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恋路の闇

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 書類箱に収められた一式を取り出す。ずっしり重い紙束の、王が目を通すべきところに細かく貼られた付箋紙を指で弾く。綴りが膨らんでしまうほどの量のそれの、後ろの方を開くと一枚の書類を抜きだした。
 眞魔国から遠く離れた海の向こうの国へ軍を差し向ける、その部隊の指揮官の任命状。
 空白になった指揮官の欄に落とした目を、ユーリはそっと閉じた。

 内戦状態にあったその国は周囲の仲介によって戦闘は終結したのだけれど――今だ説得に応じずに膠着状態に陥っている一部があった。そこへ乗り込んでいって武装解除させるのが任務だ。
 他国の軍を引き入れることに抵抗していた当事国も、侵略などあり得ないと百二十年かけて立証してきた眞魔国ならばと応じて、今回の派兵となった。
 だがいくら平和のための行動だといえども、武装させた兵士を送り込むことには変わりない。当然そこには血が流れるだろう。その犠牲を、なんとか最小限に。議論を重ね検討を繰り返し――出た結論は…半ば丸投げともいえる『現場責任の人選』だった。
 本国と遠く離れた戦場。連携は困難が予想され、その分指揮官の判断に依るところが大きくなる。
 皆の脳裏にひとりの人物が浮かんだ。若年にして救国の英雄と呼ばれた男。軍内部で抜群の人気と憧憬を集める存在。
 ただ、彼は現在微妙な立場にあったために、その名は誰の口からも出されることはなかった。
 はたして、魔王が彼を手放すか、と。
 魔王専属の護衛。それが彼の公式の身分である。しかし、側近に対する以上の気持ちを、魔王がその護衛に預けているのは周知のことだったから。

 ユーリはしばし瞑目を続けてから、軽く息を吐いてペンを取り上げた。
 インクを吸わせて。だけど、その先が少し潰れているのに気がつく。  おもむろに手元の抽斗を開けると書類を仕舞い込む。
 気を取り直すように付箋だらけの書類綴りの一番上のものを取り上げると、文字を追いだした。集中する時の――したい時の癖で、唇を親指の腹でなぞりながら。



 いささか強引に連れ込まれたコンラートの部屋の扉が閉まって、ユーリは腕を掴む手を外させながら喉の奥で笑った。
「どうしたんだよ――おれ、まだもうちょっと仕事残してんだけど」
 悪いけど今は付き合えないよ、と宥める仕草でコンラートの髪を梳く。よくある風にあしらいながら微妙な違和感を醸すのは、決して絡ませない視線のせいだ。
 コンラートが唐突な問いを投げてくる。
「ユーリ、俺のことが好きでしょう」
 ユーリは髪に潜らせた指を一瞬止めて、笑いを含んだ声と共に再び滑らせた。
「好きだよ。――だけどもう二時間くらい待ってくれたらもっと好き」
 茶化すような返事を無視して、コンラートの手がユーリの頬を捕らえる。顔を向けさせると、ユーリの漆黒の瞳がコンラートの姿を映して揺れた。
「じゃあ、言って下さい。行かせないって。自分の傍に居ろって」
 コンラートの髪を絡めたままの指に力が入る。
「何があっても離れるなと、おっしゃったのはあなたでしょう」
 わずかに見開かれた目がそのまま固まった。反して口元が小刻みに震える。
「言って下さい、ユーリ。ここは俺の部屋です」
 閉じることもかなわない瞳が潤む。苦しくなった息を継ぐのにひゅうと喉が鳴った。
「あなたはただユーリだ。俺の恋人の。だから」
 持ちこたえきれなくなった滴がほろほろと落ちて行った。コンラートに縋るようにして指も。
 政治には決して口を出さないコンラートだが。護衛として、それ以上の存在としてとして、ずっと王の傍にいる彼は、この状況もユーリの苦しみも誰よりもわかっていた。
「行…かせないよ…何処にも。あんたは…おれの、コンラッドだ…から…」
 涙で詰まる声を震わせて。それでもはっきりとユーリは告げる。決して手放せなどしない、愛しい相手に。



 昂ぶったままの気持は眠りを浅くしていたらしくて、閉じていた瞼を開くようにユーリは目覚めた。あまり眠った気がしない感覚の通りに、しんと寝静まった気配はまだ夜明けが遠いことを示している。
 すぐ隣に眠るコンラートの背中が動かないのを確認して、そうっと寝台を抜け出た。
 不寝番の衛兵を手振りで制して、所々に短くなった蝋燭がともるだけの闇が深い廊下をひたひた進む。更ける夜。耳に痛い沈黙。
 自分の部屋に戻るには曲がらないといけない角を行き過ごして、おもてへと続く廊下を進み。こんな夜明け前、見回り以外誰も寄りつかない魔王の執務室の前へと辿りつく。
 この国の政務の中心。自分の責務を果たす場所。
 芸術品のような彫刻を施された大きな厚いドアを自分の鍵で開ける。
 入ってすぐの前室は、窓からの月明かりにぼんやり青く調度を浮き上がらせている。いつもは官吏が詰めて頼もしくも殺気立った空気が満ちているそこも、今はひんやり眠りについている。足元に転がる紙屑を苦笑で拾って屑籠へ投げ入れ、更に奥の扉を潜った。
 正面、部屋の一番奥の、大きな机が目に入る。それに従うように両脇に宰相と王佐のもの。
 すでに身体が覚えてしまっている歩数で一番奥まで進む。
 重厚な黒檀のいつもの机について前を向いたならば、薄闇の中では見慣れたはずの部屋が随分大きく淋しく感じて妙に息が苦しくなった。
 抽斗の鍵が硬い音を響かせながら開く。
 取り出した書類は月明かりくらいでは判読できなくて、文字の上に指先を滑らせた。覚えてしまえば目で読む方がはるかに簡単なので、もう随分長い間使っていなかった特技だ。
 派兵先の国名。任務の概要。今更確かめなくとも諳んじるほどに繰り返した内容を辿る。
 机の上のインク壺を開けてペン先を浸す。指揮官の名を記すべき空欄にウェラー卿コンラートの文字を書きいれ、そのまま王の署名をした。
 扉の向こうに、黙って侍る護衛の気配を感じながら。ユーリはそのまま、空が白むまで座っていた。


End


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