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おはようからおやすみまで

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 コンラートは目を開けて、自分が眠っていたことを知った。よく知る自分の部屋。机に頬杖ついて――。
 よく知る、ではなかった。
 自分の部屋のようでいて、他人のもののようでもある。自分の知らない調度で設えられているけれど、不思議と馴染む。変な居心地のよさ。
 思い当たる節がひとつある――。
 百二十年後のアニシナ作の非常識によって、未来を垣間見る機会があったばかりだ。
 また、アレ、か?
 ではここは、百二十年後の自室。隣の部屋にある微かな気配は…百二十年後の自分、か?
 だが隣室に人の気配が現れて、それでも起きないなど――それに自分は任務で国には居ないのだと言われなかったか。では。
 そんな気がして、そっと寝室への扉に近づいた。
 ――気配はひとつ。ちょっとほっとする。
 音をたてないように開けると、寝台には人のふくらみ。掛布の上から覗くのは黒い髪。
 笑みがこぼれる。
 すっかり大人の男に成長して、立派に王の務めを果たして。専属の護衛なんていなくても、何の問題もないように見えたユーリは。そう言ったら、何にもわかってない、と殴りかかってきた。
 既に腫れのひいた頬に手をやる。
 俺が居ないと眠れないのだとおっしゃっていた。
 いたわしく、申し訳なく思う反面、酷く嬉しい困った感情。
 不在なことをよくご存じなのに、ここに来てしまうくらい。未来の俺は、あなたにとって大切な存在なのですね。
 強烈な告白を受けたようで、舞い上がりそうだ。実際、浮かれていたのだろう。
 コンラートは寝台の側に歩み寄った。身をかがめ、いつものように声をかける。
「おはようございます、陛下」
 百二十年たっても、このやり取りは続いているのだろうか。ちょっとした疑問といたずら心。
 案の定。
 わずかに身じろぎして、眠そうな小声がくぐもって聞こえてきた。
「へいかってゆーな」
 長めの黒髪を梳き上げたら、まだ目を閉じたままの凄麗な顔が現れた。ユーリだけれど、自分の知るユーリではない人。
 この魔王陛下を知ってから十七歳のユーリを見れば、確かにその麟片をそこここに発見して、妙に納得したのだ。だけど完成形――と言っていいのか――の破壊力は違う…。すっかり鑑賞してしまっていた自分を引き戻す。
 うっすらと笑みを刻んだ口元は、何か楽しい夢を見ていた名残なのだろうか。見るもを屈服させずにいられない強い瞳は、閉じられたままで、優しく、柔らかい印象だけがもたらされる。幸福そうな眠りを妨げるには少し、心が痛んだけれど。
 帳から漏れる光の強さは結構な時間を示していた。
「ユーリ、起きてください」
 震えた睫毛が持ち上がり、黒い瞳がのぞく。まっすぐに見て、揺らめいた。
 ほほ笑んだ形の口元はそのままに。
 その瞳から、はらはらと透明な雫があふれ出す。
「ユーリ?」
 こんな反応は予想外だった。十七歳のユーリでも慌てるが、からかわれるばかりだった相手にこんな反応を返されては――。
 すがるように片手を伸ばされて。引き取って起こすと、胸の中に飛び込んできた。震える肩が嗚咽を伝えてくる。
 いい夢を、見ていたのではないのですか?
 戸惑いながらも肩を抱いて。髪を撫で。しばしそうやって声もなく泣き続ける人を宥め続けて。
 ユーリが、ふっと吐息と共に身を離した。
「ありがとう――」
 擦れていたけれど声ははっきりしていて安堵する。
「――帰って来たんだと思った」
 自嘲気味に続けられた泣いた理由に、コンラートの血の気が引いた。
「申し訳ありませんでした。冗談が過ぎました」
 顔色をなくすコンラートに、ゆるりとかぶりを振る。 「ううん。嬉しかった。ちょっとだけだけど、幸せな夢が見れた」
 浅はかな自分の行動が悔やまれる。言ってたではないか。気持ちが不安定になるくらい俺の存在は大事なのだと。確かに自分は何もわかっていなかったらしい。自己嫌悪に陥っていると、ユーリが顔をあげた。
「ついでに、キス、して? おはようの」
 怒ってなんていないよ、と。
 赤くなった目元と唇へのキスでユーリはその謝罪を受け取ってくれる。
「腫れてる?」
 まだ濡れている睫毛を瞬かせる。
「少し。――冷やすものを持ってきましょう。それと朝食を。こちらで召し上がりますか?」
 コンラートの問いかけにちょっと逡巡をみせて。
「そうだね。ここで食べるよ」
 魔王陛下は綺麗にほほ笑んだ。まだちょっと憂いを残しているけれど。もう大丈夫そうだと、部屋を後にした。
 退出してからユーリの涙を含んだ凄笑に震えがきたのだけれど。
 いや、俺が泣かせたんだ俺が泣かせたんだ俺が泣かせたんだ…

 ここに居てはいけないはずの『若い』コンラートが、ウロウロしていいのだろうか。思わないでもなかったが。部屋を出ると、扉を護る衛兵が居た。それはそうだろう。俺の部屋だけれど…今は陛下が一人でお休みなのだから。
 いきなり襲いかかってきたりしないだろうな、と一抹の不安を抱いていたが。二人はコンラートを認めて、一瞬、動揺して――まぁ、そうだろう――敬礼した。
「先日のことは伺っておりますので――またいらっしゃるとは思いませんでしたが」
 自分でもそう思う。まさかまた来るとは思わなかった。
 侍女も同様の反応を見せて、朝食の支度を言いつけたら怪訝そうな表情を浮かべる。すぐにぱっと晴れさせたが。
「そうですわね。コンラート様がいらっしゃるんですものね。ようございました」
 いそいそと厨房へ伝えに向かうのを止めて。訊ねてみて先ほどのユーリの逡巡を理解した。
 コンラートが居なくなると眠れない、と、もうひとつ。食えない、のほうだ。
 健康優良児の見本みたいなユーリが朝食を抜くというのも意外だったが、どうもそれだけではないらしく。食が細くなると聞いて心が塞いだ。
「昨晩もご客人の前では普通に振る舞っていらっしゃいましたけれど、後でもどされていたようでしたので…」
 ご案じ申し上げておりました。
 ――聞いていられない。

「あなたはっ!」
 だからつい、ユーリの顔を見るなり怒鳴ってしまっていた。
「例えお傍を離れても、俺は何よりあなたのことを思ってますっ。あなたが健康で朗らかに毎日を送れることが何よりも大切だ! この時代の俺もそうでしょう?!」
 既に着替えを済ませていたユーリが、あまりの剣幕に椅子の上で身をすくませた。
 あぁ、こういうところは変わらない――これは、意識の隅で考えた。
「コンラッドには言うなって口止めしてあんのに…」
「侍女もあなたのことが心配なのですっ! きちんと食事は召し上がって下さい。俺の部屋だろうがどうこだろうが結構ですから、ちゃんと眠って下さい。
 ユーリをこんな状態にさせとくなんて、俺はいったい何をしているのかっ」
 後半は未来の自分に対する苛立ち。起こし際の不用意な行動があるため尚更腹が立つ。
「大げさなんだよみんな。コンラッドにはばれてないよ? ほら」
 そばに来たユーリはコンラートの手を取って胸に触れさせる。
 シャツ越しの身体は細身だけれど、やつれているわけでもなく筋肉の張りを伝えてくる。
「な? 俺がせっかくつけた筋肉を落とすわけがないだろ?」
 まぁ…。変に説得力のある言葉だが。
「ですが――」
「それにあんたが居てくれたら――朝食だって食べるよ。一緒に食べてくれるだろ」
 あんたに怒られるのって久し振り――どこか嬉しそうに笑うユーリに、このひとは子供ではなかったのだと思い出すが。時すでに遅し。やっぱり苦手だと、コンラートは認識を新たにした。

 魔王陛下の護衛として執務室に赴くと、先代そっくりのグウェンダルがすでに仕事を始めていた。
「昨夜は遅かったのだろう――」
 言いかけて、ユーリの後ろについているコンラートの姿を認めて絶句する。そして、なんとも複雑な視線を、ユーリに投げかける。
「だって朝起きたら居たんだもん」
「い、いや、良かったではないか。…よく来てくれたな、コンラート」
 歓迎されても、どう答えてよいものやら。
「はぁ。お邪魔してます」
 それより兄弟がいい歳になっているのが、やはり面と向かうと笑える。それは向こうも同じらしく、眉間のしわが深くなっている。
 ウキウキした声音で、コンラートの腕をとる。
「だから甘えることにしたから。――こっち来て」
 ユーリは正面の執務机までコンラートを引っ張って行って、王の椅子を指さした。
「ここ、座って」
「といわれても、ここはあなたの場所です」
「大丈夫。俺はコンラッドの膝に座るから」
 はっ?
 助けを求めた先のグウェンダルは、書類綴りに顔を埋めて聞こえないふりをしている。
 ユーリの見た目が見た目だけに、それはなんだか、すごーく爛れた絵柄になりそうだ。
「グウェンが言ったんだぞ。甘えろって」
 ユーリはコンラートの腕を抱き込んだまま小首をかしげてくる。目があったら微笑まれた。
 理性も常識も霞むような誘惑の笑みで。
「あ、あ…あとで、キャッチボールでもしましょう、ですから、ねっ」
 瞼に焼きついた恐ろしい微笑みをはらうように、ぎゅっと目を閉じてそう言い募ると、解放された。
「そう、だな。久しぶりにいいかもしれない」
 安堵して目を開けたら、ユーリに浮かんでるのは、はにかみの表情。
「じゃぁ、ひと段落つくまでそこで見てて?」
 示されたのは執務室でのコンラートの定位置。扉とユーリの間、より扉に近い位置。
 ほっとしたようにグウェンダルが顔をあげた。何言ったんですか。あなたは――。
 いつもの場所に立つと、ユーリは未決済の箱から紙の束を取り出して眺めはじめた。
 このひとの幸せそうな顔は、少し、胸を痛くする。

「若い兵士達がミョーな憧れしちゃっててさ。『ウェラー卿の地獄の鍛錬』に」
 そう言いながらユーリが返球する。成長し筋量も増えて、重くなった球が手に衝撃を伝える。
「…なんですかそれ」
 グラブの中で縫い目を探り、セットアップのポジションからフォームを忠実に。手を離れたボールはバッターボックスの位置の手前で落ちる。
 サイン通りのコントロールに、ユーリは満足げに笑った。
 コンラートを見る若い兵士達の眼の、熱っぽさに。不審を感じて聞いてみたのだが。なんとも脱力するような答えが返ってきた。
「彼らの上官達が、若い頃のあんたにどんだけシゴかれたかって自慢するわけよ。どれほど苛烈で厳しいものだったかって。
 血の小便どころか血便出るようになる、とか。厳しさについて行けずに、一週間で一割しか残らない、とか」
「一割しか残らないのであったら、訓練にならないじゃないですか」
「だってそれは自慢話だから。自分はその一割に残ったんだぞって。――まぁまんざら嘘でもないんだけれどね」
 俺はこの先、どういう人となりになって行くのか…不安を覚えるコンラート。
「紛争介入と災害救助がメインの軍に、ここまでの士気を維持できてるのは、あんたのおかげだよ」
 フォローするようなユーリの声がボールと共に届いた。
 今も、哨戒に立つ兵士の視線が何気に痛い。
「今じゃウェラー卿も自ら練兵なんてすることないから。あんたは彼らにとったらチャンスっ!って思われてるんじゃない?」
 シャツの襟元をパタパタさせて風を入れながら、ユーリが近付いてきた。
 二人にしか聞こえない声で、「だけどあんたは貸してやらない」。
 はい。

 どこでお休みになられますかと聞いたら、あんたのとこがいいとおっしゃったので。自分の部屋にお連れした。
 自分の部屋、であって、自分の部屋ではない。俺はあくまでこの部屋の主の代わり、だ。
 いつも十七歳のユーリにするように。掛布を引き上げ、額におやすみのキスをして離れようとした。
 自分の寝室だが、さすがに留まるのはまずいだろう、と。
 扉を閉じようとしたら、かすかな声がコンラートを引きとめた。
「厭じゃなかったら――厭じゃなかったら一緒に寝てくれないか?」
 らしくない硬い声。
 このひとにとってはずっと昔の話のはずだけれど。百二十年前からやってきた自分を気遣って、それでこの、おそるおそる、の望み方なのだろう。な。
 気にしてはいませんよ、と伝えるために。
「襲わないで下さいね」
 わざと軽く言って、隣に身を横たえた。
「襲わないよ」
 くすくす、楽しげな笑い。
「だってあなた、独り寝が長いから」
 何気に出たからかいに、ユーリは瞳を煌めかせた。
「だって――」
 鼻の先で変わった空気に、しまった、と後悔。こういう妖艶な魔王陛下の表情は、すでに恐怖、の域だ。
「帰ってきた時が、楽しみだろ?」
「…僭越を申しました」
 ユーリが肩を震わせて笑いながら、ぎゅっとしがみついてくる。
「手」
 手、と言われて何かと思ったけれど、ユーリの背に腕を回したら、顔を埋めたままで頷いた。
 子供にするみたいに背を撫でる。
「いい夢が見られそうだ」
 丸一日、で元の時代に帰ってしまうのだったら。次、目覚めたとき、この人はまたひとりだろうに。
 くぐもった声が伝わる。
「ずっと、おれを待っていてくれただろう?」
 眞魔国へいらっしゃるまでの十五年のことか。それとも、地球へ帰っている間のことか。
「だから、おれも待てるよ。コンラッドが帰ってくるの。
 ――ちゃんと眠って、飯食って」
 黙って背を撫で続けた。
 今夜は傍にいますから。
 どうぞお休みください。
 よい夢を――。


End


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