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まちぼうけ

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 焦燥の余り苦しくなった息を深呼吸で逃がす。必死に抑えていなければすぐにでも駈け出してしまいそうな身を執務室の古めかしい王の椅子に押し付けて、あふれそうな思いからどうにか意識をそらそうと努める。
 さまよわす視線が斜め前、宰相席に座る男に止まったら、いつもより深い眉間のしわがまたぴくりと増えた。
「私を睨んでいる暇があったら少しでも片づけろ」
 書類から目も上げないまま、グウェンダルが苦言を呈す。
 三ヶ月と半分。海の向こうの紛争地域に赴いていた男が帰ってくる。その紛争の裏から糸を引いていた国の妨害で一時は随分な難航も予想されたのだけれど、予定の期間を多少超える程度で任務完了、帰国と相成った。現地の眞魔国軍の尽力はもとより、眞魔国がその問題の国に随分と圧力をかけたせいもあるのだが。そのいささか強引なやり方は国内外をヒヤヒヤさせ、宰相の胃には穴が空きかけたのは――もう過ぎたことだ。
 どうにも落ち着かないユーリがペンを投げ出す。口にするのはこの三ヶ月、幾度となくした繰り言だ。
「いくら平和のためって理由があったって、やっぱ武力を行使するのは嫌だよ。専守防衛を内外にアピールし続けてきたのだって、こんな派兵をするためじゃない」
「だが我が国が派兵しなくては、かの国の泥沼の戦闘はまだ続いているだろう。更なる犠牲も出ていた」
「わかってるけど――」
 そこへ持っていくのは武力じゃないといけなかったのか、との続きは呑み込む。
 交渉や取引で決着できるところはもうすでに遣り尽くしたのだ。それにもかかわらず聞く耳を持たずに孤立している一部を武装解除して無力化するための派兵だった。
「だからコンラートに行かせたのだろう。誰よりもお前の望みとやり方を心得ているあれを」
 宰相の言葉は戦闘地域へ実弟を送り出したことを責める口調では決してなかった。むしろお前は出来ることを最大限すべてやったのだと、ユーリを認めるものであったけれど。
 ユーリの心うち、魔王ではない部分は、誰よりも大切な人を行かせた自分をずっと責めている。
 そして魔王としてのユーリも、相反する理想と現実に決着をつけられず、ずっと不安定なままだ。武力行使を否定しながら結局はそれに頼ってしまうこととか。嫌だと言いながらそれを臣下に命じることとか。
 百二十年なんて気の遠くなるくらい王様をやってきたって、ちっとも上手くならない。
 幸い眞魔国が戦争状態に巻き込まれる最悪は今までなんとか回避しているけれど、世界はいつも何処かで戦争をしている。飢えや貧困はなくならないし、より多くの利権をめぐって諍いは絶えない。
 自分は眞魔国の王で、世界を自分がどうにかしてやろうなんてそれは奢った考えに他ならないのだけれど。そんなことまで自分の落ち度のように切迫してくるのは尋常な心理状態じゃないと、あわててかぶりを振った。
 コンラッドが足りない。
 なんだかんだと最もらしい理屈を捏ねたって――判っている。その根源はひとつ。彼が傍にいないこと。
 そして、終息に向かっているとはいえ戦地に赴かせたのは、ユーリだ。
 押し寄せてくる苛立ちを深呼吸で散らす。さっきから堂々巡りだ、と。両手を擦り合わせたら冷たく強張ってしまっていた。
 逢いたい。
 思い詰めそうな気を紛らわそうと右手に座る宰相に相談を持ちかけてみる。
「やっぱ迎えに行けば良かったなー…公式じゃなくって馬飛ばしていったら、なんとかギリギリ行って帰って…」
「どうやっても無理だ」
 もう聞きたくもない愚痴だとうんざりしながらも、それでも律義に返してくれるグウェンダルの優しさを感じながら、どうしても日程を動かせなかった会議と謁見と…その他幾つかの公務を呪わしく思ってまた溜息。
 無事な姿をこの目で確認して。おかえりを言えたら。それだけでいいのに。
 別に出迎えに行かずとも、港から王都まで二日もすれば会えるのだ。百日以上も離れていて、どうしてあと二日が待てないのか。――理屈ではわかっていても、いよいよ戻ってくるとなれば、思い出せば辛くなると無意識に封印していたのが緩むらしくって。
 その二日が待てない。
 きゅっと唇を噛んだ。
 だけど…会議をドタキャンする覚悟で迎えに行ったとして。運よく船の到着に遅延がなかったとしても、たぶん顔を見るだけで自分はとんぼ返りだ。派遣隊の大所帯と共に帰城するような時間の余裕は全くない。そしてその場合、ウェラー卿は派遣隊総指揮官の任からさっさと魔王の護衛に戻っていそうな気が…確信に近い部分でそう思う。いや、さすがに、指揮官が本隊をほったらかしてきちゃマズイだろう。
 やっぱりここは大人しく血盟城で待つべきなのだと、ユーリは自分を納得させた。
 あと二日、だ。



 待ち遠しさが擦り切れる位までに待って。延着など発生することもなく、至って順調に王都にまで帰ってきたというのに、もうすっかりユーリの感情は疲弊しきっていた。
 会議中の休憩時間、何食わぬ顔で退室して、そこから全速力で駆けあがってきた血盟城で一番高い物見の塔から目を凝らす。
 街並みの隙間、まだ濃い影にしか見えない行列がちらちらする。ぜいぜい鳴る息と激しく打つ心臓がうるさい。
 その列の先頭の辺りに目星をつけて、酸欠にかすむ目で見つめても、枯渇した心はもう何を感じていいかもわからない。
 窓枠を握りしめていた指が妙に心もとないことに気がつけば、かくんと膝からも力が抜けた。
 慌てて駆け寄る代理の護衛を手で留め、埃っぽい壁に背中を預けてただただ、本当にここで安堵していいのかと。自分は夢をみているのではないかだとか。そんなことばかりを考えていた。

 ユーリが実際にコンラートの姿を目に出来たのは、それから二時間もしてからだった。
 随分な遅刻で戻った会議室、宰相から逃げたと思っていたと視線で告げられながらも再開して。派遣隊の到着の知らせがユーリにもたらされたのは、その会議が終わって更に急遽発生した謁見を済ませたあとのことだった。
 正門を潜って帰還した部隊を魔王は玄関の階段を下りて出迎える。任務を命じた者として。
 総指揮官にねぎらいの言葉をかければ、彼は魔王に任務完了の報告をする。続く士官と前に整列する兵士の労を謝する。
 三ヶ月以上に及ぶ遠征に真新しかった装備は草臥れて、疲労の色は濃かったけれど、それでも無事任務をやり遂げた誇りに満ちた面々を前にして胸が熱くなる。
 その命を預けて、戦地へ赴き、目的を果たしてきてくれた兵たち。それが仕事だからとか、そんな判った風なことは微塵も割り込む隙がない。
 自分の命令で命を張って任務を遂行してきてくれた者たちを目前に、言葉なんてうすっぺらなもので伝えるられることなんてとても限られていて。その言葉すら、とおり一辺の羅列にしかならないことをもどかしく思いながら、感謝する。
「みんな無事に帰ってきてくれてありがとう」
 まったく戦時には向かない王だと、年長者達から苦笑が向けられたのは判ったけれど。いいんだ。おれは泰平の世専用だから。

 遠足は、おうちに着くまでが遠足です。じゃないけれど。帰城したからって即御役御免とならないのが責任者。その後も報告だとか事務伝達だとかで、なかなか解放されない。派遣隊司令官の部屋は魔王執務室に間借りなのだけど、そこにすら落ち着いていないようだった。
 だけど忙しなかったのはユーリも同じで、会議の結果を受けて立て続けに人と会っていたりしたので、コンラートに最も接近したのが出迎えた玄関で言葉を交わした時、というありさまだった。
 十貴族を交えた任務完了の報告の席でだって、目くばせを送られたのは、自分が事務官から耳打ちをされている時だったし。
 もう随分夜も更けた頃、待たしていた最後の会談相手のところへ急いでいて、偶然、コンラートとすれ違った。
 ユーリは同席する事務官と近衛を従えていて、彼は既に独りだった。
「まだお仕事ですか」
 終わらないのかと。ならば自分が護衛に、と言い出しかねないのに、ユーリは慌てて手を振った。
「今夜はもうゆっくり休んでくれよ。そんで明日の朝は起こしに来て?」
 断りの口実のような望みを告げると、だったらあなたが泊まりにいらっしゃい、と目で誘われた。
 息苦しさを覚えてユーリは手にしていた書類に視線を落とした。
「明日起きられなくなったら困るだろ、もう寝ろよ」
 踵を鳴らす軽い音がして、視界の隅に礼を取る彼の姿が入った。
「はい陛下。では御前失礼いたします」
 縋りつきたいくらいに懐かしくて馴染み深い声が、文字を追うユーリの鼓膜を震わせる。
 間違いなく今自分は『陛下』なのに。名で呼ばれなかったことはなぜかユーリに淋しさを感じさせた。

 これまで張り詰めていた緊張が緩んだせいか、どうにも自分の気持ちが儘ならない。
 会いたくて焦がれ続けた人が帰っているのだ。会いに行けばいい。だのに自分はこんな処でぼんやりしている。
 真夜中を過ぎた魔王の居室。帰って来て目に入った椅子に腰を下ろしたら、もう立ち上がるのが億劫になってしまった。
 だいたい、もうこんな時間だ。あいつだって長旅で疲れている。何も今から押しかけなくったって、朝になればここへ起こしに来てくれる。しばらく事後処理だなんだで魔王の護衛には戻れないだろうけれど、それでも血盟城内の仕事。しかも司令官の机は魔王の机の十歩手前だ。
 気がつけばそんな会いに行かないための言い訳を並べていた。
 無事に自分の元に戻ってきたからこその贅沢なのだと思って笑った。つきんと胸が痛くなる。  本当に、帰ってきてくれて良かった。安堵はますます身体から力を奪って、そのままずるずると長椅子に転がった。寒くもないのに指先が強張る。
 部屋を出て、角をいくつか曲がって階段を降りて。またいくつか角を曲がればコンラートの部屋だ。たとえもう床についていたとしても、自分が行ったならその扉は開かれて歓迎されるだろう。彼が留守の間のことを色々話す。そう、何と言っても、若いコンラートが来てしまった話だ。あいつは百年以上も前にここへ紛れ込んでしまったことを、果たして覚えているんだろうか。今までそんなこと、聞いたこともなかったけれど。ひょっとしたらユーリを驚かそうと黙っていたのかもしれない。確かにあれには強烈にびっくりした。
 ふと、あの年若いコンラートはどうしているのだろうかと思い出した。傍に居ない苛立ちをぶつけて随分迷惑と心配をかけた気もする。おれのコンラートが無事に帰ってきたと、伝えて礼のひとつも言っても罰は当たらないだろう。
 よし、と起きあがる。
 思いついたら何の躊躇いもなく会いに行けるのは、彼が自分より年下故の気安さなのだと思って。



「おはようございます。ユーリ」
 夢にまでみた日常が帰ってくる。待ちわびたそんな日常は、だけどやっぱり日常で。拍子ぬけるくらいフツーだ。
 冷たい指が頬を掠め、こめかみの髪が引っ張られる。呆れ混じりのため息がひとつ。
 あ、だけど。やっと手に入れた日常をもっと味わっていたかったけれど。あまり日常でないイレギュラーが一件あったんだった。
 今よりずっと若い、初々しいまでのコンラートに会ってきた。それで自分でも掴み切れないわだかまる憂さのままに、ちょっとばかり意地悪をして。楽しかった。  くっついていたがる瞼を、彼の表情を見てやりたい一心で無理やり引きはがしたら。忌々しそうなコンラッドが居たから、わざわざ過去まで行った甲斐があったと満足する。
「こんなところで切ってしまって、どうするんですか。いっその事短くしますか」
 なんだ、ちゃんと覚えているんじゃないか。そんなふうに小言をくれるのも、理由が理由だけに愉快で堪らない。
 だって。 「すっげ可愛かった。コンラッド」
 髪を抓む手を捕まえて告げる。
 とても嫌そうに眉が寄る。
「もーヤバいよ。百歳だぞ、百歳! 完成しきってない線の細さっていうか…とにかくなんか危うげな色気出しまくりでさ。子供のおれに手ぇ出しちまったあんたの気持、初めて判ったよ」
 つい、興奮のあまり言ってしまったら、コンラッドは少し傷ついた顔をした。
 うん、だからって十六にも満たない子供を大人がどうこうするのはどうかと思うぞ。
 下から伸ばした手で耳朶を辿り襟に隠れるところまで指を這わせるとわずかに視線が揺れる。
「やっぱあんたって相当敏感だな」
 面白いように自分の腕の中で反応を見せていた姿を思い出して、くつくつ笑いが止まらない。
 室内履きを引っ掛けて、覗きこめば護衛はますます不機嫌を深めていた。
「怒ってる?」
「当たり前です」
 憮然とするコンラートを睨んで軽く逆ギレてみる。
「なんで黙っておれを昔に行かせたんだよ」
 そう、これだ。彼は知っていたはずだ。自分が過去へ憂さ晴らしに行くのを。―― もっとも彼はとばっちりで憂さをぶつけられた被害者だったわけだけれど。
 なのに、その返答は。
「そんな百年何十年も前のことなど覚えてませんよ」
「え、うそ? 覚えとけよっ」
 他のことは何でもよく覚えているくせに。
「あなた俺が寝ている間に帰ってらしたんでしょ? そんな夢かうつつかもはっきりしない、確認取る相手だっていない――今あなたのその髪を見て、あれは現実だったんだと思い出したくらいなんですから。だいたい、三月半も離れていて、帰って来たと思ったらこの仕打ちっていうのは、どういう料簡なんですか」
 実は本気で怒っているらしいのにうっと言葉に詰まった。
「あなたは何か余所余所しいし。夕べだって来て下さらなかった」
 だっておれはもう、どうにかなっちゃうくらいにあんたの帰りを待ち焦がれていたのに。だけどそれを命じたのはユーリ本人で。
 言ってしまえばこの派兵だってもっと他にやり方があったのかもしれない。差し向けるのは軍隊でなくて良かったのではないか、とか。それにしたってコンラートに全権委任しないといけないような事態だって――この数か月ですっかり習い性になってしまったループは易々ユーリを捕まえる。
 コンラートの帰りを、無邪気に喜ぶ資格が自分にあるのか――起きぬけで強張る指を握り込む。
 奥歯を噛んで現実に目を向けたら、当の本人が手を伸ばせば届く距離に立っている。盛大に不機嫌で。
 そういう風に改めて突きつけられると、確かに仕出かしたことは言い訳できない類のものだった。
 後悔に鼻の奥がきな臭くなる。それを、だけど後悔っていうのはやってしまってからするから後悔なんだ、なんて強がりで飲み込んだ。
「わかった。今度若いあんたに会ったら念押しとく」
 それでも目も合わせられずに踵を返したら、痛いくらいに腕を掴まれた。
「もういいでしょう。俺が帰って来て、もう昔に行く必要なんてないでしょう」
 この臣下はあるじを叱責する。
「…やきもち…?」
 コンラートの鼻の上に盛大に皺が寄った。
「あなたは誰のものですか」
 威圧的に顔を寄せられる。殺気すら漂わせて。
 おれは、おれのだ――そううそぶいてやろうとした口を乱暴に塞がれた。
 貪り食うようなキスで、歯を立てられた唇が痛い。拒むことも許さないと押し入られた舌に奥深くを探られて息が詰まった。
 勢いに押されて二歩後ずさったら、ふくらはぎが寝台のふちに当たる。とん、と肩を押されて、コンラートに縋った。まだ温みの残る褥の上に押し倒されて、更に荒らされる。
 怒られているはずなのにそれが甘くて、泣けてくる。
 コンラートの匂いを吸い込んで。舌にコンラートの味を感じて。夢でも幻でもない、おれの、コンラート。
 自分の中から引いたのを追って見上げたら、長い歳月をかけて馴染んだ顔が苛立ちを残したまま見つめていた。
 少し焼けた頬に手を伸ばしたら、指先に乾いたささくれを感じた。
 国から遠く離れた任務の厳しさを偲ばせるそれに、何故かほっとした。
 コンラートがちゃんと帰って来たと、出立前の記憶とは違うそんなことで実感する。
 ユーリの中のコンラートは、ずっと別れた三ヶ月前で止まっていた。それが、今目の前にいる彼は、きちんと三ヶ月分変化したコンラートで。
「おかえり」
 もう顔を見ていられたくなくて、首に回した両腕に力を込めて引き寄せた。


End


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