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Forgiveness

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 魔王の寝所に入って、まず目に入る手前で眠るのは我が弟。ぐるりと寝台をまわる。上掛けを巡る攻防に負けまいと、しがみついて丸くなっているのがこの部屋の主。で、この国の王。
 寝乱れた黒髪が頬に散るのを払おうとして、思い留まる。
 恋を囁き情を交す間柄であった以前は――といってもそう昔のことではない。まだ記憶もはっきり残る位は近しい以前――無心に眠るあどけない顔に戯れに口付けて。そんな起こされ方をした相手も寝起きのはっきりしない意識ながら、くすぐったそうにほほ笑みを返しつつ目覚めの挨拶を口にして。全く以て傍から見れば馬鹿馬鹿しいだけのやり取りを朝っぱらから交わして、それでもお互い、そんなことで新しい一日をまたこの相手と送れることに幸福を感じていた。
 記憶の中となんら変わらぬユーリの寝顔。瞼の下に隠された瞳と同じ色の睫毛がわずかに震える。薄く開いた唇がきゅっと引き結ばれて、また緩む。
 覚醒が近いあるじに「おはようございます」とそっと起床を告げる。
 閉じたままの瞼に力が籠められ、ゆっくり脱力してそのまま持ち上げられる。夜の色の瞳が現れ、いまだ視点のぼんやりするそれを声の方に向けて。そして俺の姿をそこに映すと嬉しそうに微笑む。
 寝覚めの混乱を整理する間にしては長いこと、そうやって見つめ続けて。
「おはよう。コンラッド」
 とても大切な言葉のように口にするのだ。毎朝。
 ユーリの浮かべる笑みはとても幸福そうで、だけど、どこか綺麗で儚いものを見た時のような切ない気持ちにさせられる。この腕に抱きしめて繋ぎとめたい焦燥を押さえて笑いかける。
「おはようございます、ユーリ。今日もいい天気ですよ」


 眞魔国の国政の中枢、魔王執務室は、事務官たちが詰める前室を通りぬけた先にある。両開きの扉を開けると正面奥に黒檀の王の執務机。その向かって右は宰相の、左に王佐の机が直角に配されている。宰相の後ろは十分な採光をもたらす縦に長い窓が切られている。反対の王佐の後ろには一面に作りつけの書架。部屋の手前にはいつも休憩の場に使われる長椅子と低いテーブル、幾つかの椅子。その間に呼び込まれた事務官たちが作業をするための机が並ぶが、それでも手狭に感じることはないだけの広さがある。
 自分の定位置は部屋の真ん中より戸口に近い窓側の壁。そこから王を伺えば、片肘ついた左手を髪に差し入れて、一心に書類に目を落としている。時折何かを確認するように声を出さずに唇が動く。数枚組のそれのページを行きつ戻りつし、しばし考え込んで。それでも望む答は得られないらしく、身軽に席を立つと紙の束を手に宰相の許へ行く。立場からしたら呼びつけるべき所なわけだが、自分が行った方が早いと考えるのがユーリだ。グウェンの手を止めさせるだけでもコワイのに…と言うのだろうけれど。
 だけどあなたが王の仕事に身を入れることを誰より喜んでいるのはグウェンダルなのですから――そのような心配は無用ですよ。彼にしてはかなりの言葉を費やして説明を重ねている兄の姿に、心の中でそう呟く。
 グウェンダルの斜め後方からだとその表情は伺えないが、声音からも彼がいつもの不機嫌さを湛えていないことがわかる。
 ユーリが即位したばかりの頃ならともかく。年若い王に遠慮容赦のない厳しい態度をとりつつも、グウェンダルはユーリを認めていた。眞魔国の王として。己が忠誠を捧げる主君として。それから――。
「わかった。ありがと」
 説明に納得いったらしいユーリは背を向けた。
 インク壺のペンを取り上げる前に、流れる動作で宰相はこちらを振り返る。
 僅かな間向けられた視線の意味は、良いようには取れなくて。どうしてお前がここに居るのかと問いただされている気さえした。
 王には信頼のおける優秀な宰相がついているのだし。護衛だと言っても、ここは官吏が固める部屋の奥で、隣の兄は宰相以前にひとかどの武人で。
 俺は。俺がここに居るのは――
 ――ユーリが居ろと言ってくれたから。

 あ、っと小さく上がった声に目を上げた。ユーリはしまった、というように眉をしかめて、困惑のままに上げた視線をこちらに流してきたから、どうしました?と近寄る。
 王自らが出席せずとも済む会議の全権委任状にサインをしているところで、まだ乾かないインクも黒々しいが。
「委任する人のところにサインしちゃった…」
 本来フォンクライスト卿か大臣の名が記されるはずのところに渋谷有利の文字。ギュンターが出席できるかどうか未定であったために空欄になっていたのだ。
「作り直させてきましょう」
 と言っても、外の事務官に持っていくだけだ。ありがとう、の声を背に、書類一枚を持って部屋を出る。
 この部屋に自分の居場所など無い筈なのに。なのに口実を見つけてここを出ていくにも、ひどく心がかき乱される。


 委任状の作り直しを依頼して、出来るまでの間に茶の支度をしに行く。
 午後のお茶に供される本日の菓子はスフレだとかで。出来たてでないとすぐにしぼんでしまって値打ちがないのだと少々厨房で待たされた。ユーリはこのあと久しぶりに登城した十貴族の重鎮と面会の予定があるが、いつもの時間よりは早く伝えてあったので今後の予定に響く程ではない。甘い香りの立ち込める厨房でしばし待つ。
 気難しい老人と会うことをユーリは億劫がっていたが、相手はあれで新しい魔王を気に入っているのだから多少は辛抱してもらわないと。人の懐に入るのに驚異的な才能を見せる彼のことを考えて――強張っていた頬が緩むのを感じる。先ほどまでの鬱屈が薄まっているのに現金なものだと思う。またそれだけ、自分のすべてはあの人なのだと気恥かしいような、誇らしいような気持にもなる。
 菓子と茶道具を持って戻ると、書類はとうに出来ていた。ノックをして執務室の扉を開く。
「どうかしましたか?」
 真正面のユーリが、じっとこちらを見ていた。ユーリの黒く大きな目が揺らめくように見えた。自分の不在の間に何があったのだろうとグウェンダルを窺うが、元より感情を露わにする人ではない彼からは何も掴めない。
「いい匂い。もうおやつの時間なんだ」
 そんなユーリ本人の声に我に返ってトレーを部屋に運び入れる。
「スフレだそうですよ。けれどその前にこれだけサインを」
 作り直した委任状を、手渡さずに机の上に乗せた。
「だな。また間違わないうちに」
 今度は慎重に欄を確認して署名するのを確かめて、お茶を注ぎ分けていく。甘い菓子の匂いに茶葉の芳香が混じると、国政の中心という性質が持つ部屋の空気も柔らかく変わる。

「器が熱いですから気を付けてください」
 言ったのに。どうしてこの人は敷き皿でなくわざわざ焼けた器の方を持つのか。
 それでも辛うじてスフレの入った器をとり落とさずに皿の上に返したのは、さすが見上げた食い意地だが。火傷した指先を握りこんで「あっちぃ」と声に泣きが入る。
「どれ、見せて」
 火傷の程度を確かめようと手を伸ばして、触れる直前で止めた。あるいはそのまま手に取っていればよかったのかもしれない。ユーリは痛む指先に気持ちを奪われていたし。判断を誤った、と思った時にはもう遅くて。宙に浮いた手は不自然に二人の間にある。
 すうっと息を呑むユーリの目がゆっくり閉じられる。グウェンダルはただ黙ってこちらを見ている。
「――冷やした方がいいですね」
 冷たい水を持ってくるよう言いつけに身を翻した。


 暫く水に浸していたら水疱になることもなく。ユーリは少ししぼんだスフレを食べて、温まったカップに触れる度にひりつく指先に眉をしかめながらお茶を飲んだ。
「熱い器は危険だけど旨いな。チーズケーキみたいだ」
「いえ、チーズケーキですよ」
「スフレって言ったろ?」
「ですからチーズスフレですから」
 異郷で育った王には未だに小さな文化の食い違いがあるようだ。なんだかまだ納得がいかないようだったが、「いい匂いですね」と王佐がユーリを呼びにきた。
 年長者に受けの良くない俺はつき従わない方がいい相手なので、ギュンターに任せてユーリを引き継ぐと、一緒に退出しようとしたところをグウェンダルに呼び止められる。

 強面で相手にも自分にも厳しい人物だと定評で。だけど自分の兄で幼いころはよく一緒に遊んでもらって。誰よりもこの人の優しさは知っているのに。今は一番会いたくない相手でもある。
 そしてそんな風に感じてしまう自分にまた嫌悪を覚えるのだ。大切なものの手を放したのは俺なのに。
 忙しなく指先が動いている。あまり知られていないが彼が落ち着かない時の癖だ。知っているのはごく近しいものだけ――…ユーリは知っているのだろうか。ふと自分が不在であった月日の長さを思う。
「本当に何も無いのだぞ」
 唐突なグウェンダルの言葉。何を言われているのかと戸惑っていると、苛立ったように重ねられた。
「当事者たちの言葉など信じられんだろうが、本当にお前が疑っているようなことなど何もなかったのだ」
 信じるも、疑うも。
「責を負うべきは俺なんだから。そんな気遣いは必要無いよ――俺にはグウェンもユーリも責められない」
 自嘲がこもる言葉にすら冷静になれないけれど。
 兄の眉間の皺が深くなる。
「たまには人の話を聞け。勝手に自分一人を悪者にして自己完結するのはお前の悪い癖だ。――まぁ私の話はいいが…小僧の言うことは信じてやれ」
 何を。俺がユーリを信じないことなんて、ありえないのに。
「ユーリの言うことって?」
 彼の先代譲りの、気の小さい者なら泣いてしまいそうな目で睨みつけられる。
「私はユーリに添い寝してやっていただけだということだっ」
 政務の場で宰相の口から聞かされるには違和感のある内容。だが確かに先程までこの部屋を支配していた、どこか空々しい空気の根源である。
 そして告げられた、思ってもなかった内容。
「添い寝…?」
「親か祖父のような気持でなっ――もっとも、世の中には親代わりだと思っていた相手にどうこうされるということもあるらしいが」
 自棄のようにそんな厭味まで付け足されて。だけどグウェンの渋面を見ながら考え込む。
 そんなこと、ユーリは一言も言っていない。
 そうだ。言わなかった。グウェンダルとそういう関係を結んだとも。ただ、噂を聞いているんだろうとだけ、言われたのだ。
「ユーリは何も言わないから」
 今度はグウェンが怪訝な顔をする。
「あなたと何かあったとか、無いとか――ただグウェンが、その…俺の代わりに傍についていたと聞かされて」
「下世話な噂は言いたい放題だ」
 彼に似合わない仕種で鼻を鳴らす。

「それより、小僧の傍を黙って離れるな。さっきも何も言わないまま茶の支度をしに行っただろう」
 言われて、部屋に戻った時にユーリの様子がおかしかったことを思い出す。
「そわそわしおって仕事にならん」
 傍にいろと言われた言葉の意味を思い知らされて、また彼に与えた傷の深さに気付く。
 そして。
 どうしてユーリがグウェンダルとの噂に関して何も言ってくれないのか。自分がその身に触れることを拒むのか。
 誰もが許されて傍に戻ったと思っている俺は、その実ユーリからは何も許されていないのだと知る。
 だけど、傍にいろと望まれて。
 俺は――。
 俺もあなたの傍にありたい――それがどんなに苦しくても。例え、それがあなたをも苦しめるのでも。
 あなたが命じてくれるのなら、ただ傍に。


End


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