『雨音トロイメント』




 ある晩、おれは一羽の鳥を拾った。



「おい、聴いているのか」
 へなちょこ!と聴き慣れた自称婚約者殿からの罵倒に目を見開いた。どうやら船を漕いでいたらしい。右手はしっかりと羽ペンを握っているというのに器用な事だ。
「聴いて無かったから、説明してよ。グウェン」
 耳元で喚き立てる彼がまともな説明を二度してくれるとは思えないので適任者に顔を向けたのだが、それも失敗だったらしい。婚約者の怒りが二乗になって襲ってきた。
 睡魔に負けていた自分が悪いのだが、これでは執務にならない。仕方なく手近に置いてある菓子を取り、喚く大口の中に押し込んでやった。粉っぽい焼き菓子で咽ているヴォルフラムに、ごめんと心で謝る。
「それで、何だって?」
「…執務とは関係が無い。気にするな」
 眉間の皺に指先を当てながら彼は溜息をした。目の前のコメディに視線もくれない。
 おれも、国に関係無い事ならまぁ良いか、と菓子を摘まむ。自分は咽ないように紅茶も引き寄せて。
 目で合図すると、カップの中に白い線が垂れる。甘さ控えめの菓子に適量のミルク。踊るように回る白線をぼぉっと見つめていたが、宰相殿の咳払いで一息に流し込んだ。
 平和とは素晴らしい。そうだろう?
 空になったカップを受け取った男は、視線で交わす問いに対して“そうですね”と言うように微笑んで返した。



「フォンビーレフェルト卿はあの時、何でいつも朝になると寝室からいなくなっているんだ、と仰っていたんですよ」
「ああ、なるほど。確かに国政には関係無いな」
 それから、フォンビーレフェルト卿じゃなくてヴォルフラムって呼べよ、と睨みを入れた。
 この男は何度言ってもきかない事が多い。頑固なのか覚えが悪いのか、性質が悪いのかは知らない。
 枕にしている男の腕の上で寝返りを打つと、彼は可笑しそうに笑い声を漏らした。背中を向けてやったというのに何が楽しいんだか。
「もう眠ってしまうんですか?陛下」
「陛下って呼ぶんなら寝る」
「分かりました。おやすみなさい、良い夢を」
 左の頬への羽を掠めるようなキスに、慌てたのはユーリの方だ。
「コンラッド!」
 本当に寝てしまうのかと上半身を勢いよく起こした、しかしその焦りはすぐに男の笑い声でかき消される。…やはり彼は性質の悪い方らしい。
「この野郎」
 恨めし気にそれだけ言って、また腕枕の上に頭を落下させた。乗せられるのはいつもの事だか、やはり気分の良いものでは無くて、目線は合わせない事にした。
 するとその瞼の上に唇が寄せられて、舌で捲られ中身の眼球まで舐められる。ああ気持ち悪い、けれど気持ち良い。他人に触れられる行為はきっとみんなそんなものなんだと教えられたのは、この男からだ。
「目玉もご馳走だとか言うんじゃないだろうな」
「違いますよ。俺が食欲を感じるのは血だけです。他は全部、貴方だから欲しいんだ」
 目玉を食べる真似事なのか、開いた唇で覆われた。彼の口の中が映っている筈なのに暗闇で、生温かい空気しか感じない。
「好きな人の全てを得たいというのは、皆同じでしょう?」
 確かに隅々まで見たい、知りたいという欲求はあるのかもしれない。口内が視認出来ない事を残念だとも思うのだから。
 こんな真っ暗闇では猫でも何も見えやしないだろう。僅かな光も無い空間が相手では、タペタムも無能だ。
 大きく眼球をもう一舐めしていった後、唇は耳朶を吸う。冷たい皮膚が熱を得ていくのを感じながら、更に大きな快感に触った。
 まるで穴なら何処でも良いと言うかのように、耳の奥へと伸ばせる限り進行する舌は、驚く程器用にうねる。恐らく常人よりは長いであろう舌に侵略される心地は、案外良かった。
 尻の狭い場所に押し込まれる時以上に快感が走って、無駄にあんあん言ってしまう。その度に「弱いですね」なんて、吹き込むなバカ。
「痕、残ってしまっていますね」
 首筋に指を這わせて、感情を読ませない声で呟いた。
 その丸い傷痕を付けた張本人は、何度もそう言っては同じ所を噛む。
「んー。服が詰襟で本当に良かったよな。じゃなかったら、城中で捕り物になってる」
「見付かるかな」
「どうだろう。兵士の指揮もあんたがやるんだから大丈夫だろ」
 上手く忍ばせたものだと自画自賛したい。自分の魔力と彼の技能が無ければこう上手くはいかなかった。
 まさか国の中枢に吸血鬼が紛れ込んでいるなんて思わないだろう。勿論誰とも血縁関係は無いし、国民が思いこんでいるウェラー卿コンラートという男は全てが偽りだ。魔王による暗示は、誰にも気付かれずに今日まで平和に続いている。
「甘い汁ばかり吸わせて貰ってる」
「お互い様だ」
「俺は何処も甘くは無いでしょう」
 視線が結ばれる。コンラートの瞳孔は普段と違う色をしていた。夜の猫のような瞳…夜行性の動物なんだから当たり前なんだけど。それが欲に塗れていると感じるのは、いつもそんな瞳をしている時に抱き合うからだろうか。
「言葉が、甘いんだ。あんたは」
 その甘味を、口付けによって吸わされた。
 見かけよりも柔らかい唇を食み、舌を寄せると長いものが絡みつく。引っこ抜かれるのではないかと冷や冷やするのも楽しくて仕方なかった。
 時間をかけ唾液を混ぜ合わせてから離れた唇は、一度顎に触って、しっとりと首筋に落ちる。
 首筋に残っている痕と寸分違わぬ場所に硬い感触。牙が狙いを定める一瞬だけ、今でも緊張する。
 けれどそれが突き刺さり、治りかけの皮膚を破いてしまえば…口から出るのは恐怖の叫びでは無く、快感による悶絶だ。体を走り抜ける感覚は癖になる。吸わない日が続けば、此方から強請ってしまうくらい。
 一滴も零さないように舐め取られ、痙攣したように体が跳ねれば優しく抱きこまれる。温かさに、また眩暈がしそう。

「ユーリ」

 彼を腕の中に抱きこんで眠りに落ちる。
 濁った意識の中で、この国の王と出会った日の事を思い出していた。


 忘れようも無い。異様な程、月が綺麗な夜だった。
 それが最後の夜なのだと本能が悟り、いつも遠くから眺めているだけであった城へとふらふら近付いた。どうせ絶命するのなら、森の奥でのたれ死のうが、城の衛兵に串刺しにされようが同じだ。
 半分以上自暴自棄で敷地内に入りこんだが、それは血を求めての行為では決して無かった。適当に食らいつけば延命出来ただろうが、また追われる身となり、再び死の淵へと行き着く。その繰り返しに飽き飽きしていた。体がもう死ねというのならもう従おうと決めていたから、本当に興味本意で踏み入ったのだ、立ち入りを禁じていた場所へと。
 後押しするように降り出した雪が世界を無音にした。牡丹雪だから足跡は残らない。
 背の高い木の枝を足場に至近距離で、ぽつりぽつりと消えていく城の灯りを眺めていると無性に物悲しく感じる。それでもその場に留まり続け、来るのかも分からない朝を待っていた。
 すると突然、もうずっと前に暗くなっていた部屋の窓硝子が開いたので驚き目を瞠った。
 ついその部屋を目で追うと、住人はしっかりと此方を見ているではないか。緊張に身を固くしていると、彼は見た事も無いような笑顔を此方に向けてきた。
「来いよ」
 悪意は微塵も感じられ無い柔らかな誘いを、怯えて無碍には出来なかった。それ程に強い引力を彼は持っていた。
 まるで催眠術にかかったみたいに飛び上がり、窓の淵に足を着ける。泥が桟に着く事を気にしたのは、俺だけであった。
「あんたって鳥なの?」
 首を横に振る。
「じゃあ天使?」
「…何ですか、それは」
「何だろう。…幸福の象徴かな」
「なら、違います」
 彼は、変なの、と言って笑った。明るい声で。
「もう鳥で良いじゃん」
 そう言うから頷いた。きっと吸血鬼だと言っても、飛べるんだから鳥みたいなものだとか言い放つ。そんなひとだ。
「あんた馬鹿だろ、この寒い中外にいるなんて」
 あまり気温に左右されない肌をしているので雪で濡れていても特に気にならなかったが、雪が降っていたのだからきっと寒いのだろう。
 まるで他人事な俺に彼は、ほら、と言ってタオルをかけた。世話をされているのだと理解したが…言葉が出てこない。こんな思いを初めて味わった、タオルの柔らかさに心臓が軋む。
「風邪引くだろ。暖炉に火入れるから、窓際になんているなよな」
 そう言うなり部屋から出て行こうとする彼を本能で追い、気付けば腕をとらえて引き寄せていた。
 タオルよりも柔らかな何かを掴むように、けれど一度腕の中に入れてしまったものを決して離す事の無いようにしっかりと。
「おい、いつまで経っても暖まれないぞ」
 呆れているような声に、少し安堵する。
「あなたがあたためて」
 そう小声で囁くと、無言が室内を占めた。
 暫くして、溜息と共に彼が呟く。
「月が綺麗なのに雪が降るなんて…本当に、おかしな夜だ」
 何の許しでも無い筈のその言葉を聞いてから、カウチの上に彼を押し倒した。
 彼の両腕が首の後ろに回されたのを良い事に、肌に触れ、唇を犯す。そうして口内を舐めしゃぶっている内に、殺していた吸血欲が首を擡げてきた事に気が付いた。彼の唇の端が切れたせいだろう。少量の血液が口内に入り込んできて理性を壊すのが分かった。
 このまま欲に任せてしまいたい気持ちと吸ってはならない抑えが拮抗し、戸惑いを満面に浮かべている俺に彼は、耳元で「良いよ」と囁いた。
 いつから気付いていたのか…恐らく初めからだったのだろう。彼は首筋を自ら晒して俺の後頭部を押さえつけ、吸血を促す。
 如何して、この欲に逆らえようか。気付けば彼の血を吸い、すっかり死ぬ気など失せていた。
 彼はどこか嬉しそうに微笑みながら、口付けを強請る。それに応えて唇を落としてからは、無我夢中で抱き合った。

 いつの間にか雪は、雨に変わっていた。

 次の日俺に与えられたのは、魔王の専属護衛の地位と、前王の次男という経歴。
 そして…
 紛い物はいつか壊れると云うけれど、それが今で無くずっと先ならば、紛いままでも良いと思った。
 まるでずっと昔からそうしていたかのように毎日を過ごす。
 与えられた籠だろうと幸福には違い無い。その象徴が天使だというのなら、それは彼以外にはいないだろう。決して飛ぶ事は出来なくても。
 終わりを夜空に映し見ていた俺に、ユーリは居場所をくれたのだ。





 パチン。

「コンラッド、すごく雑だ」
 爪切りを始めたコンラートの膝の上でごろごろしていた。聴こえてくる音といえば、雨が地上を打つ音と、爪切りがコンラートの一部を落とす音。
「自分のにもちゃんと気を使えば良いのに」
「鑢はかけていますよ」
「どうせおれを傷つけないようにとかいう理由なんだろ?」
 コンラートは微笑んで、刃が届くだけ爪を弾いていく。自分も相当深爪だけれどこいつのは異常だとユーリは嘆息した。実用的だがそれ以上に痛いだろうに。
「だって貴方、よく指を舐めるでしょう?」
 ユーリには身に覚えが無かったが、よくよく見ればコンラートの指の関節にある傷は噛み痕だった。背中に爪や歯を立てない代わりに、こんな所にあったらしい事に初めて気付いて狼狽する。鬱血痕や吸血痕とは違い、無意識の内に残してしまったものに対して羞恥を感じたのだ。
 だがコンラートはそれを愛おしそうに撫ぜる。そして唇で触れまでした。
「俺の爪、今は随分マシになりましたけど、最初の頃は酷いものでしたよ…。鋭い爪は捕食者の証のようだけれど、そこには常に泥が詰まっていた」
 ユーリが口に入れるからだけで無く、爪が長いと支障は多い。護衛職で剣を扱うというのに長いままではいられないし、長いだけでそれは凶器であったからだ。
 人種の差なのか深く切ってもすぐ伸びてきてしまい、頻繁に爪切りを手に取るのが少々面倒だが…それも小さな事だった。どんなに手間だろうがコンラートは毎日でも爪を切る。
「ここで皆に嘘吐いて暮らすの、辛いか?」
 そう、声を潜めて訊ねられた質問に対して、コンラートはユーリの髪を梳く。主の表情に陰りは似合わない。
「いいえ、俺は貴方の傍に居られるならば何も苦にはなりません」
 何度も何度も指を髪の間にとおす。雨音と同調するまでぼんやりと手を動かし続けた。
 そしていつしか安心したのか、膝の上でユーリは眠ってしまった。前髪を後ろに流すようにして顔を見ると、ひどく穏やかな表情をしていて…引き寄せられるように額にキスを落とした。


 聴こえるのは雨の音。それだけ。
 いつまでも止まなければ良いのに。そう思ったのは予感だったのかもしれない。
 どうして、嫌な予感ほど的中するのだろう。危険を回避して生き続ける為だろうか。
 初めから無理だと分かっていた、諦めていたけれど、この幸福な一瞬の連続を願わずにはいられなかった。
 このひとと生きたかったから。






 朝日が隙間から差し込む頃、城が騒ぎ出した。
 城中の兵士が足音を響かせて一点に向かって廊下を駆け、いつもは忙しなく動き回っている侍女達は部屋に鍵をかけて閉じこもっている。
 コンラートの居室で眠っているユーリにもその音は耳に届いた、手探りで隣に寝ている筈の男を探したが全て空振り。仕方が無く目を擦りながら気だるげに上体を起こすと、いつもの体のだるさにまた横になりたくなる。
「コンラッド、いないのか?」
 代わりに視界に飛び込んできたのは、兵士だった。ノックも無しで上官である筈のコンラートの部屋に、それも部屋が埋まる程大勢。その尋常では無い様子に、ユーリは何が起こったのかを察した。寝起きの頭が一瞬ですっと白くなる。
「陛下、御無事ですか?」
 部隊長らしい男が寝台の横で膝を付き、ユーリの体調を伺っている。視線をめぐらせれば、奥にグウェンダルやヴォルフラム、ギュンター…国の重鎮達までが立っていた。
 おれは何を言えばこの場を切り抜けられるのかを必死に考えていて、次に彼等が起こす行動を見守って、それから隣に無い体温をやはり探していた。
「…コンラッドは?」
 その呟きは兵達の足音でかき消され、その上に「化け物はこの部屋にはいない、探せ!」という命令が響いた。
 ばけもの…?
 それが何を指すかを理解出来ても認めたいものでは無くて、けれど否定の叫びは喉から出てこなかった。
 混乱の中で、まだ彼が捕らえられていない現実にほっとする。どうか見付からないで、遠くへ逃げて。そう願いながら、どうして一言も無しにおれを置いて出て行ったのかと詰りたくて堪らなかった。
 そして兵士が粗方部屋から出て行った後、残ったグウェンダル達が寝台へと近付いてきた。今のユーリは肩まで開いた薄い寝間着一枚だ。首筋の歯痕も、情事の残りも隠せない。
 自らを抱きしめるように腕を交差させたのは自衛では無く、寒かった為だ。色々な所が寒くて凍えそうだったから、自分で抱きしめた。
「言いたい事は分かっているな?」
 想像していたよりも冷静なグウェンダルの声に、おれは目線を落とす。視界に入ったヴォルフラムの握られた拳は震えていた。
「私の弟はヴォルフラムだけだ、ルッテンベルクは国王直轄地。そしてお前の護衛はグリエだ。違わないな」
「…ああ」
「この……浮気者……っ」
 いつもの怒鳴り声では無いのが、余計に鋭く刺さるようだった。全身を震わせて出す擦れた声に、ぎゅっと瞼を閉じる。
 そんなに強く握ったら掌に傷が付くだろうに、あんたの爪は長いんだから。
「ヴォルフラム、今は黙っている約束を忘れるな」
 尊敬している兄上との約束でも、零さなければならない怒りが彼の内に籠ったのだろう。
 おれは二の腕を掴んでいる自らの手を肩に這わせて首筋を撫でた。まるで挑発するようだと自覚があるが、ただ触れたかっただけだ。安心したかった。
 ヴォルフラムは激しい音を立てて部屋から出て行った。それを聴きながら、おれは判決を待つ。そしてそれは直ぐに与えられた。
「暫く城の外へ出る事を禁じる。それと魔術の使用もだ。勿論…これは我々臣下の意見であって、最終決定は陛下に委ねられますが。どうなさいますか魔王陛下?」
 おれは両腕を前に差し出し、ヨザックによって法石で作られた腕輪を両手首に嵌めた。繋がれていない手錠の重さは、慣れたいものでは無いなと自嘲する事しか出来ない。
 ぐったりと天井を見上げれば、普段と変わりの無い筈のこの部屋が住人を失った悲しさに冷たくなったように感じる。逃げきろうと捕らえられようと、どちらにせよ彼はもう戻っては来ない。もうこの部屋で寝る事も無いのだと思い至り、心の内も急速に冷えていくのが分かった。



 *



 それから一年の間、おれは城から出る事が叶わなかった。当初は吸血鬼の処分が済めばこの腕輪も直ぐに外される予定であったが、彼はとうとう見付からなかったからだ。
 国中探しても足取りがつかめないので、魔王が魔力の制御を受ける前に何処かの森深くに隠したのではないかと疑いをかけられたが…本当にそうであれば良いのにと何度思った事か。
 今回の遠乗りの許可も、彼が去ってから三年経ってようやく出たものだ。魔王が出向く前に現地を調査したらしい、わざわざユーリの僅かな希望を摘むような行為を。
 忘れられなかった、何も言わないで去って行った彼を。正しくは、忘れようなどと一度も考えはしなかったのだが。
 何度もグウェンダル達には人種の違いを訴えられた。ユーリからは一度もコンラートの事を口に出さなかったのにも関わらず、彼等は何度も諦めさせるような言葉をかける。それを聴かせられる度に、意地でも見付けだしてやると意思を固めているとも知らずに。
「陛下、寒くありません?」
 隣に馬を並べてそう訊ねて来た専属護衛に、笑顔で平気だと返す。血盟城から真っすぐ北に向かっているが、今は雪の季節でも無い。多少手綱を握る指の先が冷えている程度だ。
「何でグランツ地方なんですか?」
「グリ江ちゃんはもっとあったかい場所の方が良かった?」
 彼は気付いているのだろう。領主が蟄居などしている為に中央へ集まる情報が少ないこの土地の現地調査をしたいというのが表面上の理由なのだと。その最北端に向かっているのは、隣地であるビーレフェルトともウィンコットとも離れている場所だからというだけだ。茂る森も無ければ、人間の国と接している為に諍いの絶えない小さな村。そこに狙いを絞ったのは、勘が八割だったかもしれない。だからこそ無駄に自信があるのだけれども。しかしその反面で、此処で見付からなかったら途方に暮れるだろうとも分かっていた。勘しか無いのだから。
 眉根を寄せ、表情を曇らせたおれに気付いたのか、ヨザックはまた声をかけてきた。他の者に聴かれないようにだろう、少し声のボリュームを落として。
「ねぇ坊っちゃん、貴方はオレに暗示なんかかけて護衛を外させてすまなかったと何度も謝ってくれましたけど、オレは本当に一度も気にしちゃいなかったんですよ」
「…何で今そんな話をするの?」
「あいつを幼馴染だって信じてた時は何とも感じ無いんですけど、嘘だったんだって知らされて、騙されたままのが良かったって思ったんです」
 ヨザックの方に顔を向ければ驚くくらいの穏やかな表情で、飄々と鎌を掛けているような空気は感じられなかった。けれど下手な言葉も出せず、そう、とだけ短く返す。すると彼は前に向き直り、普段は見られない真剣な表情をして言葉を続けた。
「オレだけじゃなくて、顔には出せなくてもグウェンダル閣下達も似たようなものです。気持ちだけじゃ如何にもならない、それを最も強いられている立場は辛いんだと分かってあげて下さい」
 グウェンダルは真実諦めさせるつもりで今回の遠出を許したのだろうけれど、遠出を渋られたのはその残酷な現実におれを向かわせたくない優しさだったのかもしれない。そう思うと複雑で、表情を上手く作れずに苦笑いした。
「皆貴方の目的なんて分かってますから、気の済むように探して下さいね。護衛を撒こうなんて考えないで」
 返事が見付からないまま、おれは無言で、でもしっかりと頷いた。
 風が南から吹いているのは、応援してくれているのだろうか。根拠の無い自信と共に、胸に満ちる不安を見透かされているような気分だったが悪い気はしない。追い風は背中を押してくれているように感じる。進め、足を止めるなと。
 数秒だけ瞼を下ろして、その風をひとの手の形で思い浮かべた。沸き起こってきた涙をも攫うその手は、自分がよく知る、けれど三年間触っていない熱い手に似ていた。



 滞在期間はほんの三日間。
 その間はフォングランツの分家の屋敷に寝泊まりする。その挨拶と周囲を見回るだけで一日目は呆気なく過ぎてしまった。
 焦る事は無いと言い聞かせながら枕に顔面を押し込み、今は枷の無い手首に目をやると日付は変わっていた。あと二日、屋敷の者に聴いてもそれらしい情報は無い。何処から探しに回ろうかは事前に決めていたが、その自信も薄れかけていた。
 眠る時間も惜しい、どうせ碌に休息も得られやしないのだからと窓に手をかけ脱出をしようとした、その時、ノッカーが静かに鳴った。こんな時間に誰だと怪訝に思いながらも応答すれば、橙の髪と青い瞳が覗かれる。
「やっぱり寝付けないんですね、じゃあグリ江とお話しましょ」
 一瞬窓に目をやったが、流石に見逃してはくれないだろうなと諦めてカウチに座る事を勧めた。
「ねぇ、坊っちゃん。さっき小耳に挟んだんですけど、此処からそう遠く無い街に曲芸の一座がやって来ているんですって。明日観に行きません?」
 曲芸?そう口にして盛大に顔を顰める。嫌いなわけでは無い、悠長に観賞に耽る余裕が微塵も見当たらないからだ。
「おれにそんな暇無いって分かってるよな」
「ええ。でもね陛下、オレが諜報部出身だって忘れちゃいました?」
 目を丸くして彼の瞳を見詰めると、彼はにっこり微笑む。
「もう明日の夕方の席押さえちゃったんで、グリ江とデートしましょうね」
 勿論とっておきの席ですよーと語尾を伸ばしながら彼は座ったばかりの席を立った。そしておれの頭を撫でてから、おやすみの言葉も無く部屋から出て行く。
 パタンと音が立ち、一人になってから、おれは彼が触っていった頭部に手を置いた。彼も温かい手をしているなとぼんやり思いながら、ありがとうと呟く。今夜はやはり眠れそうに無い。



 ヨザックの言う“とっておきの席”は、最前列の端だった。これを一般的に特等席とは呼ばない。舞台は近過ぎて観上げている為に首が痛くなるし、出演者が待機している袖の中が丸見えで情緒が欠けた。半分お忍びなのでこんな事も有りだが、昨夜のヨザックの言葉が引っかかってしようが無い。
 玉乗りがそのまま火へと果敢に向かって行き、それを潜ると同時に燃え盛る。そして一瞬で消火した黒い輪の向こうで、やはり玉に乗ったままの曲芸師がポーズをきめていた。拍手を送りながら反対側で始まる芸に目を移すが、表情は固くなる一方で…隣に座るヨザックをちらりと伺う、彼は目の前のショーを楽しんでいるようにしか見えない。ふと溜息が出かけ、慌てて押し込んだ。詰まらないわけじゃない。けれど、心から楽しめないのだ。いつ彼が舞台に出るのかと心臓が煩い。そして、もし出たとしても珍獣のような扱いを受けていたらと思うと気が気じゃ無かった。目の前で見知らぬ曲芸師が剣を飲みこんでいくのを見ながら、あの男が自分の心の具現化のように感じてしまう事を苦く思う。
 そうしてただ痛みを感じているうちに、そのショーはフィナーレを迎えた。球場で見上げたジェット風船のような球体が頭上を飛び去っていく。青と白だけでは無いカラフルなそれをぼんやりと目で追いかけていたが、肩を突かれて現実逃避を諦めた。
「袖の所、見て下さい」
 言われて目を向ければ、先程出演者達が引っ込んで行った場所から手が覗いていた。その手は二度手招きをし、それから会場の裏手にあたる方向を指さした。
 無意識に腰が浮いたが、確認の為にヨザックへ顔を向ける。昔のように無鉄砲に飛び出して行かなかった事を褒めるような表情で、そして彼は「行ってらっしゃい」と見送ってくれた。

 一度会場を出て、楽屋入口に辿り着いた頃には息が上がっていた。そんなに走ったつもりは無かったから、恐らく緊張のせいだ。
 汗ばんだ手をノブにかけようとしたが、逆に扉は開かれ、手首を捕まえられた。強い力では無い、振りほどく気になれば容易に出来る。姿を現した人物は頭からすっぽり外套を羽織っていて、顔は判らない。名前を呼ぶ事も出来ずに暫くそのまま見上げていたが、彼は楽屋の中では無く外へと速足で進み始めた。
 無言で入って行った建物は、宿泊施設か何かなのだろう。聊か汚れが目立つ安宿だ。カウンターには誰もいなかったし、部屋に着くまで誰ともすれ違わなかった。二人分の足音だけが反響する。それがユーリには先程見ていたショーよりもずっと非現実に感じて、個室に入って手首が自由になった瞬間を残念にも思っていた。けれど、
「コンラッド」
 漸く名前を呼ぶ事を許された気がした。
 フードが下ろされ、三年振りに見る銀色の星に目を細める。感慨に耽るには早いと言うように抱きしめられた腕の力は強く、星が見えなくなっても不安は感じ無かった。
「…貴方が客席に居るのを見て、心臓が止まるかと思った」
「ずっとあそこに居たの?」
「裏方なもので」
 胸の間に空白を作り向かい合うと、ユーリは自然と踵を上げる。覚えてやいないのに、懐かしく感じる唇の感触が可笑しくて、もう少しもう少しと合わせている内に随分な時間が経っていた。
「良いのか、仲間の所から抜け出して」
「享楽的な奴らです、きっと俺が抜けたのに気付いてもしけ込んだとしか思いませんよ」
「…そのままじゃんか」
 くすくすという笑い声を聴いて、こういう笑い方をよくしたなと胸に顔を押し付けて思う。


 寝台に横になって、コンラートの胸の上で心臓の音を聴いていた。そしていつの間にか降り始めたらしい雨音に気付き、身を起こす。
「三年前の雨の続きかな」
 呟いた声を殺すようにコンラートはユーリの後頭部へと手を回し、押し付けるようにキスをさせた。それから腰に置いていた手で尻に悪戯をし、突き出すように仰け反らせたユーリの顎に唇を落とす。
 血を吸いたい時の彼の癖だ。必ず唇と顎にキスをする。いつもは許可も無くこの後首筋に歯を立てられたが、いつまで待ってもそれは下りてこない。不思議に思って名前を呼ぶと、彼は苦笑した。
「良いんですか?」
「もしかして足りてるとか?ああ、この三年間誰の血も吸って無いわけないもんな」
 自嘲を含めて皮肉気に口に出すと、コンラートは耳元で「思いきり吸い上げてしまいますよ?」と恐ろしい事を囁く。それでも「良いよ」と呟けば、彼は首筋に噛みついた。
 予告通りの強い吸い上げに、納まって来た官能が呼び戻されるのが分かる。血液を失うのと同時に理性を失う。この行為は嫌いじゃない。コンラートは言葉以上に血を吸う事を嫌がっていたからか、いつでもユーリが嬉しくて仕方なかった事には気付いていないようだった。これ程の優越は無いと思う、おれの血がこいつを生かしているなんて。そしてそれは独占欲にも繋がる。
「あんたが転々と場所を変える一座に身を置いたのは、後腐れ無く食事が出来るからか」
 そう、正気とは言い難い目で睨みながら訊ねると、彼は肯定した。生きる術だと言って。
「一ヶ月に二度補給出来れば、後は普通の食事で誤魔化せますから。丁度良い周期で移動興業する曲芸一座が最も適していたんです」
 そしてそれ以上は追及しなかった。仕方が無かった、それだけだ。本音は嫉妬まみれで音に出来る筈が無い。その代わりに、首筋の傷に手を当てながらずっと抱えていた疑問を口にした。
「何であの時、黙っていなくなったんだ」
 吸血行為によって紅潮した頬と、その固い声があまりにアンバランスで動きをぴたりと止める。
 三年前の雨が止んだ瞬間に浮かんだ選択肢の中で、この選択が正しかったのかは未だ判らない。過去も、今も。
「本当は、あの時死のうかと思ったんです。だから貴方に声をかけられなかった」
 妙な音を立てて、息を呑む。その様子に苦笑を浮かべながらコンラートは続けた。
「一度死を見た命ですから、あの幸せな瞬間に死んでも良いかと思えた」
「…死ぬとか言うな」
 今にも土砂降りになりそうな表情をした最愛のひとの頬を包み込んで、コンラートは「でも死ねなかったんですよ」と情けなく笑う。
「貴方はきっと、一緒に逃げようと言ってくれたでしょうね。それを振り切る勇気も無ければ、貴方に薄暗い生活をさせてまで幸せにする自信も覚悟も無かった。貴方を求める国民の声を知っていたから。死のうと思ったけれど、国民としてなら貴方をまだ求めても良いのではないかと自分を許してしまった。決して近くは無くても、貴方を見ていたかったから」
 彼の立場や、国を想う気持ち、国民からの期待、その全てを秤にかけて自分が勝るとは思えなかった。なら、無条件で彼の愛の下にいる国民の中に紛れようと…そう思った瞬間には現在最も中央との連絡が薄いグランツへと迷う事無く足が向いた。そしてそこで、丁度この時期に興行する一座に出会い身を寄せたのだった。
「もう一生分の幸せは頂いたと思っていたんですけど、貴方が見られなるのは悲しいというか、悔しくて」
「遠すぎるんだよ、じゃあおれはあんたの事をどうやって見ていれば良いんだ」
 一方的な気持ちでは無いのだと驚きながら、嬉しく思う。見ていたいと言われるのはくすぐったくて「そうですねぇ」と悩む振りをした。
「鳥を見た時、俺を想って下さい」
「鳥?」
「貴方が初めて会った時に言っていたんですよ?」
「…他の鳥で満足出来るんなら、あんたを探しになんて来てない」
 そう言ってしがみ付くから、少し困る。だが、この雨が止むまでだ。そうしたら、また彼は城へと帰るのだから。
 黒い髪を梳いていると、これがいつまでも続けば良いと、やはり願ってしまう気持ちに苦笑せざるをえない。
「雨が嫌いになりそうですよ」
 時間制限をかけられている事を一瞬でも忘れさせてはくれない音は、耳を塞いでも塞ぎきれるものでは無い。
 ユーリはそれについて何も言わずに、コンラートの手を取って暫く弄んでいた。爪の先を撫でて、ぽつりと漏らす。
「ちゃんと切ってるんだな、おれがいなくても」
 傷つけたく無い相手でもいるのかと詮索されているようだ。「違いますよ」と否定する言葉にも思わず笑みが混ざってしまって、より彼を不機嫌にさせた。
「俺がひとを害する事の無い生き物で在りたいから、せめて爪だけは切っているんです」
 血を吸っていながら何を今更と思わなくも無い。矛盾だらけだ。自己を認めながら、存在を許しきれないでいる。それに気付いていて中途半端な事をし続けるのは、一重にこの世に居たいが為だ。彼の居る場所に。
 再び雨音が部屋を占めた。
 随分と長い間無言で、コンラートはユーリの髪を、ユーリはコンラートの手を撫ぜ続けて、夜は刻々と朝に向かって歩いて行く。
 それを壊したのは、ユーリの方だった。
 体を起こすと、今迄弄っていた掌に自らの手を重ねて「十年だ」と言う。何が十年なのか分からずにコンラートは首を傾げたが、直ぐにユーリは嫌だとは言わせない口調で続けた。
「待っていてくれ。おれがその間に家一戸分の土地とあんたの住民票をもぎ取ってやるから。そしたら一緒に暮らそう」
「暮らすって貴方…」
「十年後にきっちり次の魔王に引き継ぎして退位する。それで良いだろ」
 たった十年で、差別に弾圧を失くすというのか。まるで信じられる話では無かった、その上退位だなど。
 けれど今この場で決めた事を自信満々に言いきってしまうこのひとが愛しくて、否定の言葉は出てこなかった。
 逃げるでもなく、隠れるでもなく、堂々と共に居られるそんな時間を過ごせれば、どんなに幸せだろう。
「ユーリ」
 目の前のこのひとに何度も救いを与えられる。居場所という救いを。
 腕の中に包み込むようにして抱きしめ、髪に顔を埋める。
 彼の言うそれは簡単な事では無いだろう。
 しかし十年なんて年月に固執する必要は無い。きっとこのひとの言葉を信じて何十年だって待てる。そんな気がする。
 次の約束も出来ないのに「その時が待ち遠しい」と囁くと、彼は嬉しそうに笑ってくれた。
 いつか、雨が止んでも一緒に居られる日が来る事を夢見て、今はただ、静かに瞳を閉じる。




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