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ユーリ、黄昏時にマと出逢う

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其ノ壱

「だからさ、誰も好きこのんで病気や怪我するわけじゃないだろ? それに貯えのある、裕福な人ばっかなわけじゃないのも現実だし」
 ユーリが故郷の社会保障制度を持ち出して、グウェンダルに提案している。執務机の上には、医療機関への補助金についての書類。
「だからその治療費をすべて国庫で賄うと?」
「万が一のときにもちゃんと国が助けてくれるって思ったら、国民の皆さんのモチベーションも上がると思わね? あ、それと老後の生活の保障と」
 いつもの五割増しで眉間にしわを寄せて聞いていた宰相が、そこでふっと表情を和らげた。
 思いつきで言うな、と怒られるとばかり思っていたらしいユーリは、その反応に勇気づけられたように言葉を重ねようとするが。
「では陛下。その予算はどういたしましょう」
 宰相はやさしい声で聞いてくる。
「だから、それは保険料? 税みたいに収入に応じて国民から集めて」
「陛下。万が一の病に備える以前に、その日食うだけで精いっぱいのものも大勢おります」
「だからそういう人たちからはいいじゃない。その分お金持ちとか貴族から徴収して」
「医療が無料というのは、高い志を感じられる素晴らしいお考えですが。それ以前に民全員が食うに困らぬよう、雨露を凌げるようにするのが先決だと、わたくしめは愚考いたします。
 陛下のおっしゃられることは、それらが保障されてからの話です」
 それとも――。宰相は暗い目で笑った。
「どこぞ人間の国家にでも軍をさし向けて強奪でもしてくれば――一気に解決するか? 医療費だろうが年金だろうが賄えるぞ」
 どうだ? と返事を促すグウェンダルを睨みつけて。だけど何も言い返せずにユーリは唇を引き結ぶ。民を思う気持ちは本物でも、王になってわずか一年半の少年は、具体的に何をどうすればいいのか、知識も方策も持たない。
 そろそろ止めるべきだと、コンラートは兄に視線を送るが、彼はこちらを見ようともせずに机の上の書類に戻る。
「陛下はお疲れのご様子ですな。どうです、一週間ほど休みを取られては。ゆっくり休養なさるとよい――ついでに暇つぶしの相手もつけましょう」
 目も上げずに告げられて。
「なに言ってんだよっ」
 今も言われるがまま署名をするだけの王ではあるが。そこからも締め出そうとするかの発言にユーリは慌てる。グウェンダルは構わず続ける。
「財務部の事務官をおつけしよう。ゆっくり休暇を楽しまれよ」
 何を言われているのか、とユーリはじーっと自分の宰相を見つめる。それ以上何も言ってもらえないとわかると、次にコンラートを。
 そういうことです、と頷いて見せる。
 国の予算を認承したのは確かにユーリだが、その内容にまで噛んでいるわけではない。すでに折衝が済んだ結果しか見ていない上、並んだ項目と金額だけではその背景にある問題や課題まで理解できないだろう。
 グウェンダルは時間を取ってやるからそこを知れ、と言っているのだ。
 どうやらユーリもその意味がわかったらしく、おとなしく椅子に戻る。
 傀儡にされたくなければ、相応の努力をしろと、グウェンダルがぼそりと付け足した。

 一週間の休暇は苛烈を極めた。
「合宿だよ…」
 隈の浮かんだ顔で朝食をとりながらユーリが零す。
 昨夜も日付が変わるまでレクチャーが続いていた。財務部の官吏が担当分野ごとに入れ替わり立ち替わり、朝から深夜まで説明を続けている。
「休暇なのだから好きに過ごされたらいい。城下にお忍びだろうと球投げだろうと、どうぞ好きなだけ」
 言われたものだから。半ばむきになって詰めている感もある。
 確かに一国の年間予算を紐解いて、そんなに簡単に済むはずもないのだが。
「ですが、あまり無理をなされても。『休暇』が終わったらまた執務も待っていますよ?」
 コンラートが指摘すると、うっ、と詰まって。
「いや…その時はその時だから――」
 自分を励ますように呟いている。ムリっぽくなったら逃げ出させてくれ、と付け足して。
「それで執務をサボったら本末転倒のような気が」
「いや、売られたケンカは買わないとさ」
 別に喧嘩を売られたわけではないと思うが。
「承りました」
 口で何と言っても、ユーリは彼がいま持てる精一杯で国政に携わろうとしている。いつまでも言われるがままに署名するだけでは駄目なんだと。そう思うからこそ、必死で喰らい付いているのだろう。
 そしてこの日々の積み重ねが、後の治世につながるのだと――コンラートは遠い未来の有能で麗しい王の顔を思い浮かべた。


其ノ弐

 おれはこの男に恋をしている。同性だとか、んー…自称、婚約者の兄だとか、まぁ不具合はいっぱいあるんだろうけれど。そんなことは見て見ぬふりをしてしまうくらい、彼のことが好きだ。
 彼も俺のことが大切だと言ってくれる。疑う余地なんてこれっぽっちも入り込めないくらいに、大切に愛されている。
 俺に忠誠を捧げてくれて。もっと感情的な部分の想いは身体に教えられた。
 だけどかっこいいんだ。こいつは。王佐や兄弟達みたいな超絶美形ってわけじゃないけれど、却ってもっとリアルなかっこよさっていうか…うまく言えないけれど。
 優しいし。誰にでも親切だし。気配り完璧だし。しかも救国の英雄。――モテないわけがない。
 メイドさんたちもコンラッドと話すときは声が半オクターブ上がるもんな。衛兵さんたちに至っては熱に浮かされたような目で見てる――わかるよ。ヘンな意味じゃなくて、男が惚れる男なんだよ。そんだけコンラッドがスゴい奴なんだって。
 だけど――そんだけかっこいいと。ちょっとしたことで。不安になったりならなかったり…。

 息苦しくなって顎を引いたのに、執拗に追いかけてくる。
 胸を押して猶予を作ると頬だとか目の際だとかに口づけられる。横に滑って耳朶を食まれ、整えていた息を呑み込む。
 やわやわと唇で挟んで吸われると、背骨の下でずぐりと何かが身じろぎする。いつからだろう。耳でこんなにも感じるようになったのは。過剰な反応が恥ずかしい。
 耳骨を辿って内側を舌で犯される。胸に置いた手がすがるように衣服を掴んでいたのに気がついたけれど、手放せない。
 じかに聞こえる水音と、かかる熱い息。胸が苦しい。喉の奥が引き攣る。
 耳から首筋を辿って鎖骨へと。ゆっくり体重をかけられて流される。
 掛けていた長椅子に身を預けると、開いた胸が酸素を取り入れて、すこし呼吸が楽になる。腕をコンラッドの背に回す。すんなりした見た目からは想像できない筋肉の張りが軍服越しに伝わる。
 窪みを舌先で愛撫して、耳骨に歯を立てる。施されるすべてがおれの骨を震わせる。
 吐息が零れる。甘い息を飲む様にコンラッドの唇が再び重なる。彼の手が髪を梳く。深いところで絡み合う舌。二人分の唾液を飲み下して喉が鳴る。ぞろりと根元から先まで舐めるようにして口内から彼が引く。釣られるように瞼を上げた。きっと、もうキスだけでは済まない。滴るような艶を湛えた眼で見つめられているのだろうと思った。そんなの彼の欲にあてられたら。自分ももう引けなくなるのだ。
 ――もっともっと欲しがってくれ。
 なのに。
 実際目にしたコンラッドの表情に。
 その眼はたしかに甘く潤んでいたし、口元に刷いた柔らかな笑みもそうだったけれど。
 どうしてそんなことを感じてしまったのだろう。
 おれを見てない。
 だなんて。
「コ…ン…ラッド…?」
 かろうじて出た小さな声に、ふと、我に返ったように焦点を合わせる。何か?と小首をかしげてきたときには違和感は消え去っていて――きっと気のせいだ。だって、おれ以外に誰を見るって言うんだ。おれはこんなにも愛されてる。
 強張った背筋を、強すぎる快感のせいにした。


其ノ参

 まだまだ気温は高いけれど、こうやって木陰に入れば快適。室内にいるよりも風が通る分、はるかに過ごしやすい。血盟城の奥庭。魔王陛下は勉強中。
 立てた膝の上には子供向けの歴史書。
 まずは概論を、と教育係に渡されたものだ。だが子供向けと言っても侮りがたく、枕にもなる厚み。城に居る時間自体が少ないユーリは、未だ読了できていない。
 隣の魔王陛下を護衛兼監督する昼下がり。だけど今日は集中できているらしく、居眠りを監視する必要はなさそうだった。
 引き結んだ唇を無意識に親指の腹でなぞっている。
 乾いた風が額に掛かる黒髪をなぶる。
 目は無心に文字を追う――その目がページを逸脱して。
「じろじろ見るな」
 コンラートにあてられる。
 横目で睨まれて――彼の醸す既視感に、震えが走った。
 応答のない相手に不審げに顔を向けて来た時には、消えてしまっていたのだけれど。それでも確かに一瞬存在した雰囲気に、コンラートは戸惑った。
 強い力を持つ目だ。王以外何者でもないことを疑わせない。見る者すべてを捕えてしまう、魅惑の目。
 まだまだ百二十年も先のことだと高を括っていたので、戸惑った。
 これまでも、現在と遠い未来の共通点を拾っては、なるほどと思うこともあった。だが、こんなそのまんまの目を当てられたのは初めてで、焦りにも似た気持ちに囚われる。
「もしかして、寝てた?――目ぇ開けたまま」
「いえ、いつになく真剣な顔に見とれていただけですよ」
 ざわめく気持ちを隠してそう言うと、ユーリは眉をしかめた。
「だからそういうこと言う――っていつになく真剣ってなんだよ」
「珍しく集中なさっていたから。いつもならページを繰る前に眠ってしまうのに」
 重ねて失礼な物言いなのに、それより指摘されたことに対する驚きで怒るのを忘れてしまう。
「ホントだ、こんなにも進んだよ」
 読んだページを指でつまんで、厚みを確かめている。
「…なんであのメンバーが十貴族になったのかとか…シュピッツヴェーグがあそこ治めている理由とか…なるほど〜って思うことがいっぱいあってさ」
「そうですね。解ってくると勉強も面白くなってきますよね」
「そう言い切ってしまうには抵抗があるけど」
 小声で返すのに笑みがこぼれた。
 そう、まだまだたくさん時間はあります。どうぞゆっくり成長なさってください。
 十七歳のユーリに心の中でそう告げる。


其ノ与

「コンラッドいる?」
 声と共に開けた部屋は明かりもなくて、部屋の主の不在を示していた。
 まだ帰ってないのか。
 他の用事があるとかで、執務室に軟禁されている間も彼はそばに居なかった。夕食前にお役御免となって、部屋を覗いてみたのだが。
 時間も時間なのでそろそろ戻ってくるだろう…待ってて一緒に食堂に向かうかな。
 日が沈んで間もない時間で、真っ暗でもない。明かりを持ってきてもらおうかと部屋を見渡して。
「ヒィっ!」
 薄闇の中、黙って座っている人影に飛び上がる。
 コンラートではない。闇の濃さが違う、とっさに浮かんだ判断基準。なんだ闇の濃さって。
 ふっ、と笑ったように空気が動いて、幽霊とか幻覚とか――そうではなくて生身の男なのだとわかった。
「驚かせて申し訳ない。陛下」
「いえっ、こっちこそ!――お客さんが居ると思わなくて…」
 しっとり甘い声に我に返る。自分のことを陛下と呼ぶこの相手に、見覚えはない。もっとも、薄暗くてよく見えないのだけれど。肩につくくらいの濃い色の髪を垂らしている。光量が足らなくて黒っぽくしか見えない衣服は軍服ではなく。文官? 
「あぁ、おれはコンラッ…――ウェラー卿の古い友人です」
 訝しがる視線にそう答えて、向かいの椅子を勧めてくる。
「もう帰るだろうから、こちらで待たれては?」
 見ず知らずの相手に警戒心は湧いたが、それより。
 コンラッドって言いかけた。
 古い友人、だって。
 興味よりはもっと攻撃的な気分で。言われたところに座る。
 初対面の相手に気に食わない。なんて思うこと、普通ないし。別に何言われたわけでもない。なのに浮かぶ苛立ち。
 ――自分のテリトリーを侵されたと思っているから。なんてわかっていない。
 向かい合う相手の形良い唇が、笑みを刻む。
「まさか陛下にお会いできるとは思っていなかったので。お目にかかれて光栄です、ユーリ陛下」
 こっちの敵愾心をよそに、本当にうれしそうに告げられるものだから。居心地が悪くなるじゃないか。
「少しお痩せになりましたか?…お疲れのご様子ですね」
 自分は相手を知らないが、相手はおれのことをよく知っているらしい。
「ああ――ここんとこ忙しかったから…そのぉ宰相がくれた『休暇』とかで」
「休暇?」
 ちょっと首をかしげて何事か考えて、あぁ、と納得したように声を上げる。
「国家予算合宿!」
 何?みんな知ってんの? 確かにどんどんボロボロになっていく俺を、皆さん心配してくれてたけどさ。――のわりに相手は笑いをこらえている顔だ。
「いえ失礼。ですが半ば意地だったとしても、陛下は最後までやり遂げられたのではなかったですか? お疲れ様でした」
「っつーか、王様として当たり前っていうか――今まで知らなかったことが大問題っていうか」
 いつの間にか、コンラートの古い友人だという男相手に、愚痴を零したくなっていた。
 相手の素性はわからない。だけどその他人具合が余計な気を使わせなかった。
 国政に関することでもない単なる愚痴を。
「おれなんかが王様でいいのかな…なんて。ギュンターだってグウェンだって一生懸命いろいろ教えてくれるけど、ぜんぜん追いつけてないし。勉強すればするほど、解らないことが増えていく」
 初対面の人間にこんなこと言われても困るよな。わかっていたけれど。言わせる気安さが相手にはある。ごめん、王様のわがままに付き合って――。
 音もなく立ち上がった男が、しなやかな動きで回ってきて、おれの隣に着いた。
 窓の前を横切るとき、弱い光に浮かぶ髪が黒に見えた。まさか、だ。この色を持つのは俺と村田だけだ。
 ぼんやりそんなことを考えていたら、長椅子の上にあった手を取られて包まれる。
 温かい手。長い指によく似合う銀の細い指輪が、薄闇に光る。
 落ち込んでいる人を慰める時にふさわしい距離。ふさわしい位置。ふれ合った体温は心を落ち着かせるものだ。
「解らないってことが解っただけで素晴らしい進歩だよ」
「イヤミですか…」
 まさか。ゆったり首を振る。艶やかな髪がサラサラ音を立てそうだ。
「これまで疑問にも思わなかったことが疑問になる。これまで満足できていたことが我慢できなくなる。それは陛下が成長している証拠だよ。
 次のレベルに行こうとしてもがいているところ。陛下の今の苦しさは停滞や退行じゃない」
 穏やかな声で言い聞かせるように。見ず知らずの相手だけど、そんな風に言ってもらうと。そうかなぁ、これって進歩なのかなぁ…ちょっと慰められたり。だけど。
 今だって必死になって付いていっているのに、まだレベルアップとかいう?
「いっぱいいっぱいだよ。これ以上無理だから。限界」
 ヤサグレそうな気分で言ったら、ふん、と鼻で笑われる。
「人ってのはかなり柔軟にできてるんだぞ。そのうち慣れるさ」
 手を引かれて、素早く寄せられた唇が耳元で囁いた。
「知ってるだろ?――身体で」
 その隠微な気配に身を引くと、相手は席を立って元の位置に戻る。
 言葉の意味を理解したのはそれからだった。
「な、な、なにをっ?!」
 古い友人ってどこまで知ってんデスカ!
 男はクスクス笑いながら荷物をテーブルの上に乗せている。
 軍服一式と、長剣。――コンラートのだ。
「忘れ物を届けに来たんだ。困ってると思って。儒品課はウェラー卿の鬼門だろ?」
 最近腰に刷いている剣がいつものではないことを思い出した。――あの日以来だ。
「もしかしてコンラッドを殴った酔っ払いって、あんた?!」
 ぴくっと相手の頬が吊る。
 只者ではない雰囲気だけれど、やっぱり只者ではなかったらしい。
「酔っ払い、ね」
 ゆっくり呟く様もますます只者でない感じ。
「黙って帰ろうかと思っていたけど、ここはひとつ挨拶もしとかなきゃな」
 笑う。さっきまで自分に向けていたのとまるで種類の違う。自分が入り込めない親密さを見たような気がして。
「コンラッドは時々、おれの向こうに違う誰かを見てるんだ。あれは――あなただろう?」
 口が勝手にそう告げていた。唐突に。だけど声に出してみたら、それは間違いないことだとわかった。
 告げられた本人はぽかんとそれを聞いて。
「あんの馬鹿」
 どうも似つかわしくない悪態をついて。
 ほら、やっぱりそうなんだ。
 古いと言っていたが、長い付き合いなのだろう。口調からもコンラートのことをよく知っているのが感じられる。
 おれみたいな子供じゃない。あいつは完璧な大人だけど、だから逆に年上の方が気が休まるのかもしれないし――。グウェンダルと同年代と見受けられる相手にそう思う。
 だけど。
 わかってるよ。
 知っている。自分がどれほどコンラッドに愛されているか。
 時折おれの向こうを見ていても、おれの思い過ごしにできるくらい。
 おれはコンラッドの中で特別だということ。知っているから。
 たまにこの人のことを考えることくらい、目を瞑ってやらないと――。
 こんなことわざわざ気にするまでもないほど些細なことなのだ。
 そんなに気になるのだったら笑って尋ねてみればいい。今、誰を見ていた?って。

 テーブルの上に身を乗り出して、男の指が目元を拭う。涙を拭われたのだと知ってユーリは慌てて届かない位置へと身を引く。取り残された手を見てちょっとユーリの心が痛むが…だけど相手は――。
「今更だけど…いろいろ思い出してきたぞ」
 男は独り言っぽく呟いた。
 そして身体を起こして、気を取り直すように。
「まず一つ」
 ぴっと指を立てる。
「おれと陛下のウェラー卿は古い馴染だが恋愛感情とはちょっと違う」
 きっぱり。疑いを挟ませない声音。この人が王様やったらすっごいカリスマ発揮しそうだ。
 つーか。陛下のウェラー卿って言ったよ…なんだその所有格。あなたのウェラー卿。私のウェラー卿。一家に一人ウェラー卿――…照れ隠しだ。
「二つ目」
 もう一本指を立てて。外はすっかり夜になっていて、細かな表情なんて伺えない。だけど彼の声は雄弁だ。今は艶やかな笑みを浮かべているのがわかる。
「おれには、あんなヘタレなど足元にも及ばないような男がいる。おれはそいつにベタ惚れだ。――陛下のウェラー卿もそうだろ? 陛下が愛しくって愛しくってしょうがない」
 それは…知っているさ。――だけど。
 ユーリの逡巡を察して男が言い辛そうに続けた。
「たぶん――おれと陛下は似てるんだよ。その時ウェラー卿は陛下の未来を見てるんだ。おれの姿を重ねて。
 だから、今度もし、そんな目で見てたら。殴ってやれ。今のおれを見ろって。――もちろんグーだぞ。遠慮するな」
 醸し出す雰囲気とは裏腹に男らしく告げて。
 再び伸ばした腕がユーリの頭をくしゃくしゃにする。
「あの馬鹿の愛情は百パーセント陛下のもんだ。それは事実だけど馬鹿だから時々妙な方向へ行くんだよ――だからちゃんと手綱を掴んで引き戻してやってくれ。
 ――がんばれ、俺の可愛いユーリ」
 最後は囁くように言って。消えた。――消えた?!
「うっわぁぁぁぁぁ!」
 みっともなくあふれた絶叫に衛兵が飛び込んでくる。一歩遅れてコンラートも。
「どうしましたっユーリ?!」
 腰が抜けたままの俺を確かめるようにあちこち触って。衛兵が持ち込んだ明かりで部屋が照らされる。やっぱり男は居ない。
 コンラートがテーブルの上の軍服と剣を険しい顔で見つめてる。
「ゆ、ゆ、幽霊が――忘れ物、届けにきた…」
「幽霊?」
 震えながらコクコク頷く。
「消えたんだっ、パッて…出るんだよやっぱ古い城は!」
「はぁ――幽霊ですか…」
 何とはなしに歯切れの悪い口調で。
「信じてないだろ?」
「いえ。そんなことは。第一、ここに証拠の忘れ物が」
 目の前には届けられた軍服一式と長剣ひと振り。
「そう、儒品課はあんたの鬼門だからって――って…どういう意味だろ?」
 コンラートはもう大丈夫だ、と衛兵を引き取らせた。
「支給の申請に行くたびに言われるんですよ。軍籍から外れているのに支給できないって」
 苦笑している。彼の指揮下で働きたい者、彼に軍への復帰を期待している者は、今も至る処にいる。
 コンラートはユーリの傍にだけあろうと、誰から言われても軍に戻ろうとしない――。
「それより」
 コンラートが窺うように聞いてくる。
「その幽霊、は他に何か言ってませんでしたか?」
 ユーリはちょっと思案する。
「いや。別に大したことは」
「そうですか…」
 コンラートも何か微妙に引っかかっている顔で。でも、その幽霊に会えずに残念だった、とか、そういった風ではなかったので。――やっぱり二人の間に甘いものは存在しないのかもしれない。
 だけど。
 今度あんな目で俺を見たら――そのときはグー、だ。


其ノ伍

「既に出来上がった仕組みがそれなりに機能して、それなりに物事がまわっていたら。なかなかそれを壊して新しい仕組みを作ろうなどと思えなくなるのだ」
 執務室での小休止。侍女が運んできたお茶を口にしながらグウェンダルが言う。
 今日は護衛はほかの用事とかで城を出ている。先日、宰相を怒らせて一週間の暇を出された魔王陛下としては、二人きりの執務室は正直気づまりだった。沈黙を破ったのがグウェンダルだったことで、ユーリは気が楽になる。
 どうやらもう怒ってはないらしい。
「新しい仕組みはもっと素晴らしい成果をあげるかもしれない――だが失敗するかもしれない。仕組みが大きく複雑なほど、失敗に対して臆病になる。――既存の仕組みに慣れ親しんだ者ほど、新しい仕組みに対する恐れが大きい」
 グウェンダルは訥々と続ける。口数の少ない人物だけど、その声は耳に心地よい。
 カップが戻される音がして、「ユーリ」と呼びかけられる。言葉の内容よりも声に意識を奪われていたせいで、慌てて背筋を伸ばしてグウェンダルに向き直る。
「この前言ったことと矛盾するようだがな。おまえは今のその志を忘れるな。よその世界から来て此処で感じた違和感を大事にしろ。
 おまえがもたらす変化は、この国の未来にとって必要なことなのだろう――」
 深い青の瞳がまっすぐ向けられる。ユーリは頷いた。傀儡で結構、などと言いながらも、自分を王と認めてくれる。それは、解っているから。
 誰よりもこの国を大切に思っている宰相が、認めてくれている――おれはその期待に応えなきゃいけない。気負いなくそう思えるのは、みんなが一生懸命未熟なおれを助けようとしてくれていることが、解るから。
 だからおれは信じられる。
 みんなが信じているこの国の未来を。


End


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