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蜃の吐息

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 手にとった華奢な指先を、ユーリは握りしめる。逃げるようなそぶりは知らぬ振りで、さっさと治癒してしまう。
 切り傷の手を預けた侍女は耳たぶを真っ赤にしていたけれど、そばの護衛は知らんぷりだ。
 執務が立て込んでぶっ倒れそうになっているときでもなければ、これくらいの魔力の有効活用は誰にも文句を言われない。
 恐縮して割ったカップの片づけに戻る侍女にどういたしましてと首を振り、またちらりと護衛を伺う。
 まったく自然な視線とぶつかった。そこには「格好いいなぁと思いまして」くらいの軽い冷やかしが含まれていて、なんの含みもてらいも感じられない。ましてや焼き餅だとか皆無だ。もっとも、もっと露骨に女性と仲良くして見せたって、こいつは顔色ひとつ変えないのだ。
 あーあ、とユーリは宙を仰いだ。
 あのときはあんなに素直に取り乱してみせて可愛かったのに。懐かしく思うのは半月前の共寝の朝だ。当然、『何か』あったわけでもなく、一つしか確保できなかった寝台で雑魚寝しただけである。だけどちょっとユーリが思わせぶりな言動をとると、慌てふためいてみせた。
 面白かったのになぁ。どうやらあれは前夜の痛飲の酒が残っていただけらしい。
 酔いが醒めればすっかり元の護衛で、ユーリに何一つ気取らせてくれない。あんた、本当におれに惚れてんだっけ? あの夜酒場で盗み聞きした諸々が何かの間違いだったんじゃないかとすら感じ始めているユーリだ。

 小さな夜会の席。いつもなら退出してしまう頃になってもだらだら居続けたのに深い理由はない。
 いや、ないこともないか。先程から思わせぶりな目つきを寄越されているような気がしていた。
 ひとり広間を抜け出して、テラスから暗い夜の庭へ。
 窓から漏れる明かりを背にしばらく歩みを進めると、徐々に目が慣れてくる。庭のそこここにもランタンがしつらえてあって、手入れの行き届いた木立を浮かび上がらせていた。
 室内の楽の音よりも虫の声の方が耳につく辺りまできたとき、後ろから呼び止められた。ユーリに視線を送ってきていた女性だ。
 知らない相手ではない。ずっと以前は本当に好きだった。ひどく裏切られた気がして、顔も見たくないと思っていたことも長らくあったけれど。
 歳月は人を図太くするのか。こうやって並んで歩いたりしている、とユーリは自嘲する。
 そして今また、こうして言葉を交わして好ましく思っていたり。可愛可愛は憎いの裏なんてことも言う、とユーリは心の中で呟いた。どうとも思わない相手には憎しみすら抱かない。
「こちらへはいつ?」
「先月末に。すっかり王都も変わってしまったわね。――あなたも一段と立派になられた」
 女は笑う。年月を経てあのころよりももっと美しく。
「おれは本当にあなたが好きだったよ」
「別れを切り出したのは陛下の方なのに?」
 今度はユーリが笑う。女も笑う。
 ユーリは彼女が好きだったけど、彼女は魔王が好きだった。それだけだ。王であることも含めての自分だと、開き直ればよかったのだと今なら思うが、当時のユーリには耐えられなかった。手ひどい裏切りにあった気がして別れを告げた。
 それから何人か恋人と呼べる相手ができたけれど。かけられた呪いは強力で、いつだって「彼女はおれが魔王じゃなくたって好きになってくれたのかな」――そんなことが浮かんでしまって。
「信じないでしょうけれど、私も本当に陛下のことが好きだったのよ」
 こういう何でも口にしてしまうのが彼女の酷いところだ。だから好きになったんだけど。
 意識的にしろそうでないにしろ、普通は「あなたの地位に惹かれてる」なんてのは隠すものだ。その点までもがあけすけだった。その正直さを愛せればよかったのだけれど、いかんせん、ユーリの器が足りなかったのだ。
「信じられるよ、今ならね。あなたは嘘をつかない」
 女は何よりの言葉だと微笑んだ。
「ありがとうユーリ」
 昔のように名前を呼ばれた。彼女のなめらかな声でそう呼ばれるのが、とても好きだったと思い出す。
「もし、」
 今夜姿を見たときからずっと考えていたこと。だけど実際に行動に移す気なんてなかったのに。衝動的に口にして。
「こちらにいらっしゃいましたか」
 突如割って入った護衛の声に留められた。
「お話中失礼を。陛下、フォンヴォルテール郷が探してますよ」
「あ…ああ。わかった」
 気を削がれてがっかりしているのかほっとしているのか解らないユーリの前で、女はドレスの裾を摘んで礼をとってみせた。
「すまない、また――」
 今度、と次を約束しようとしたのを飲み込んで、ユーリはその場を後にする。
「すいません」
 コンラートの謝罪にいやと答える。
 衝動に任せて言ってしまいそうだったけれど、一度別れた男女がよりを戻したって良いことなんてない気もする。撚り直した紐は元のようにはならない。どうやったって不自然なしこりが残るものだ。
 ユーリは吹っ切るようにコンラートを振り返った。
「グウェンの用って?」
「ああ、それは嘘です」
「へ?」
「だからすいませんって言ったでしょう」
 なんだそれ。てっきり話の途中に邪魔をすることに対してだと思った。――邪魔をする? ユーリはまじまじとコンラートの顔を眺めた。
「邪魔したの?」
「はい」
 腹立たしいほどになんらいつもと変わらない。だが「なんで?」の問いにはふっと目元をゆるめて見せて。
「嫌だったからです」
 目だけで笑うそのかすかな表情に、ユーリは息を飲む。
 やっぱりあの晩、酒場でユーリが聞いたのは間違いではなかったのだ。理屈でなく確信する。
 ひょっとしたらユーリがコンラートの気持ちを知ってることだって――確認しようにも、すっかり怖じ気付いてしまって。逃げるように暗い庭から広間へと戻る。
 夜会の喧噪に包まれて、やっとユーリは人心地つく。眩しいくらいの明かりとたくさんの人目があることに勢いを得て確かめれば、後ろにつく護衛はまた素知らぬ顔。
 あの時ほど酔っていれば可愛気があるのに。ユーリはこっそり嘆息した。


End


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