたの右手を優先してほしかったですね。拾ってくれる人手ならいっぱいあったんだから」
そんなユーリの中での比重に当てつけるかのように取り巻きの中で晒した醜態を突かれて。ユーリは意趣返しと親愛を込めて、今度は鼻先に噛みついてやった。
いつでも自分のことを見ていてくれるからこそ、精一杯職務に打ち込める。
余りに長い間ずっと近くに居てくれるせいで、すっかりその存在が当たり前になってしまっているけれど。時折、こんな幸せを実感してはもっとコンラートが愛おしくなる。
共に人生を歩む相手が彼で良かったと。
病めるときも健やかなるときも――ユーリは包帯に包まれた手の先にそっと絡むコンラートの指を見つめて思った。
End
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