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就眠儀式

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「それで、我が国と近隣諸国の経済格差と交易の関係、なんてレクチャーが始まってさ。布団の中であの声でそんなん聞かされてみ?」
 と、ユーリは苦笑する。温めた牛乳のカップを両手で抱え込んで。履物を脱いだ足を長椅子の上に引き上げて、丸まって胸に抱えてる。
 まるで裏切ったかのように傍を離れた前と、なんら変わらない寝る前のひと時。
 風呂から上がるとそのまま護衛の部屋に直行して、気楽な会話を交わし。
 眠るのがこの部屋ではなく、王の寝所まで送り届けるのも。これまで全くなかったことでもない。
 ただ、同じ長椅子に掛ける二人の間にある半人分のスペースと、用意したカップを手渡すことが無くなったことが、違うだけ。
 あと、胸の内側には、穏やかだけではない感情。
 元のようにこうやって傍に侍り、臣下に対する以上の親愛を向けられても。全てを許されたわけではなく。一見、以前と同じように自然な言葉を向けられている分、その心の内のわだかまりの重さを思って苦しくなる。
「確かにそれは最強の子守唄ですね」
 自分が傍に居ない間、グウェンダルが付き添ってユーリをこの部屋で眠らせていたのだと聞いた。
 魔王陛下とその護衛が恋人関係にあったことは公然の秘密で。その不在時に宰相が取った行動はスキャンダラスな憶測を呼びまくっていたようだが――二人の間にあった真実を知るのは当事者だけ、だ。片方は色恋沙汰など何もないと言い、片方はそのことについては何も触れない。
 元はと言えば、大切な人をそんな不安定な状態に放り出したのは自分で。
 当時の彼の状態を聞くにつけ、兄には感謝こそすれ。この人の心身が健康で、それ以上に何を望もうというのか。
 視線の先でカップを空にしたユーリが、ほうと満足げな息をつく。
 自分がユーリに与えた『裏切り』に比べたら。そんなこと。
 今もユーリは何の衒いも臆面もなく、この部屋でグウェンダルと過ごした時のことを語っている。その様子からは確かに世間や自分が邪推するようなことなど、何もないのだと思えるのだが。
 じゃあ。なぜ、ユーリは何も言ってくれないんだろう?
 ――あなたが言うことならば、俺は何だって信じられるのに。


 両足を椅子の上に引き上げたままの窮屈な体勢で手を伸ばしてカップを置くと、ユーリは目だけを上げてこちらを見た。
「グウェンのこと。気になる?」
 軽やかな口調。だけれど、御伽話の代わりが外交論だったとか、そう言うことを指しているのではなく。
 反してその目は、どんな誤魔化しも許すまいとでもいうように鋭く当てられている。高貴な瞳の色というだけではない呪縛に絡め取られる気さえして。取り繕うことも忘れて頷いていた。
「ええ。あなたは何もおっしゃらないから」
 ユーリは薄く笑う。
 天真爛漫な彼らしくない。見たことのない種類の。だけど、こんな時なのに、その物騒な笑みに背筋が震える。
「グウェンに聞いた?」
「でも俺はあなたの口から聞きたい」
 挑戦的なまでの視線が俺を射抜く。 「なんで。別にいいじゃん、グウェンが言ってるとおりだよ」
「あなたの言うことなら信じられるから」
 するとユーリは酸っぱいものでも食べた時のように眉をしかめた。
「なんだそれ――事実はどうであれ、おれがそうだって言ったら信じるってのか?」
 言い切られてしまうと、それはちょっと卑怯な感じもしたが。だが、本心だ。
 頷いて見せると、苛立たしげに溜息をついて椅子に凭れる。視線が外れて、ほっとするような、寂しいような。
「いいよ信じなくて――」
 それは、どういう意味かと。詰問しそうになって、唇を噛んで留まる。
「――だって。現におれは、そうなってもいいって思ってたんだから」
 また、ユーリの頬に笑みが浮かぶ。今度はもっと儚い。
「あんたに似ているとか。あんたのことをよく知る人物だったとか。同じようにあんたの帰りを待つ者同士で共鳴したんだとか――そんなの、言い訳でしかないし」
 人半分の距離は互いの体温を伝えることもなく。実際の距離以上の隔たりをその空白に見る。
「信じなくっていいよ。許してくれなくっていい」
 中空に投げられていたユーリの視線が、ゆっくり瞼に遮られる。
 ――許されないのは、俺だと…声にだすことも出来ずに、少しの距離の向こうで俺はその姿を見つめ続ける。
 微笑んだまま椅子に身を預けて、ユーリは眠っているかのようだ。
 周囲を、俺を拒絶するみたいに。それでも。
「ねぇ、ユーリ。誰よりも何よりもあなたを愛してますけど――だけど、本当はそんなことはいいんです。俺は、傍に居させてさえもらえれば」
 居させて下さいね。たとえ、この先ずっとこの距離が埋まることがなくったって。
 眠っている相手に独り語りするみたいに。だけど、これだけは言っておきたいと思ったこと。
 聞いているのか、それとも本当に眠ってしまっているのか。まさか。でも。
 目を閉じたままのユーリを見つめる。
 眠るあなたを、こんな風に見守れることも、こんなに幸福で。一晩中だってこうやって見つめていられたら。
 もうすっかり乾いた洗い髪が閉じた瞼に影を落とす。同じ色の睫毛に縁取られた瞼。僅かにシャープになった頬。痩せたかと聞いたら、締まったんだと即座に訂正を入れられた。それ以上詮索できなかった心は痛い。引き結ばれた唇が、ふいに緩んだ。
「コンラッド」
 ゆっくりと目を開けて、俺の姿をそこに捕らえる。
「はい」
 何かを確かめるように軽く頷いて、また名を呼ぶ。
「コンラッド」
「はい、ユーリ」
「コンラッド」
「ユーリ」
 手を伸ばせば届く距離を隔て、互いの名を確認し合う。呼べなかった時間を取り戻すみたいに。
 俺は大切な相手の名前を口に乗せる幸福を噛みしめた。相手が紡ぐ自分の名前を耳に優しく聞きながら。何度でも何度でも。
「コンラッド」
 ユーリは膝を抱えていた腕をほどき。ゆっくりゆっくりこちらに差し伸べられる。
 ユーリと俺の丁度あいだまで来たその手を、俺はそうっと受けた。
 恭しく押し戴く。誰よりも何よりも大切な人。
「ずっとあなたの傍に」


 離れ難くはあったのだが、さすがに明日のことを考えると臣下としてこれ以上引き止めることも憚られて。
「そろそろ寝ないと」
 このまま自分の部屋で寝るのか、それとも帰るのかと暗に尋ねれば、
「あんたが居ることがわかってれば。何処だって眠れるんだよ」
とユーリは悪い笑みで笑った。
 本当に。いつからこんな顔をするようになったのか。
 このままずっと触れることが叶わなくとも、と考えた矢先なのに。蠱惑の笑みを目にすると、強欲な自分が次を望んでしまう。
 伸ばし掛ける手をこっそり握り込むが、ユーリはそんな様子も見透かしたように。軽く声を上げて笑って、就寝を告げた。
「また、明日」
 と。
 また、明日もあなたと新しい一日を。


End


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