『デキル上司』




 美味いと評判の社員食堂はそれなりに混みあっていた。外回りに出ていない時は、新入社員らしく隅っこの方で固まってメシを食うのが習慣となっている。
 話題はもっぱら仕事の愚痴や、同期の誰に彼女ができたとか、どこの会社の受付嬢が可愛かったとか、他愛の無いものばかり。
「渋谷はいいよな。ウェラー課長って優しくてさ」
「ぜんっぜん、よくない」
 新人研修を終えて同じく本社勤務となった同期の言葉を聞いたおれは、行儀悪く握った箸をからあげに突き刺した。
「なんで? 可愛がられてんじゃん、おまえ」
「どこがだよ。絶対におれ、嫌われてるぜ」
 そりゃ、物覚えが悪いかもしれないけどさ。
 つい声が小さくなってしまうのは、非が自分にあることを理解しているからだ。
 研修が終わって配属された部署の課長は、とても厳しい人だった。服装から始まり、言葉遣いや、名刺の差し出し方に至るまでことあるごとに注意が入る。一度もなにも言われずに過ごせた日は、いまだないぐらいだ。悔しいことに、注意している本人はどこを探しても非の打ち所が見つからない。
 今日も朝から作成した書類の日本語がおかしいと指摘された。
 先日も似たような失敗をしたばかりで、今度こそと三度も事前にチェックしたにもかかわらず、だ。
 自慢にならないが勉強は苦手。本も雑誌ぐらいしか読まない。研修を受けたとはいえ、ビジネスで使用するような言葉遣いは難しく、堅苦しい漢字はなかなか身に付かない。
 こんなことなら学生時代にもっと勉強しておけば良かった。
 そうすれば…。
 一瞬、頭によぎった思考を振り払うように、頭を大きく振った。
「どうした、渋谷」
「なんでもねぇよ」
 そうすれば、少しは褒められただろうか、なんて。まるで子供みたいじゃないか。そうじゃない。ただ、同じことをしていてもおれだけ注意されるのがおもしろくないだけ。
 それ以上聞かれたくなくて、唐揚げを口いっぱいに頬張ると、幸いにも他の話題へと切り替わった。


 世間は不況のまっただ中。面接を受けては連敗記録を更新中で、いい加減に夢も希望も持てなくなっていた。
 今にして思えば、どうせ次もダメだろう、なんて考えがずっと頭の片隅にあって、落とされるのも当然だったんだけど。
「ネクタイが曲がっているよ」
 面接前の緊張感に耐え切れず駆け込んだトイレで出くわした人は、恐ろしいぐらいに整った顔立ちをしていた。ぴんと伸びた背筋、スーツに着られているおれとは違って、仕立ての良いスーツをしっかりと着こなした姿はとても自然で、まるで爽やかが服を着て歩いているような。ああ、これが社会人かとバカみたいな感想を持った。
 ぽかんと見惚れている間に、おれのネクタイは長い指によって解かれていて。見上げる位置にあった目が不思議な虹彩で輝いてることに気付いた時には、朝たっぷりと時間をかけて自分で結んだ時よりも綺麗に結び直されていた。
「試験がんばって」
「あ、ありがとうございます!」
 親しみのこもった笑顔を見たら、さっきまでの緊張とは異なるリズムで心臓が騒いだ。
 きゅっと首が締まると、気分まで引き締まる。
 無理かもしれないという気分がいつの間にか消えていて、絶対に受からなきゃと気づかぬうちに拳を握りしめていた。


「うぅ、おれのバカ」
 手伝いの申し出を断ってしまったことを今更ながらに後悔したところで、もう周りには誰もいない。
 省エネ推進のため、自分の頭上のみに灯された灯りが涙を誘う。ほんと、おれのバカ。
「でも、仕方ないよなぁ」
 お客さんの押しに負けてしまった。
 自らをお客様だと思っているような相手だったら断っただろうけど、「どうしても明日までに資料が必要なんです」と何度も謝罪とお願いをされてしまったんだからしょうがない。困ってる相手なら、助けたいと思っちゃうよな。
「また課長に怒られるよな」
 今日は客先に行ってそのまま直帰らしいから、明日。きっと勝手なことをしたと怒られる。
「これ、終わるかな…」
「終わらせるんです」
 弱気な呟きは、誰かに聞かせるためのものじゃなかったのに。予想しなかった返事に、思わず固まった。
「なんで?」
「なぜ連絡をしなかったんですか?」
 不在の課長の代わりに、部長に報告をして指示を仰いだのだから責められる謂れはないんだけど。呆れられたくないだとか、迷惑をかけたくないだとか、明らかな私情を挟んでしまったものだから反論しにくい。
 丁寧だが責める雰囲気のある口調は、初めて会話を交わした時のような軟らかさなどどこにもなく。咎める視線を受け止めきれずつい俯くと、ここ一ヶ月の付き合いで見なくても分かるようになってしまった溜息の気配に思わず肩が落ちる。
「どこまで出来てるんですか?」
「あ、一人で出来ますから」
「ミスがあったら困るのは君ではなく、お客様です」
 ピシャリと言われてしまうと、返せる言葉もない。黙り込んだおれに構わず近づいてきた課長は、勝手にマウスを取り上げて作りかけの書類をチェックすると向かいの席に腰を下ろした。
「ほら、手を動かして」
「はい」
 それっきり会話は途切れ、おとずれた沈黙の中で二人分のタイピング音と書類をめくる音がする。
 誰かが心配して連絡をとってくれたのだろう。だからといって、放っておくこともできたはずだ。終電を逃してしまうかもしれないけど、たぶんおれ一人でもなんとかなったはずだし。
 でも、来てくれた。
 情けない自分を反省するべきか、ありがたいと感謝するべきか。
 ちらりと窺った前方の課長は、真剣な表情でモニタを見つめている。見習うように背筋を伸ばし、おれも作りかけの文書と向き合った。


 三度も宛先を確認してから、作成した書類を添付したメールを送信した。
「お、おわっ、た…」
「おつかれさま」
 突っ伏した途端、声がかけられた。小さな音がして顔をあげたら、目の前には缶コーヒー。
 振り向いた先の課長の手の中にも缶があるから、どうやらこれはおれの分らしい。
「えっと」
 ミルクも砂糖も入った甘めのそれは、おれが時々飲んでるヤツ。課長はブラックしか飲まないから、その選択はおれの好みを知っているということ。
 普段は厳しいくせに、こういう時だけずるいよな。
「すみません。それから、ありがとうございました!」
 立ち上がって勢いよく頭を下げた。一人で出来ると強がったけど、結局ほとんど助けられてしまった。
 怒られることを覚悟していたのに、返されたのは笑い声。
 笑顔はよく見た。客先でも、社内でも。目元と口元を和らげて、穏やかに笑っている顔を。
 でも、こんな風に楽しげな笑顔を見たのは、入社してから初めてかもしれない。
 まるで。
「初めて会った時みたいですね」
 おれの頭の中を読んだみたいに、課長が言った。まじまじと見つめてしまったおれの視線をどう受け取ったのか、課長は楽しそうに口元を緩めたままコーヒーを持たない方の手を持ち上げると、中指で自分のネクタイを緩めてみせた。
「ネクタイ、きちんと結べるようになりましたね」
「覚えてたんですか?」
 数ヶ月前。しかも、ほんのニ、三分の出来事だったのに。
「君の方こそ、初めましてって言ったじゃないですか。覚えていたんですか」
「あ、だって。覚えてないと思って」
 まさか、その数分の出来事に憧れて入社したくなっただなんて、言えるはずもない。配属された部署で再会できた時は嬉しかったけど、覚えられていないだろうと思って「初めまして」と挨拶した。
 「こちらこそ初めまして」とあっさり返され、自分で言い出しておきながら悲しくなったけど。一度、嘘をついてしまうと今更に思えて、覚えているか聞く事は出来なかった。
「忘れるわけないですよ」
 それはどういう意味だろう。
「そうですね。食事でもしながら、話しましょうか」
 仕事は終わりです、と今度はおれの首元に手が伸びる。締める時とは大違いに簡単に解かれたネクタイは、クルクルと丸められて胸ポケットに納まった。
 夕食を食べ損ね、腹は確かに減っていた。
 向けられた笑顔が、初めてあったあの日とだぶって見えたから、おれは思わず頷いてしまった。




ユメウツツ


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