『My Dear』




「ただいま戻りました」
 魔王陛下の直轄地へと入ると共に、それまで行動を共にしてきた部下たちをおいてきた。
 一人、愛馬を駆りて城へと戻ったコンラートは、真っ直ぐに向かった王の部屋でその姿を見つけるなり、ようやく肩の力を抜いた。
「おかえり、コンラッド」
 既に日付が変わろうとする時刻。休む前だったのだろうくつろいだ格好のままソファに腰を沈めていたユーリは、突然の来客に表情を和らげ、手にしていた書類をテーブルへと置いた。
「こんな時間まで仕事を?」
「あんただってそうだろ。戻ってくるのは明日だと思ってた」
「ユーリ」
 汚れた旅装から着替える時間も惜しく、いつものように陛下と呼び窘められるような余裕もないままではあったけれど、汚してはならないと最後の理性で触れたがる手を堪えたコンラートの気持ちを崩すように、立ち上がったユーリが間合いを詰める。
「コンラッド」
 少し首が傾げられると肩まで伸びた艶やかな黒髪が揺れる。間近から見上げてくる瞳がゆっくりと細められると同時に、
「おなか、すいた」
 唇がねだるように動かされた。

 軽く湯を使って体を清めてから、厨房に頼んでおいたお茶と軽食のトレイを受け取り、再び王のもとへ。
「おかえり!」
 先ほどよりも声が弾んで聞こえるのは、コンラートの被害妄想か。
 顔に出さぬようにとつとめながら、カップに紅茶を注ぐ。彼の好みに合わせて、砂糖とミルクを入れて混ぜるところまですませる間に、「いただきます」と行儀良く告げた彼はサンドイッチに手を伸ばしていた。
「夕食をとれないほど、忙しかったんですか?」
「そういうわけじゃないよ。ちょっと忙しかったのは確かだけど」
 彼の国政に取り組む真摯な姿は仕える者として誇らしくあるが、それで体を壊しては元も子もない。その熱心さは時折、コンラートが苦言を呈さねばならぬほどだ。
 不在の間も、不健康な生活をしていたのかと思えば、表情が曇る。
「美味しい。コンラッドも食べる?」
「いいえ、俺は結構です」
 そんなコンラートの内心など気付かない主は食事に夢中。軽めに用意してもらったサンドウィッチはあっという間に彼の胃へと収まり、休むことなくデザートへと手が伸びた。
 カットされたオレンジに豪快にかぶりつけば、溢れだした果汁が彼の指を伝って手首まで濡らす。
「甘い」
 あわてて手首を嘗める姿は、とても楽しそうだ。
 だが、それを見守るコンラートは楽しくない。
 予定を早めて戻ってきたのは、彼の夜食を用意するためではないのだから。
 おかえりという言葉は貰ったけれど、まだキスさえしていない。
「行儀が悪いですよ」
「だって、美味しいんだもん」
 それはそうだろう。彼に与えられるものはすべて最上級でなければならない。
「あんたも食べなよ」
 指先に摘まれたフルーツよりも、その果汁で濡れた彼の指先の方が、そしてそれ以上に濡れた唇の方がよほどコンラートには魅力的に見えた。
 とっさにフルーツを持つ彼の手首を掴み、衝動のままに唇を重ねる。確かに彼の言うように甘いオレンジの果汁の味が口の中に広がった。
「ん……」
「ユーリ」
 彼の手からオレンジが落ちるのもかまわず、味が消えてしまうまで舌で味わって、ようやく満足して唇を離したコンラートの視線の先にはとろけそうに細められた黒曜石の瞳。
 誘いかけるような表情を見てしまえば欲が出る。
 けれど。
「ねむい」
 彼の唇から漏れた予想外の言葉に、二度目のキスは叶わずに終わった。

 ベッドまでの僅かな距離でさえ歩くことを嫌がるユーリを、コンラートは抱き上げた。
 おとなしく首に絡まった腕は、先ほどの言葉が嘘ではないと証明するように些か力がない。
 出来ることならばこのままもう少し抱きしめて甘い時間を過ごしたかったのだが、それはどうやっても無理なようで、内心の落胆を隠さずにコンラートはため息を漏らした。
「疲れてる?」
 強行軍で帰ってきた。疲れていないといえば嘘になるが、肉体的な疲労よりは彼の元にいられない時間の方が堪える。
 疲れなど吹き飛ぶだろうと期待して帰ってきた途端のこの扱いにはさすがに不満はあるけれど、どちらかと問われれば答えはノーだ。歳はとったけれど、まだそこまでヤワではない。
「それは、あなたでしょう?」
 執務が忙しかったのだろう。夢中になると睡眠時間を削ってでも無理をすることを、コンラートはよく知っている。
 そんなコンラートの心配と不満を知ってか知らずか、ベッドへと下ろされたユーリは、首へと絡めたままの腕を引き寄せるようにしてコンラートをベッドへと引きずり込んだ。
「鳩とばしてくれただろ。帰ってくるのは明日だと思ってたけど、ちょっと期待もしてた。あんたなら、おれに会いたくて少しぐらい無理するんじゃないかって」
 会いたかった、と掠れながらも届く言葉が、コンラートのささくれた心を慰めた。
「サンドイッチ、美味しかったよ。あんたがいない間、なにも美味しくなかったんだ」
「ユーリ」
「今日はよく眠れそう」
 食事がそうであったように、睡眠もまた。
 いないことで眠れないのだと暗にほのめかされては、その後の返事を待たずに眠ってしまった彼を怒ることなどできるはずがない。
「あなたって人は……」
 コンラートは隣にもぐりこむと、漏れ聞こえる寝息を守るように、恋人の身体を抱きしめた。




ユメウツツ


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