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大人と子供とその間

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 訪ねたコンラートの部屋は真っ暗だったが、奥の寝室には人の気配がした。寝台の軋みと衣擦れの音。ユーリは照れ隠しに天井を見上げて、出直すかと踵を返した。流石にユーリ少年の濡れ場を覗く趣味はない、と――が、扉越しに聞こえた喘ぎは女だった。
 はぁ?!
 瞬間的に湧きあがった激情で扉を蹴破れば、落とした灯りに浮かびあがる白い裸体がコンラートの上に乗り上げていた。
「あんたっ…」
 何をやっているのかと怒鳴りつけようとしたが、女から発せられる殺気に声を呑む。
 女の、髪を結いあげたかんざしを引き抜く動作で、褐色の髪が滝のようにこぼれ広がる。
 あれは凶器だ、とユーリは本能的に理解する。
「コンラッドっ」
 女が倒れ伏したところには既にコンラートはなく、身をひねって女の腕を後ろ手に寝台へ押さえつけていた。流れる動作でその首筋に手刀が入る。意識を奪った女を寝台から転がり落してコンラートの手が枕の下に伸びた。目にかかる髪の間からこちらをねめつける、銀の光彩を散らした瞳が蝋燭の光を受けてギラリと光る。
「得物を置け」
 滅多に聞くことのない容赦のない口調を投げかけられてユーリは戸惑った。思っていたのとは少し違う、コンラートの佇まいにも。
「得物って…丸腰なんだけどなぁ…」
 浮気と思いきや、もっと物騒な事態らしい。そして自分はきっと来る場所を間違えている。ここは自分と面識のある百二十年前のコンラートが存在する世界ではない。おそらくもっと――。
「――だって…若いって…若すぎ。少年じゃん…」
 ぼやきが零れるが、コンラートから向けられる殺気は本物だ。きっとあの女の仲間だと思われている。なんと言ってもこのタイミングだ。
 三十六計逃げるに如かず――まどろっこしいことを説明する前に殺されては敵わない。しかも相手は…少年。このコンラートが今のユーリを見てももちろん判らない。
 お邪魔しました、と帰ろうとして、だが、ふと心配になった。
「…あんた何で命狙われてんの?」
 こちらを睨みながら、大人になる前のまだ青い風情を漂わせたコンラートは、その年齢らしからぬ仕草で口の端を上げた。
「そんなの決まっているだろう。混血の王子など目ざわりだからだ」
 ユーリの美しい眉が顰められる。理由もだが、そう言うコンラートの荒んだ心が痛くって。
「もっと上手くやるなら殺されてやるのもやぶさかじゃあないが、この程度でやられてやるのも癪だろ」
 若くったってコンラートだけあるらしく、ユーリの力量もすっかり見切られている。もっともユーリがコンラートより腕が立ったら彼の護衛はいらない。
「俺が女を断ったらお前だったわけか――…その色…」
 コンラートの目が剣呑に眇められる。
 薄暗い中でもユーリの纏う色がかなり濃いものであることに気がついたらしい。
「刀剣より魔力を使うのか」
「あぁ、うん、まぁ魔力ならそこそこ――だからその物騒なものは出さなくていいから」
 ユーリが指さすと、コンラートは探るような視線を飛ばして、やがて諦めたように枕の下から右手を抜いた。
「で?」
 投げやりな風に寝台に腰かけて、引き上げた片足に腕をついてこちらを睨む。
 だけどユーリはわかっていた。観念した風を装って、だけどコンラートはこちらの隙を窺っている。何より彼は、利き足を床に下ろして足場を確保している。
 何度か油断を装って押し倒されたことがあるユーリは、身をもってそれを知っていた。
 その足元には裸の女が転がっている。そばには群青色のドレスが脱ぎ散らかされていて、彼の白い礼服の上着も落ちていた。女の格好に引き換え、幸い彼はまだ着衣のままで、何とはなしにユーリはほっとした。
「うかうか刺客なんか引きずり込んでるんじゃねぇよ」
 つい咎めるような口調になってしまうのにいぶかしげな表情を返される。
 あぁ、仲間だと思われているんだった。
「おれはあんたを殺しにきたわけじゃないぞ」
「じゃあ何をしに? 拉致か? 王子だからって遠慮して幽閉されるのも嬉しくないな」
 噛み締めた奥歯が軋む。遊びにきたとか、あんたをからかいにとか――ここのコンラートはそれどころじゃないらしい。
「――助けに。あんたを助けにきた」
 鼻で笑われた。
「本当に…だっておれはあんたの味方だ、おれは――」
 そこでハタと困る。おれは――あんたの名付け子だ、と? あんたの恋人で、あんたのあるじだと? ずっと未来からやってきたと?
「――おれは伝説の大賢者だ!」
 ユーリは自らの髪を引っ張って見せた。
「ほら、双黒だ。いつもは眞王廟に籠っている――公表はしてないからあんたも知らないだろうけど」
 それは村田だけれど。しかも非公開でもなんでもないし、油断のならない暗躍でむしろ要注意――「渋谷は綺麗なままでいなよ」と汚れ役をすべて引っ被ろうとする親友を思って、こっちはこっちで溜息が出た。気を取り直す。
「眞王があんたを助けてやれって言うから来たんだよ?」
 蝋燭の傍に寄って明りに照らさせる。ついでに消されていた燭台の灯も増やした。
 それでも相変わらずコンラートは黙っていたが、眼にはわずかな動揺が感じ取れた。黒い髪に黒い瞳。その上ユーリが身につけているのは漆黒の衣装だ。魔族がこの色に感じる畏敬の念は百二十年かけて知っている。
「信じようと信じまいと…だけどあんたはこの大賢者様の魔力には敵わないんだし」
 まな板の上の鯉なんだから観念したら、と。これは張ったりだ。いくらユーリの魔力が巨大であろうと、ユーリはコンラートには勝てない。
 だけどそんなことおくびにも出さずににっこり微笑む。経験上、これでオチない魔族は居ない。
「では伝説の大賢者様がどうして半分は人間の俺を助ける?」
「だから眞王が」
「眞王陛下はなぜ?」
 やっぱり信じちゃいないらしい。けれど警戒は解いていた。ユーリの微笑の効果だけでなく、ここのコンラートは諦めが早い。投げやり、というか。自分が良く知るコンラートの頑固さはこの反動かと、胡乱な目を向けそうになる。いや、今はそうではなく。
「あんたは成人の儀で魔族として生きることを選んだんだろ。眞王が助けるのは当り前だ」
「だが半分は人間の血だ」
 それを理由に刺客まで差し向けられる相手はそんなことでは納得しない。
「じゃあなんで成人の儀なんてあるんだ? そこで誓ったことが本当だろう――血の濃さなんてのに拘ってる方が間違えてるんだ。何より眞王は今、あんたにおれを使わした。これが、あんたの正当性だよ」
 そう、この為に自分は百二十年前よりもう何十年か以前に迷い込んでしまったのだと思う。ただそれが本当に眞王の計らいか、単にそろそろアニシナ作の時間隧道の使用期限が切れるころで不安定になっているだけなのかは分からないが。

 すんなりと信じてもらえるなんて本当は思っていなかったので、とりあえず露骨な殺気を向けられなくなっただけで良しとした。
 それで、寝台の下に転がったままの刺客の処分だ。
「まさかこのまま転がしとくわけにもいかないだろう」
「そうだな」
「どうするんだ」
「さて」
「あんた何も考えてなかったのか!」
 呆れたことにコンラートは口の端を上げただけだった。
 刹那的すぎる!
「若いっていいなぁ」
 半ばやけくそに呟きながら、ユーリはシーツで女を簀巻きにした。あぁ、このドレスも一緒にくるんでまえ。女性相手なのにどうも容赦なくなってしまうのはやむを得ないと思う。
「忘れものだ」
 コンラートは寝台に落ちていた小さな下着を取り上げた。女の顎を掴んで口を開かせると押し込む。
 ユーリが引いているのが伝わったらしい。コンラートは女を顎でしゃくった。
「歯の間に毒を仕込んでいる。まぁいずれ雇い主のどっかの誰かに始末されるだろうが」
 そんなことを淡々と言うからますますユーリの機嫌が悪くなるのだ。
「あんた初めっからこいつが刺客だってわかってたのか?」
「だからキスはしていない。毒を塗ってあるだろう身体も舐めていない」
 遣り切れなさが怒りに変換されてユーリは拳を握った。が、まだユーリのではないコンラートはみすみす殴られてはくれない。腕を掴まれて身体が回転したかと思うと腕をねじり上げられていた。
 肩が壊れそうに痛い。胸も、痛い。
「なんでわざわざそんなのに乗ってやるんだっ。そんなに死にたいのか!」
 背後の気配が笑った。
 唇を噛んでないと泣きそうだった。

 ユーリが女を担いで出て行き、適切に処理して戻ってきたら、コンラートは驚いた顔で迎えた。
「一緒に逃げたと思ってた」
 やはりまだ女の仲間だと思われていたらしい。
「グウェンとこに置いてきた」
「兄う…あの女はフォンヴォルテール卿の差し金なのか…?」
「はぁ?!」
 今度はユーリがギョッとする番だ。
「何言ってんのあんた――なわけない…グウェンだったら上手く計らってくれるだろうって――ちょっと弟さんの身辺に気を付けてやって下さいって手紙書いてきてやったんだろ!」
 だがコンラートの目は冷たいままだ。
「不肖の弟が魔王陛下の顔に泥を塗らないように?」
 もう耐えきれず。驚いた表情でコンラートの反応が遅れたのは、ユーリが泣いているように見えたからかもしれない。ユーリはコンラートの身体を抱きしめていた。
 腕の中のそれはまだ硬い少年の身体だった。ユーリが馴染んでいるものとは全然違う。ユーリの遠い記憶にあるものとも違う。
 ユーリの腕の中に収まる骨ばった細い身体。華奢な背中は彼を押し潰そうとする諸々を背負うためか固く強張っていて。それが切なくて愛しくてそっと撫でた。
「グウェンはそんなんじゃないよ。あんたをとても心配してる。グウェンだけじゃなくって他にも――」
 ユーリは知っている。当時の摂政の下で残されたコンラートらを冷遇し続けた公式記録も読んでいるし、様々な人から当時の状況も聞いている。実権を握っていたシュピッツヴェーグ卿シュトッフェルを恐れて表立ったことはできなかったが、血盟城内全てがコンラートの敵ではなかったことも。
 更にシュトッフェルと政治的に対立する側にとっては、長男や三男のような後ろ盾を持たないコンラートを利用しようという意見すらあったらしい。権力闘争の前では彼を虐げ続けた混血ということも決定的な問題ではなかったのだ。
「あんたの敵ばかりじゃないよ」
 力いっぱい突き飛ばされて、ユーリはそばにあったテーブルに腰をぶつけた。
 不信感をあらわにした目でコンラートが睨む。何かを必死に守ろうとするかのような切実さで。まず向けられたことのない種類の視線に、ユーリは打ち身の痛みも忘れて佇んだ。
 あらゆるものと戦わなくては生きて来れなかったと、そんなユーリに反発する。だけどそれは攻撃的というよりも、疲れ果てた諦念が透けて見えて。その危うさが怖くて、ユーリは言い募らずにはいられなかった。
「覚えておいて。あんたが悪いんじゃない。混血だからだとかいうのも違うんだ。相手の利益に反するポジションにたまたまあんたが居たとか――そういうあんたの本質とは関係のないところの問題なんだ。誰もあんたの存在を否定できないんだよ。だからあんたも、自分を嫌わないで。大切にしてあげて。おれはあんたが大好きだよ。誰よりも何よりも大切だ」
 だからお願い。生きていて。
「――おまえは一体何なんだ」
 ユーリの必死な様子に毒気を抜かれたのか。コンラートは虚脱して、やはり納得いかないユーリの身元を詮索した。
「だから大賢者様」
「その大賢者様がここへ何をしに御なりなんだ」
「あんたを励ましに?」
 堂々巡りのやり取りにコンラートは苛立ちを露わにして怒鳴った。
「大体おまえは何がそんなに嬉しいんだっ」
 自分をすげなくあしらうコンラート。乱暴におまえ呼ばわり。どれもモノ珍しくって微笑ましいだけなのだが、コンラートにしたら糠に釘打つ気分でどんどん気力を削がれていくらしい。
「…可愛い…」
 声に出したつもりはなかったのに、口から零れてしまっていた。本心から不愉快そうに睨まれて。だが、そんな反応が酷く少年らしく感じて、ユーリはなんだかじんとした。
「お前、本当に失礼な奴だな――っ、デレデレするなっ」
 あぁ、本当にもう、なんて可愛い!
「よし! 今夜は呑もう! お兄さんと呑もう!」
 状況をまるで無視する提案にコンラートの眉間に兄弟そっくりの縦皺が寄る。 「は? 何言って…だいたいおまえ」
 お兄さんというよりおっさんだろう、の憎まれ口は、ユーリの顔をまじまじ見て声に出せなくなってしまった。
 うっすら首筋を赤くしているのを抜け目なく見てとってユーリはニンマリする。この外見は魔族にはかなり効果的だ。若かりしコンラッド、ちょろいな!
 ユーリは部屋の隅の飾り棚まで行くと、観音開きのガラス扉を開け放った。そこには飾るというよりももっと実用本位にぎっしりと酒瓶が納められていた。
「不良少年。身長が止まったって知らねーぞ」
 止まらなかったことは知っているけれど。よし、おれが減らしちゃる。
 今のコンラートの所蔵品とは微妙に違うラインナップが興味深い。
「ふーん、辛口嗜好なんだー…おっ」
 幻と言われている銘酒のラベルを見つけて奥の方から取り出した。
「昔にきて良かったー」
 単なる酒呑みと成り下がって頬擦りしていた瓶をコンラートに取り上げられる。
「こいつは駄目だ」
 それ以外なら共に酒盛りすることは了承したのか――コンラートもとりあえず悪意だけは感じない不審人物のペースにいつしか巻き込まれていた。 「えーなんでー」
「どこの誰とも知れないお前に呑ませるようなもんじゃない」
「だから大賢者様だろ。これ以上相応しい呑み手が居るか。献酒しろっ献酒!」

   ユーリは知っている。
   そのうち大きな戦争が始まる。コンラートは苛烈な戦場へ出て行く。
   大勢の敵を殺して、味方を失う。

「さぁ呑め!」
「俺の酒だ」
「ガキにこんないい酒もったいないんだよ」
 急速に年相応の威勢のよさを呈し始めたコンラートと、騒ぎながら杯を干していく。
 絶対自分に向けることのない邪険な扱いがユーリはやはり楽しくてしようがないし、コンラートも悪態をつきながら嫌っているわけでないことは端々から見てとれた。
「――なんなんだおまえはホントに! 刺客か酒をたかりに来たのかどっちだ!」
 もっともこれをじゃれ合いだと判断するのは、長年コンラートとその幼馴染のやりとりをそばで見ているせいだ。
「だから味方だと言ってるだろう。あんたを慰めに来てやったんだろ」
 酒肴代りの減らず口を続けていると、コンラートの目つきが少し変わった。
「慰めに、ね」
 真ん中に置かれた瓶を取り上げようと伸ばした手を、コンラートに掴まれる。ぶしつけに顔をのぞき込まれて。
「マセガキが」
 振り払ったけど、不覚にもドキドキした。襟足にかかるほどに伸ばした髪が柔らかく縁取る涼やかな容姿。少年特有の線の細さと相まって、危うげな艶を醸している。なんてったって、惚れ抜いている相手だ。
 取って食っちまうぞ――これは絶対口に出してしまわないよう重々肝に命じる。



「どうしました」
 真夜中に訪れたユーリを迎えたコンラートは、強いアルコールの臭いに眉をしかめた。
「随分と呑まれたん――大丈夫ですか」
 酔っているはずの顔色が真っ青で、悪酔いしたのかと慌てたが正気の声音でユーリが告げた。
「まだ子供みたいなあんたに会ったよ」
「え?」
「高校生みたいなの。わっかいの。もっと線が細くって。おれよかちっちゃくって。なのにいっちょまえにカッコいいでやんの。さすがあんただよなぁ」
 楽しそうに感想を並べる。依然蒼い顔のまま。
 そう言う限りは会ったのだろう、とコンラートは理解する。若く、様々なものとの折り合いをつけることにも不器用で、傷だらけになっていたあの頃の自分に。
 ただ。
「そうですか――申し訳ないながら俺にはあなたに会った覚えがないけれど」
「うん。しこたま呑ませて潰してきたから」
 そういうことなら心当たりが大量にある。
「若さに任せてだいぶ無茶な呑み方をしていましたからね――今は翌日が怖くて出来ないけれど」
 そう言うとユーリは小さく笑った。笑い声の余韻が耳に残る。
 表面を滑って行く遣り取り。楽しそうな調子とは別に、浴びるほど呑んでも酔えない、こんな時間に訪ねて来るほどの何かを抱えたユーリがいる。それをほろりと漏らした。
「なぁ、なんとか出来たんじゃないのかな。止められたんじゃないかな」
 囁くほどの音量で、視線を落としたまま続ける。
「おれがあの時代に行ったのは、何か出来ることがあったからじゃないのかな」
 言うほど容易いことではないはずだ。
 果たして歴史を変えることなど可能なのか。変えて――どのような結果が残るのか。
「あなたは二十七代の魔王なんですよ」
 あなたが果たすべき責任は今世にあると、そう言外に告げる。
「そうだな」
 ユーリは苦しそうに目を閉じた。
「…ごめん、やっぱ帰るわ」
 酔っ払いの滅裂さで来たばかりの部屋を後にしようとするのを制した。
「ごめん。あんたにそう言って欲しかったんだ。おれは。ここへ来てあんたにこんなこと言ったら免罪を与えられるって判ってて――」
 今は自分が何を言っても慰めにはならないと悟る。苦悶の末の自己嫌悪に掴まっているユーリの腕を取った。
「部屋までお送りします」
 そこから先はユーリ本人が折り合いをつけるしかないことだから。
 見守ること。祈ること。信じて待つこと。――大人がしてやれることなど、いつだってほのちょっとだと。
 暗い廊下を連れだって歩きながらコンラートはユーリと同じようなことを考えていた。


End


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