----------------------------------------

ただ傍に

----------------------------------------

 国を出奔し、主君を裏切る素振りまで見せたにかかわらず、まるで何事もなかったかのように俺はユーリの傍らに戻った。
 すべては国益のための作戦行動であったのだと、魔王が認めたからだ。そしてそこに疑問を挟む貴族たちも居ないではなかったが、いつになく厳しいユーリの態度がそれ以上の発言を許さず、それはそのまま史実に記されることになった。
 俺は以前と同じように。後ろで見護り、隣で語り合い、向かいあってキャッチボールをした。
 ただ、ユーリは。俺がその身に触れることを、嫌がった。



 お茶の用意を整えて、席につくように背に手を当てて促したら、ユーリは身を固くして引いた。
 そんな反応を見せたことに彼自身が驚いたらしく、固い表情で「ごめん」と小さく口にしたが。その眼は決してこちらを見ようとしないままで。席についてもただじっと前に置いたカップの湯気を見つめている。
「どうぞ」
 質量を感じさせる沈黙が辛くて勧めると、そろりと手を伸ばした。けれど優美な蔦を模した持ち手に指をかけて考え込んで。
 目の前のお茶を見ている風で、その実何も映していない目に、すべて吐き出させて彼の苦悩を取り去ってやりたいような。だがその内容の重さを思えば、何も知らされないまま無かったことにしておいて欲しいような――どちらを望むとも決めかねる思いの狭間で身動きが取れなくなる。
 何処にでも親切な人というのは居るもので。戻ってすぐにその噂は耳に入ってきた。魔王陛下と宰相閣下が特別な関係を築いていると。
 ユーリが黙ってさえいるのなら、すべてに蓋をして、何も知らないふりで過ごそうと思っている。だが、ユーリがそのことを言葉にしてしまえば。例え自分が傍を離れたことに非があったのだと言っても、それは事実として二人の間に横たわるだろう。
 口を付けられないままのお茶が再び受け皿に戻される。その硬質な音が合図のようにユーリは口を開いた。
「聞いているんだろ。グウェンとのこと」
 さらりと告げられる。
 もはや引き返しようのない言葉に俺は目を閉じた。この人の性格からして黙っている、なんて選択肢はあり得ないと。わかっていたけれど。
「王宮内で秘めた恋をするのは不可能でしょう。水が浸み出すようにそういう話は漏れるものですから」
 一般的な話をするようにそう答えた。決して責める調子が混じらないよう、細心の注意を持って。
 そもそも自分にこの人責めることなど出来やしないのだから。何も告げず、むしろ欺くようにしてユーリの傍を離れたのは俺だ。
「そっか。っていうか、秘めてもなかったし、な」
「のようですね。周囲もあっけらかんと認識していたみたいですし」
 むしろそれで魔王陛下の憔悴が少しでもましになるなら、と歓迎する向きもあったと聞いて――今更ながらにつけた傷の深さに俺は慄いた。
 ユーリを愛して愛された幸福の代償は、自分の命よりも大切なこの人の心を引き裂くこと。わかっていた筈なのに。だが、気持ちの奥では自分など居なくとも、という甘えがなかったとも言い切れず。
 それどころか自分は――このような行動でユーリの気持ちを試そうとしたのではないかと。そんな思いさえ浮かんでしまって、おぞましいエゴから逸らすように目を伏せる。
 軽い笑いが耳を打つ。
「けど、まさかばれてるなんて思ってなかった」
 絶えず大勢の衛士や侍女が侍り出入りするそこでプラーベートなど確保されるはずもなく、ましてこの人は魔王陛下だ。かしずかれることに慣れないことに配慮して、目に入らないところに控えているが、実際彼にはいつも複数の従者が張り付いている。
「グウェンの方は下手な隠しだては無駄だと思ってでしょうね」
 滑稽なくらいに他人事のような会話が交わされている。だけどその上滑りするような軽さが救いでもある。
 なのにユーリは未だに琥珀の液面から目を離さないで続ける。「ごめん」と。
 唐突な謝罪の言葉にそっと息を詰める。
 現実感の希薄なやり取りながら、それでも淡々と話は進んでいるのだ。もう引き返しようのないところに。無かったことなどできないところに。
 あんまりあなたが俺が帰ってきたことを喜んでくれるから――俺はすっかり欲張りになっていたみたいです。以前と何も変わらず何も失うことなくあなたとの日々に戻れるのではないかと。そんな期待まで持っていたのだと、今、こうやって思い知らされる。
 二度とあなたの元に戻ることができなくても、それでも自分の果たすべき使命を果たそうと、そう決心していた。それを思えば今ここでユーリから決別を告げられることも覚悟できていたこと。なのに。
 ユーリを苦しめた自分が許せない。同時に、それでもユーリに許されたい自分――。
 ユーリの顔が上がる。少し潤んだ黒い瞳に俺を映して。
 そして別離の言葉にしてはやさしい声で紡がれる。
「何があってももうおれから離れないで。誓って?おれの傍に居るって。それだけ、お願いだからもう何処にもいかないで」
 甘い台詞のはずが、こうも悲しげに響くのか。まるで終焉を告げられているかのような気にさえなる。
「もう何処にも行きません。必ず、ずっとあなたの傍に居ます」
 この気持ちをすべて載せて告げても心のざわめきは収まらない。
 良く磨かれた玉に映すように自分の姿が中に見える。それが揺れて、崩れる。
 ユーリの頬を滑る涙に手を伸ばしたら、すっと顔を背けられて、宙に浮いた右手を握り込んだ。
「ずっと、だよ。おれの傍に居て」
 背けたままに、だけど祈るように紡がれる言葉に。
「ずっと、あなたの傍に居ます」
 想いをすべて込めて伝えたけれど。
 薄いベールを通したようなもどかしさは拭いきれない。
 それでも俺に許されたのはただ傍にいること。この背を慰めることもなく、ただ傍に。
 ユーリとグウェンのことを教えてくれた人物は、だからあなたは身を引くべきだ、と言ったのだったか。もしくは、あなたの不在をお慰めしていただけなのだから気にすることはない、と言っていたのだったか――忘れたが。
 そんなことはすべてはユーリが決めること。ユーリに傍に居るように言われれば、すべてそのように。
 頬に涙を伝わしたままに、俺の姿を捕えてそっと微笑む。俺もそれに返す。優しく笑えていることを願いながら。


 まずは近い距離。ユーリも立ったままで始める。5球程度やり取りしてから、徐々に後退して距離を延ばしていく。
 いつもより少し早く執務を終えたので、日が落ちるまでの間、裏庭でキャッチボール。
 二十メートル程離れてユーリは座った。縫い目にかかる指の位置をもう一度確認して、投げる。ストレートはそのままユーリが構えたミットに吸い込まれる。小気味よい音。
 無心に球を投げ合う行為は、以前と何にも変わらなくて、その居心地のよさに慰められる。
 この距離感と、その間をつなぐボール。ユーリから送られるボールを受け止め、また返す――その繰り返し。淡々と同じリズムでやりとりするうちに、言い知れぬ一体感が沸き起こる。
 言葉を用いずとも。身体をふれ合わせずとも。あなたがまっすぐ手の中に飛び込んでくる。これもそうであればいいと、ユーリだけを見つめて投げる。あなたの胸元へまっすぐに。
 どれほどそうやってやり取りを続けていたのか。日は山の向こうへ姿を消して、あたりは暗くなり始める。
 「これで最後にしましょう」と、名残り惜しい気持ちを託して、頷くユーリへと送る。
 ユーリはミットの中のボールをそっと取り出して、眩しいものでも見るように目を細めた。そんな、遠い過去を懐かしむ様な顔をしないでください――きりきりと痛む胸に、遠い過去に押し流してしまったのは自分だったと思い出す。
 怒りも悲しみも感じさせない優しい表情で、握りしめたボールを胸に抱くユーリを。俺は掻き毟りたくなるような焦燥を感じながら見つめ続けた。


End


ブラウザバックでお戻りください

inserted by FC2 system