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脂に画き氷に鏤む

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 各領主を通じて国民の意思が反映されやすいようにしたのも、十貴族会議に力を持たせて魔王だけに権力が集まることのないようにしたのも他ならないユーリだ。
 国民の総意で国政が行われることこそ本来の姿だと信じてはいるけれど、だがこれこそ国にとって最善と考えいくら言葉を尽くしたに拘らず同意を得られないこともままあった。
 ユーリは机の上の否決された法改正案を先程から睨みつけていた。条案を記した書類の下には根拠をまとめた綴りが重なっている。このわずか一センチをまとめるのに途方もない労力と時間と議論が費やされていた。
 グウェンダルは時期尚早だと言った。先を急ぎ過ぎるユーリに皆の意識がついてきていないのだと。だからもっと段階を踏まえて確実にと。
 だがこれが最大の譲歩だった。これ以上だなんて、もう改正する意味すらなくなるじゃないか。
 是正を望む立場の人々は、こんなことで誤魔化されるのだと失望するだろう。却って高まった機運に水を差すようなことになるのではないか。
 突如ユーリは酷い無力感に襲われた。
 砂の山を登っているみたいだと感じた。
 みんなでもっと良い暮らしができたらいい。もっと笑顔で暮らせるようになったら。更に贅沢を言うならば、自国の民だけじゃなく世界中で、だ。そう願って、こんな職業についてしまった限りは精一杯まっとうしたいと頑張ったって。
 一足踏みしめるごとにさらさらと、足元は崩れて一向に前へは進めなくって。ただ自分はじたばたしているだけで。永久に頂きに辿りつくことなど不可能なのではないか。そんな遣り切れない徒労感に見舞われた。

 濃茶色の簡素な上着を羽織ってフードの付いたケープを手に取った。
 黒の衣服を身につけると勝手に気持ちは張り詰めた。だけど違う色を纏って今、妙に落ち着かない気分を覚える。
 考えることを止めて鏡から目を逸らした。
 待っていた衛兵にはついてくるなと言ったけれど、本当に一人になんてさせるわけがない。ただ目につかない程度の距離を持って、そっとしておいてくれるだけだ。
 それにしたって万が一のことがあれば彼らの首が…文字通り飛んでしまうんだろう。そんな我儘、日頃なら言う相手は一人のはずだった。
 生憎魔王の専属護衛は今日は午後から姿が見えない。会議と言ったか監査だったか――城内のどこかには居るのだが。
 連絡を受けたコンラートが追いかけてくるのを待たずに城門を潜った。
 第一、今は奴にこそ会いたくなかった。間違いなく自分は何の関わりもない彼にこの苛立ちをぶつけてしまうことだろう。
 もちろんコンラートは受け止めてくれるだろうが、そんな醜態を見せてしまうことこそが嫌だ。
 どんな感情ももう動かしたくはなかった。
 行く当てがあったわけでもない。ただ魔王の城を出たいと思っただけだ。
 目的が定まらぬままに王都の商業区域の中心で馬を預けて、通りを歩き回った。
 日差しは春めいてきたとは言ってもまだ風は冷たくて、目深にフードを被った姿も不自然でない。
 数メートルあとからついてくる警護を除けば、ユーリのことを気にする者など誰もいない自由さに、少し息が楽になった。
 色とりどりの帽子が飾られたウインドーを覗く。磨かれたガラスに映る通行人たちは忙しげに、もしくは連れあいと談笑しながらユーリの後ろを通り過ぎていくのだ。
 風景の一部になってユーリは暫く散策を続けた。
 広場に面したカフェは、雪の季節を終えて店の外にテーブルを出していた。
 端の席に座って熱いお茶を注文してから軽率だったかとも思ったが、だけど自分は魔王でなく一介の商人か下級貴族あたりだ。
 それでも念の為に最初は慎重に口をつけてみた。ただの火傷を警戒しているようにしかならなかったけれど。
 冷えた指先を暖めながらお茶を啜っていたら、他にいくらでも席があるというのに断りもせず隣に掛ける客が居た。
 ユーリが口を付けているものをちらりと一瞥する。
 何か混入されているとしたらそれは無差別テロの場合だと、構わずユーリは飲み干した。
「自分の立ち位置すらわからなくなるくらいに我武者羅にならないと成せないことというのは確かにありますけどね」
 そんなことを言う隣の男はきっと労わるような眼差しをしてるんだろうけれど、危惧していたような苛立ちはもう湧かなかった。
「数字を見ないとわからないですか? あなたが魔王についた百年あまりでこの国の人口が五%増えたこととか。全ての子供たちが無償で初等教育を受けられるようになって識字率は七割を越えているだとか。農作物の生産量だって飛躍的に増加したし、何と言ったって対外政策においては――」
 首を振ってコンラッドの言葉を遮った。
 目の前には賑やかな街の風景があった。
 空の荷馬車が目立つのは一日の商いを終えた郊外の農村からのだろう。声高に笑い合う人々が行き交い、家路を急ぐ人たちを詰めた乗合馬車がガラガラと音を響かせて行く。
 自分は何をそんなに焦っていたのかと不意に馬鹿馬鹿しくなった。
 自分は神でも何でもない。王が出来ることなんてほんのちょっとのアシストだけで。せいぜい民の暮らしの邪魔をしなければ御の字なのかもしれないと、自分のおこがましさに失笑が漏れた。
 すっかり冷たくなった空のカップを戻した。
 じたばたしに戻ろうか。
 自分が手助け出来ることなんて微々たるもんでも。
「帰る」
「帰るんですか」
 なのに後ろのコンラートは残念そうな口ぶりで繰り返した。
 このまま失踪でもして欲しかったのかと振り返ったら。伸びてきた手がユーリの右手を繋いだ。
「夕食は要らないって断ってきたんで、帰っても用意がないですよ」
 しれっとコンラートは言うが。
 今夜は晩餐会が予定されていたような気が、うっすらしたけれど忘れていることにした。
 ごめんなさい。明日から。明日から真面目に働きます。
「じゃあ…なんか喰って帰る?」
「前に仰ってた侍女が噂してた店っていうのは?」
 繋いだ手をひっぱり上げられて立ちあがる。
「あそこは予約がいっぱいなんだぞ」
「そんなこと」
「ズルは駄目だぞ」
 だけどフードの下が黒い以上、ズルをすることになるのは確定なのだけれど。
 取り敢えず二人して日暮れ近くになってにぎわい始めた飲食店が立ち並ぶ一角の方へと足を向けた。


End


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