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Beautiful Sky

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 魔王が治める魔族の国、眞魔国。第二十七代国王に迎えたのは、混血でありながら双黒の持ち主だった。短い夏の終わりを告げる嵐が去った朝。空は掃き清められたように清々しく晴れ渡っていた。
 ずっと人間たちの間で暮らして来たという青年は、コンラートより少々年嵩には見えたが、二十三歳だと言った。純血種ならばまだ幼児といってもいい頃だが、混血故か人間的な成長曲線を辿って来ているらしかった。
 そして見た目相応、いや、それ以上の落ち着きとしたたかさを、コンラートはユーリに感じた。
 年の重ね方が人間的だろうと、眞王の決定に真っ向から異を唱えることなど許されるはずもなく、眞魔国はこうしてシブヤ・ユーリを新しい魔王として戴くことになった。
 コンラートは政治的な力を持ち始めていたグウェンダルに請われて、魔王の身辺警護に着くことになった。
 口さがない者は混血は混血同士、などと囁いたが、今更気にするほどの事でもない。
 事実、今まで人間の間で生きてきたユーリにとって、そちらの文化にも詳しいコンラートは適任であったらしく、二人が魔王と護衛という職務を越えて友情を育むのに時間はかからなかった。
「まさかあれが、これ程おまえに懐くとは思わなかった」
 夜更けに弟の部屋を訪れたグウェンダルは杯を傾けながら嬉しい誤算だと口元を緩めた。
「身分に拘りのない、気さくな方だからね」
 グウェンダルは淡い微笑みを湛えて頷く。きっとユーリの、ヴォルフラムあたりが「軽々しい」と柳眉を逆立てそうな言動を思い出しているのだろう。
 貴族でもなかったユーリを魔王らしくと、日頃厳しく当たりはするが、彼がユーリを気に入っているのは周知のことだ。
 だが、とグウェンダルが声を落とした。
「あいつは時折、こちらが驚くほど老獪なことを言う。あれで生を受けて二十年そこらというのだから、そう思えば人間とは恐ろしいものだな」
「まぁ見た目相応ということで、丁度良いんじゃないか。俺も幼児のお守よりはやりやすい」
 肩をすくめてみせると、グウェンダルは別のように取ったようで、躊躇うように視線を彷徨わせた。
「おまえが軍籍には戻らないと言うから。ならば丁度良いポストだと思ったんだが――だが、復帰するならいつでも。おまえの指揮下で働きたいと言う者は今も大勢いるのだぞ」
 先の大戦でのコンラートの働きは目覚ましく、惜しんでくれる声は未だにある。グウェンダルとしても、これまで大した恩恵を受けて来なかった弟に報いてやりたいという気持ちがあるのだろう。
 面倒な方へ話が行きそうだと、コンラートは話を変えることにした。
「そういえば最近ずいぶん鼠が減ったって侍女が言っていたけど、グウェン、猫にちゃんと餌はやっているのかい?」
 そんな話題を持ち出されれば、乗らずにはいられない。
「もちろんだ。それに猫がネズミを狩るのは別にひもじいからだけではないのだぞ――いや、しかし衛生上…」
「侍女たちは感謝してたけどね」



 季節はゆっくりと移ろって、ユーリが玉座に就いてから半年ばかり。もうすぐ初めての春が来る。薄暗い回廊を巡りながら、ユーリは眩しそうに窓の外に目をやった。
「おれの好きな青だ」
 溶け残った雪に陽光が反射して、風景は自ら光り輝くようだった。真っ白な綿飴みたいな雲が、済んだ空を流れていく。
「雪が消えたら、一度遠乗りにでも出掛けましょう」
 コンラートの提案にユーリはぱっと顔をほころばせたが、だがすぐに仏頂面に変わる。
「雪が消えたら人も物も一気に動き出すから、今以上に忙しくなるってグウェンが言ってたぞ」
「王都の近くでも、美しい場所がたくさんありますよ」
 言外に一日くらい、と告げれば、ユーリも共犯者の笑みで頷く。
 ふいにユーリがその目を廊下の先へと転じた。何かと見やれば、押し問答をしながらの一団が姿を現した。
 うちの一人がユーリの姿を認めて駆け寄ってくる。魔王の施策と一族の利権がかちあって、前々から不満を申し立てていた者だった。どうやら業を煮やしての直談判に乗り込んできたらしい。官吏たちが押しとどめようと躍起になっているが、相手も必死だ。
 少し話をしなければこの場は収まらないかと、歩み寄るユーリの後ろにコンラートはぴたりとつける。男が何かおかしな動きをしようものなら即座に間に入れる位置だ。
「こんな所で立ち話するような内容でもない。まずは場所を移さないか」
「いえ、陛下。わざわざそのようなお時間を頂く程のこともございませぬよ」
 男が懐から獲物を取り出すのと同時に、コンラートは抜刀していた。ユーリの前に立ちふさがり、鞘を抜き払う間もなく相手の短剣を受ける。
 ガチッ、と刃がぶつかり合う音が冷えた廊下に響いて、そのままコンラートの勢いに押された男がひっくり返る。衝撃で飛んだ獲物が床に跳ねる。我に返った文官達が、慌てて取り押さえにかかった。
 騒ぎを聞きつけた衛兵達も駆けつける。
「陛下、大丈夫――」
 振り返ろうとするコンラートの視界の端を、証拠の凶器を確保する一人の文官の姿が掠めた。コンラートの本能が警鐘を鳴らす。あんな文官、ユーリの側付きに居たか?
 あれも敵だと、ユーリの前に立つ。距離が近すぎて長剣は振えない。とっさにユーリの身を守ることだけを考えたその時、思わぬ方向から突き飛ばされた。
「ユー…」
 やっと到着した兵たちが刺客を取り押さえる。
「会議は一時間後に変更。このことはまだ内密に。グウェンに指示を仰いで」
 呆然とする文官達に命じると、腕を押さえたユーリが踵を返す。
「かすり傷だ。治療もいらない」
 廊下を引き返す。コンラートは慌ててその後を追った。
 かすり傷であるはずがなかった。コンラートの服にもユーリの血が飛んでいた。そして、何より。どうしてあのような振る舞いに出たのか。
 ユーリはコンラートを庇って切られたのだ。あのままコンラートの背中に庇われていれば、ユーリは怪我など負うことは無かった。
 ユーリは魔王だ。コンラートはお魔王を守るためにこそ存在するのに。
 自分の失態と、それを引き起こしたユーリの不可解な行動に怒りすら覚えながら、コンラートはユーリに続く。
 魔王の私室まで辿りついて、外界と隔絶された瞬間、なじるような言葉が溢れた。
「どういうおつもりですか。警護対象であるあなたにあのような振る舞いをされて、俺はいったい何ですか。俺はあなたの話相手でも侍従でもない。そもそもあなたに守られる気が無いのであれば、俺など必要ないっ」
 そんなコンラートを一瞥して、ユーリは上着のボタンを外し始めた。
「着替えの用意を――と、侍従じゃないあんたには頼めないか」
 かっとなりそうなのを奥歯で噛み殺して、コンラートはクローゼットの扉に向かった。傷の手当ても必要だった。ユーリは断っていたが、医者を呼ばなくてはならない。
 上着が黒いために判らなかったが、袖を抜けばやはり、白いシャツがぐっしょりと血に濡れていた。傷口を確かめようと袖をまくりあげるが。
「だから自分の傷は治せるって言ってんじゃん」
 矯めつ眇めつ血ぬられた腕を確かめるが、そこに傷はなく。ただ汚れていても滑らかな肌があるだけだ。
 魔族には癒しの力を持つ者もいる。コンラート自身もその力を目にしたことがある。しかし、それだって本人の自己治癒の能力を高める程度のもので、小さくは無い刀傷を、このようなわずかな時間に跡形もなく消し去ってしまうようなものでは無かったはずだ。
 ユーリを見つめるコンラートの目には、驚きを通り越して畏怖のようなものが浮かんでいたかもしれない。
「おれだって胴体から首を切り離されちゃー生きてらんねーよ。だからあんたは俺の首を守れ。ウェラー卿」
 皮肉っぽくそう笑うユーリに、コンラートは背中が寒くなるのを覚えた。
 それじゃまるで化け物じゃないか、と冗談めかした心中の呟きに、またぞくっとして慌てて打ち消す。
 するりとユーリが距離を詰める。すんでのところで片が揺れるのを堪える。だが見透かしたようにユーリの秀麗な眉がわずかに曇った。避けるように視線が肩のあたりに落とされる。
「おれのそばから居なくならないでくれ」
 呟くように告げられる。遠慮がちに、けれど祈る様に。
 コンラートは堪らずユーリの背を掻き抱いた。
「もちろん、絶対にあなたのそばを離れません。ずっとあなたの近くに居させて下さい。やはり、俺はあなたの護衛ですから」
 ユーリがたとえ不死身の怪物であってもかまうものか。
 コンラートが離れていくことを、こんなにも悲しんで見せる。ユーリはユーリであるとコンラートは強く感じた。コンラートはユーリをとても大切に思っていて、ユーリだってそう感じてくれている。ならばそれ以外は余計なことだと、両腕に力を込める。ユーリの少し低い体温が、コンラートのと混じり合うくらいに。



 控え目なノックはしたが、ユーリが既に寝室の方へ引っ込んでいるものと思ったのは、部屋の中に気配を感じなかったからだ。なのでドアを開ければそこに書物を広げた魔王が居てコンラートは驚いた。
「まだ起きていらしたんですか。早くお休み下さいと申し上げたのに」
 昼間からユーリの顔色の悪さが気になっていた。今では燭台の灯りでさえ、青白いのがわかる。
 ユーリはばつが悪そうに目を伏せて笑ってみせた。蝋燭の火が揺れてユーリの顔に踊った影に、コンラートはぞくりとした。稀有な双黒というだけでなく、美貌の魔王としても名を知らしめるユーリである。彼の容姿には慣れているはずだったが、その時コンラートは凄艶な様子に戦慄した。
「ユーリ」
 喉の奥に張り付くような声を無理に押しだしたのは、そのまま彼がコンラートの手の届かないところに行ってしまうような気がしたからだ。 いや、もとよりこの世に存在しない者のような。そんな心もとない錯覚にとらわれて、コンラートはユーリの手を掴んだ。驚くほど低い体温に不安は増して力が籠る。
「あまり無理をなさらないで下さい。あなたが倒れでもしたら、皆が心を痛めます」
 何か逡巡するようにコンラートの手をじっと見ていたユーリが、顔を上げた。
「そう。――だけど心配は要らないよ。喉が渇いただけだから」
 いつもの表情で笑って見せて、自分の手を引き抜いた。肩を押してコンラートをどかせると、音もなく席を立つ。
「ならば何かお持ちしましょう。それをお飲みになって、もう本当に休んで――」
 しっ、と小さく制して、滑るように壁際へと移動する。
 この魔王は剣の扱いも体術の基本もなってなかったが、驚くほど高い身体能力と鋭い感覚を持っていた。それが魔王に選ばれるだけの素養の表れかと、妙に納得もするのだが。
 ユーリの視線の先は壁際に配された飾棚の足元。見れば何か小さな固まりが落ちている。チーズのひとかけららしい。それに向かって小さな影が走り出てくるのと、ユーリが素早く身を屈めるのは同時だった。
『チチッ、チチチッ』
 振り返ったユーリが両手に捕まえているのは、拳ほどの大きさの鼠。
「喰い尽くしちゃって。最近はなかなか捕まらなくて」
 ユーリの口ぶりはいつもの、書類仕事ばかりで気が滅入る、だとか、そんな軽い嘆きと同じものだ。それが手の中で暴れる鼠という異様な状況を際立たせていた。
「知らせずにいると心配させるようだから。あんたには教えとくよ」
 ユーリが鼠の鼻先にくちづける。紅色の紐のような長い尾が、ユーリの手首の辺りを死に物狂いで叩く。
「おれには血が必要なんだ。そんな多くなくていい。三日に一度くらい鼠を喰えば済む程度だけどな」
 ユーリの手指が、まるで鼠を慈しむかのように動く。ユーリの口元に、異様に伸びた犬歯が覗いた。
『キュッ』
 濃灰色の身体が小さく震える。
 手の中の鼠に齧りついたまま、ユーリはコンラートを見つめた。ユーリが魔王であるときに見せる、強い光を湛えて。だけどその中に一抹揺れる物を見つけて、コンラートはユーリが酷く怯えていることに気が付いた。
 手首を這いまわっていた鼠の尾が、だらりと力を失くす。ユーリは鼠の亡骸を、無造作に卓の上に置いた。片付けておいて、と背後に告げて。その足で奥の部屋に逃げ込もうとするのを寸ででコンラートは引き止めた。
「その。…いつも鼠を?」
 そろりとユーリが振り返る。何をいわれるのだろうと警戒していたのが、拍子抜けたらしい。毒気を抜かれ、戸惑うように視線が泳いだ。
「あ…ああ。城に閉じ込められてちゃ、ヒトを狩りにも行けないし。面だって割れまくりだしさ。侍女辺りに手をつけたが最後、大騒ぎだろ?」
 手をつける、の意味がそうなら、確かに大騒ぎだろう。
「この際味には拘ってらんないってことで」
「不味いんですか。鼠は」
 独り言のように続けるのを拾って返すと、そりゃそうだろ、とユーリの口調に熱が籠った。
「血を吸うタイプだけど、おれだって人型だぜ? そりゃ同じ型の血が一番に決まってんじゃん」
 同じ型とやらの血の味を思い出したのか、ちろり、とユーリが舌舐めずりをする。ユーリの頬には血色が戻っていた。
 どうやら血盟城のネズミ退治をしていたのは、グウェンダルの子猫ではなくこの主だったらしい。そんなことに気が付いて、コンラートは笑いを堪え切れなくなった。



「まだ捕まりませんか」
「さっぱり」
 深更に気配を殺して待つ魔王の存在にもなれた。しかしユーリ曰く「喰いつくした」せいか、最近はずっと顔色が悪いままだ。
 紙のような色の頬に手をやると、ユーリは嫌そうに身じろいだ。ひんやりした頬が
逃げていく。
 ユーリの秘密を共有させて貰ってから、彼はコンラートとの接触をあからさまに嫌がるようななった。いや、以前から時折コンラートと距離を取る素振りを見せることはあったのだ。うまく誤魔化していただけで。それが心を許してくれているはずの中で、小さな違和感になっていた。
 嫌われている訳でもないようなのに、と気を取り直して、コンラートはずっと考えていた提案をした。
「俺の血では駄目ですか」
「え?」
「もう長く飲んでらっしゃらないでしょう」
 ユーリは、だが、強く頭を振って声を荒げた。
「くだんねー冗談言うなよ」
「けれどあなたの身体が心配です。鼠より人の方が美味だって言いましたよね」
 ぎらりとユーリが殺気立った眼差しを向ける。
 コンラートは唾を呑みそうになるのを堪える。
「俺ならこれまでと同じように黙っていてさし上げられる。干からびるまで吸い尽くされるわけではないのでしょう?」
「まさか」
 と吐き捨てながら、ユーリはふらりと立ち上がった。
「おれが必死に誘惑と戦ってんのにさ」
 言葉ほどの勢いもなく。ユーリがおずおずと伸ばした手が、コンラートに届く。左胸の上、拍動を感じ取ろうとするかのように押し当てられた。
「おや、誘惑に抗ってあのつれない素振りだったんですか。俺はてっきり嫌われているのかと心配しましたよ」
 ユーリは嫌そうに鼻の上に皺を寄せた。
「調子に乗んなよ」
 そしてコンラートの襟元に顔を寄せる。
「あんたは血の匂いが濃いんだ」
「たくさんの血を浴びてきましたから」
「何人くらい殺してきた?」
「――大勢」
 そうか、と、まるでユーリが安堵するかのように抱きしめてきたのに、コンラートは、自分の罪が生血を啜って生きてきた彼の罪悪感を軽くするせいだと思った。――そのときは。
「ほんとにいいの?」
 恐る恐る出される問いにコンラートは微笑んで見せた。この主の具合の悪そうな様子を傍で見ているのは、とても苦痛だったから。そして、実は動機としてはこちらの方が大きいかもしれない。ユーリには自分が必要なのだと、そんな支配欲のようなもの。
「俺にはキスはして下さらない?」
 軽口を叩くと、ユーリは笑ってコンラートの鼻先を噛んだ。
 ユーリの手で襟元を寛げられる。冷たい指先が何かを探るように辿る。
 愛撫のようにユーリの唇が行き来して、つい、腰に手を廻した時、首筋にじんと冷たい刺激を感じた。それはじりじりと食い込んでくる。生理的な怖れに息を詰めていたら、ふいに身体中の神経を啜りあげられるような快感が走った。とっさに震える指でユーリの身体に縋る。
 長いような、一瞬のことのような時間が過ぎて、ユーリが身を放した。
「ごめん」
 うっかり酷いことをしてしまったかのような、後悔に満ちた声音とうらはらに、みるみるユーリの頬は薔薇色に染まっていく。熱っぽく潤んだ目に再びぞくりとして、先程覚えた深い官能と結びついた。離れて行きそうだった身体を抱き留める。
「わっ。だ、大丈夫? おれ、吸いすぎた?」
 貧血でも起こしたかと慌てるユーリを、違う、と腕の中で宥めながら、もう二度と嫌だと思う。
「もう、俺以外の血は吸わないで下さい。これからも俺の血を差し上げるから」
 たとえ命と引き換えたって。ユーリがこのような行為を自分意外とするなんて、許せそうになかった。
「もう鼠も駄目です」



「だっておれ、五百年は生きてるし」
 ユーリは知るはずのない先の大戦や、もっと以前の話にも遅れずついてくる。魔王の側近たちは、密かにユーリの自称二十三歳に疑いを持っていたが、そもそも年齢を誤魔化す理由などないと、問題にもしてこなかった。先の魔王だって年齢詐称をしていたのだ。今更不都合もない。
 だが、ユーリには理由があったのだった。
 聞かされたコンラートは唖然とした。確かにそれは長寿である魔族にしたところで規格外である。しかも外見は青年。
 見た目から自分と同年代とばかり思っていたコンラートは動揺を隠しきれない。
「つい、人間の世間が長かったせいで、二十三とか言っちゃったけどさ。百歳くらいにしといた方が良かったよな」
「ひょっとして。年をとらない、とか言いますか」
 恐る恐るのコンラートの問いにけろっと返してくれる。
「だってヴァンパイアだもん。お約束だろ」
 たしか以前に、首を落とされない限りは死なないのだと言っていた。案外、双黒よりも大きな魔王の資性かもしれない。国民がユーリの不老不死に気が付いたところで、眞王廟には既に似たような存在がある。
 そこまで考えて、やっとコンラートは息をついた。ユーリがはるかに年上だったという事実は変わらないわけだが。
「では、あなたに血を吸われた俺も、すでに不老不死ですか」
 思いつきは、そんなわけあるか、と一蹴される。
「はやり病みたいに言うな。そんな簡単にヴァンパイアが増えるわけないだろ」
「確かにそれだったら、今頃国中に吸血鼠が蔓延してますよね」
 ユーリがしかめっ面をする。不味いという鼠の味を思い出したのかもしれない。
「だいたい、あんた、血が吸いたい?」
「いいえ。あなたへあれを施すことになら、興味がありますが」
「ばーか」
 ユーリは笑ったが、彼に血を吸われる折りのあの感覚は、何度受けても慣れることのない、とても甘美なものだ。
「だけど実際、ヴァンパイアになるにはヴァンパイアの生血を飲むんだけどな」
「飲む?」
「だって普通の人間にあんな牙、ないだろ?」
 今のユーリの口元からわずかに覗く犬歯は、普通の小さなものだ。
「それではあなたも誰か、他のヴァンパイアの血を?」
 ユーリがどういう経緯でヴァンパイアになったのか、とても興味が湧いたが。遠い昔にね、と短く答えるのに、それ以上は訊ねられなくなった。
 長らく人間の国で暮らして来たというユーリは、短命な彼らの中では異質でしかなかったかもしれない。
 ふとコンラートは、人間だった父親のことを思い出した。少年期あたりでぴたりと成長が止まったコンラートを置いて、ダンヒーリーは年々老いて行った。それはとても自然で当たり前なことだったけれど、取り残されるような心細さを感じたものだ。
もっともコンラートの場合、周囲は混血を含め魔族ばかりで、駆け足で死へ向かって行ったのは父親だけだったわけだが。
「魔族の長寿を聞いて嬉しかったんだよ。ここなら俺もずっと楽に生きられるってね。それにウルリーケときたら八百年だろっ? 笑っちゃったよ」
 その下宣巫女に次ぐ程の時を生き、この先も生き続ける人は、そう言って笑った。
 隣を駆け抜けるように生きて死んでいく人間を、どれだけ見送って来たのか、その表情からは伺うことは出来なかった。けれど時折、縋るような目で見てくる彼からは、決して慣れてなどいないのだと知れた。



 雪が消えれば遠乗りに、というユーリとの約束は、結局果たされることは無かった。ユーリが周囲の期待をはるかに越えて魔王として優秀だったからだ。
 今では誰もが単なる見かけどおりの青年ではないと気が付いているが、王が不老不死のヴァンパイアであることを知っているのは、コンラートだけだ。あまり語りたがらないが、ただ平穏に五百年を生きてきた訳ではないらしい。さもありなん。双黒は隠せても、彼の魅力は人を引き付けずにはいられない。
 ユーリは王として一番必要ともいえる、類い稀なカリスマを持っていた。
 誰もが彼の高い理想を叶えたいと尽力した結果、ユーリの変革は瞬く間に推し進められて行った。それは国民に新しい価値観と希望をもたらしたが、既得権益を奪われた一部の貴族と真っ向から対立することになった。
 冬の終わりに王宮内で命を狙われたのを手始めに、ユーリが双黒であるというだけの王ではないと知れるにつれて、送り込まれる刺客は増えていった。宣託により選ばれし王に仇なすは眞王の怒りに触れると、言い慣わされてきたはずだったが。「天罰が下るかどうかは、おれが死んでみないことにはわからないからなぁ」とはユーリの言である。
 そんな理由と、優秀ゆえに仕事に忙殺されていたこともあり、気軽に遠乗りになど出られる状況ではなかったのである。
 それでも一年が過ぎ、突貫で行われた改変が動き出す頃には、敵対勢力にも真っ向から対立するよりはという空気が流れ始め。ユーリはようやく平穏な日々を送れるようになった。結論で言えばそれは油断に他ならなかったのだけど。
 ユーリが、一度自分の国を見てみたい、と言った。王位に就いてから休みなく働き続けてきたユーリに、同情が湧いた。ごく一部の側近にしか知らせずに、予定を組んだ。商人に身をやつし、極力目立たぬようごくわずかの供を連れて。

 眞魔国は短い夏を迎えていた。
 王都を抜けて森と草地と畑がパッチワークのように広がる景色に、ユーリは子供のように目を輝かした。それは見慣れたコンラートにも美しく思えるものであったが、これまでずっと王城の奥に籠められていたユーリにしたら、いかほどのものであったろう。
 牧草を波のようにたわませて風が渡ればはしゃぎ、遠くに湖面がきらめけば喜んだ。そんなユーリの様子を微笑ましく見ていれば、彼が五百年も齢を重ねたヴァンパイアであることなど、信じられなくなるのだ。何よりユーリは、太陽の下こそが相応しかった。
「陽光が苦手であるという迷信は、嘘だったんですね」
「そりゃ個人差ってやつじゃね? 宵っ張りもいるだろうし」
 赤茶色に染めた髪を風に弄らせ、目を細めながらユーリは返す。
「そういえばあなたは朝が早いですよね」
「一日で一番気持ちのいい時間じゃないか。逃すなんてもったいない」
 ずいぶん健康的なヴァンパイアも居たものだ。
  
 美しく調和する自然と人々の営みに散々感嘆し、褒めそやしながら、ユーリは旅を楽しんだ。時折夕立にも見舞われたがおおむね天気は良好で、質量を感じさせる程の青空を、ユーリは何度も眩しそうに仰ぎ見た。
「おれ、夏生まれだからユーリって言うんだって」
 ユーリの生まれや過去に関することは聞き難くて、これまで触れない様にしていたことを後悔する。
「では、帰ったらあなたの誕生祝いをしましょう」
「あれ、魔族ってそういうのを重視しないんじゃなかったっけ?」
「普通はそうですけど、あなたの生まれた日を俺が勝手に祝うのはかまわないでしょう?」
 そう言うとユーリはちょっと照れたように、でも嬉しそうに頷いた。
「じゃああんたはいつなんだよ、誕生日」
「さぁ。夏だとしか聞いてませんが」
「やっぱ魔族ってそのへんアバウト――じゃあ一緒に、おれはあんたの誕生日を祝ってやる」
 もとより短いユーリの休暇、帰路に着く頃になって憂鬱そうな顔をして見せることもあったが、誕生祝いの計画はそんなユーリに新たな楽しみを提供したらしかった。

 明日、明後日には王都だという辺りまで来たそんな夜、突然ユーリはしまった、と声を上げた。
「どこかで誕生日プレゼント買っとけば良かった」
 ここへ至るまでに目にした珍しい工芸品だとか、地酒だとかを挙げ始める。ユーリにそれじゃあ土産でしょう、と言ったら。
「だって城に戻って用意する暇なんて与えられると思うか?」
 目一杯嫌な顔をして見せる。
「何にしても、こんな夜更けに開いているみせなんてありません。そろそろお休みなさい」
 寝室に引き取るよう促せば、ユーリはそちらとは違う入口の扉に顔を向けた。ユーリのこの反応は、コンラートも慣れたものだ。意識を研ぎ澄ませれば、確かに険呑な気配が近づいていた。
「ユーリ。いつも言ってますが」
「わかってる。守られてやるよ」
 今頃になって、しかも秘密裏に計画されたはずの旅先で狙われるなど。ユーリを廃そうとする者たちの根深さを、見誤った後悔は後廻しだった。
 扉を打ち破って侵入してきた賊の数はそう多くはなかったが、どれも選りすぐりの手練だと感じとる。
 ユーリを後ろに庇ってコンラートは敵と切り結ぶが、広くもない室内で入り乱れての戦いは不利だった。ユーリも上手とは言えない剣さばきで精いっぱい応戦するが、細かな傷が増えていく。
 これ以上はまずいと、コンラートは多少の怪我は覚悟の上で敵の懐に飛び込んだ。
「コンラッ」
 ユーリが叫ぶが、かまわずユーリに向き合う最後の一人に挑みかかる。
 全ての敵を排したコンラートに、ユーリが腕を差し伸べた。彼の胸に倒れ込みながら、コンラートは手足から力が抜け落ちていくのを感じていた。受けた傷はそれほど深くはなく、刃に毒が仕込んであったのだと知れる。
「ユー…あなたは大丈夫?」
 ユーリにもたれかかるように膝つけば、もう二度と立ち上がることも出来そうになかった。
「おれは平気。もう治った」
 コンラートの肩口の傷を強く圧迫しながら答えるユーリに、毒も効かないらしいことを確かめて安堵した。ユーリはコンラートのただならない様子に気が付いたようだった。
「すいません。俺はもう助からない。申し訳ありませんがユーリ、ここから一人で逃げて下さい。ここから三時間ほど街道沿いに進めば――」
「嫌だ」
 ユーリは血を吐くような叫びで遮った。
「嫌だ。あんたを、あんたを失うなんて嫌だ」
 コンラートは痺れる指を伸ばしてユーリの茶色い髪を梳いた。染められていても滑らかに通る。
「あんたと離れたくない。嫌だ。嫌なんだ」
 掠れる声で呟いて。変装用のガラス片を外した黒い瞳は、今は真っ赤になっていた。
 この人が泣くのを目にするのは初めてだと、コンラートは思う。ユーリが眞魔国に来てからずっと近くに居たが、だけどそれも二年に満たないことだった。コンラートは、まだユーリの事を何も知らないのだと思った。
 もっとこの人のそばに居てやりたかった。あんなにも取り残されることを怖がっていたのに。俺が居なくなれば、あなたはまた夜中にひとりで鼠を待つのだろうか。
 美しく悲しい泣き顔を眺めていたら、どこかぼんやりとしたユーリの声が降って来た。
「コンラッド。おれと一緒に来てくれるか。あんたをヴァンパイアにしてしまえば、あんたは死なない――」
 途切れた声の続きは、首を落とさない限り永遠に、だ。 
 その手があったか、とコンラートは開眼する心地だった。そうすればユーリを独りにせずにすむ。
「ええ、お願いします。俺をバンパイアにして下さい」
 ユーリはコンラートを抱えていた腕を引き抜いた。口の端から禍々しい犬歯が伸びて、白い手首を無造作に噛みつく。いつものユーリの吸血行為からは及びもつかない野蛮さで、自らの肉を食いちぎる。吐き捨てられたのは恐らく肉片。
 みるみる溢れ出す血が流れて滴った。以前ユーリはこれを啜ればいいと言っていたのに、それきりユーリは動きを止めた。
 ぽたぽたと滴が垂れる。同じように、ユーリの目から透明な滴が落ちてくる。
「早く俺に血をっ」
 ひっきりなく流れ落ちていたユーリの血が、やがて途切れるようになり、醜い手首の傷は徐々に小さくなっていく。
 ユーリは聞きわけのない子供のようにかぶりを振って泣く。
「ユーリ、俺はあなたと生きていきたい」
 それでも肩を震わししゃくりあげ続けた。
 本当は独りになるのが怖くて堪らないくせに。
 ユーリはコンラートを長く果てのない世界へ引き摺りこむことを恐れていた。長い時を独りで歩いていく孤独を知っているからこそ、同じ目に遭わせたくないのだと知れたが。
 それでも、独りでなくて二人なら。寂しくないんじゃないですか?
 いつまでも泣きやまないユーリの目の淵を拭う。そこはもう腫れて熱を持っていて、このままでは明日は色ガラスを入れられないのではと思った。
 身体は砂が詰まっているように重かったが、コンラートは渾身の力でユーリの方に腕を廻した。体重をかけて引き倒すと、彼の身体を組み敷くことが出来た。
 何事かと驚くユーリの首をゆっくりとなぞる。
「ねぇ。やっぱり俺は、あなたが俺以外の血を吸うなんて、許せないな」
 意図するところを理解して、ユーリは頷いた。
 目を閉じて。何か楽しいゲームでもしているかのようにユーリは微笑んだ。
 王を手に掛けるなんて、とんだ護衛もあったものだ。重い剣を振るうことなど、もうとうに出来なくて。ユーリの後ろに転がっていた大理石の花台の隙間に剣先を突っ込む。ユーリの首の上に刃を渡して、両手で握りしめた柄に全ての力をかける。
 ぐしゃりと気道が潰れる感触と同時に火傷しそうに熱い血飛沫が飛んだ。ユーリの苦痛を長引かせたくない一心で押し切る。がっと骨を噛んで、それから負荷が消えた。
 勢いのまま肩から倒れ込んで、慌ててユーリの首を確かめる。赤茶色の髪がごろりと転がっていた。這いずって引き寄せる。
 案じていたが、ユーリの顔は苦悶に歪んでなどおらず、血に濡れてわずかに眉を顰めていたが、それは彼がコンラートだけに見せる拗ねた表情にも似ていた。コンラートはユーリの美しい目を見たいと思った。大抵このあと、照れたようにコンラートを睨んでみせるのだ。だが、この瞼が持ち上がることはもう二度とないのだと気が付いて。急に、取り返しのつかない喪失感が押し寄せてきた。
「うわああああ」
 コンラートは狂ったようにユーリの首を掻き抱いた。我を忘れて嘆くあまり、その変化に気が付いた時には、ユーリは腕の中でもろく崩れ去りはじめていた。両手に掴むのは乾いた砂ばかり。ユーリの身体も同じ砂の山へと変化していた。
「ユーリ! ユーリ!」
 風などあるはずもないのに攫われていく。コンラートは必死になってユーリを繋ぎとめようとする。手放せなかったのは、本当はユーリよりコンラートの方だった。
「ユーリ、ユーリ」
 床を這いまわって、一握りでもいい、ユーリを――。



「陛下の御遺体は発見できなかったが、三日前に次代魔王の宣託が下った」
 コンラートは寝台の上で目が覚めた。生きていたのだ。自分は。
 現役魔王の死去で急な代替わり。宰相としては多忙を極めるのだろうグウェンダルは、随分と憔悴して見えた。外は上を下への大騒ぎだろうが、部屋は切り離されたように静かだった。
 音のない空間。窓越し、ゆっくりと雲が流れていく。雲の背景は、ユーリが好きだと言った澄んだ青。

 残されることを何よりも恐れて、なのに同じ呪いをかけることが出来なかった優しいあなたに――
 俺は同じだけの優しさを返すことが出来ましたか?


End


バッドエンドにいやーな気分になられた方へ
お口直しのおまけ →


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