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其ノ所有權ヲ侵サルヽコトナシ

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 コンラッドは魔王専属の護衛――その実態は限りなく侍従みたいでも――だけれども、救国の英雄なんて大看板しょっている男はどこでも引っ張りだこで、ちょくちょくその任を外れたりもする。
 彼の腕で守られ、慈しむ様な視線の中に居るのは、真綿でくるまれるように暖かで安らぐ。全幅の信頼を預ける安寧はただひたすらに心地よいのだけれど。
 その、なんだ、彼は任務上、ずっとおれに注意を払っているわけで…。
 バルコニーの欄干に肘を預けて、眼下で繰り広げられている剣戟を見守る。中学生くらいの子たちが3人順番に長剣を手にコンラッドに向かっていく。クラブ活動みたいな風景だけど、その実数十年のキャリアを持っている子たちの太刀筋は鋭い。小さい体ながらそれを補う機動力で攻撃を仕掛ける。コンラッドはそれに踏み込みが浅いだの、懐がガラ空きだの、アドバイスしながら軽くいなしていく。
 今日のお仕事は十貴族の子弟に稽古をつける、というものらしい。コンラッドは誰もが認める剣の腕で、第二王子なんて出生は指南役なんてのに勿体なすぎる肩書きな位だけれど、ちょっと前までこんなこと、あり得ない風景だったらしい。
 今でこそ魔王であるおれ自身がそうだから表だってそんなことはないけれど、魔族の中で人間に対する反感は相当なものだ。そんな中で半分は人間だっていうコンラッドは、この国に難民みたいに逃げてきた混血たちの旗印みたいになって、その風当たりの強さを一身に受けていたらしくって。
 こんな頼まれごとをする位に、彼が認められるようになったのは実は大層喜ばしいことらしい。
 もっとも本人は、ハブられていようがいまいがいっそ興味がないようで、それを指摘したら「それなりに認められるのは仕事がしやすくなるから嬉しいですよ」まったくドライな返事が返ってきた。「だけどこういう面倒事が舞い込むのは勘弁です」付け足したこれは心底嫌そうに。
 魔王陛下の覚えもめでたい側近と繋ぎを作っておくのも悪くはないと、そんな計算も見え隠れする剣術指南は気が進まないと言いながら、今はそんなことおくびにも出さずに颯爽とした教官ぶりだ。
「ユーリ、そのだらしのない顔を何とかしろっ」
 険のある声で注意されて、慌てて手をやった頬はじんわりと熱い。横に並んで稽古を見物していたヴォルフラムが、眉の間にしわを寄せて据えた眼でこちらを見ていた。デジャヴを感じて、時々彼の長兄がする表情だと思い至った。時と場合を弁えろ、と注意される時のそれだ。
「元からこんな顔だ。悪かったな」
 悪態を付くのは照れ隠し以外何物でもない。自分がずいぶん呆けた顔をしていた自覚は…あるから。
 肩で息する少年三人に対してコンラッドは涼やかで、鋭い指導の声にさえも耳の奥が痺れる。剣をあやつる姿はいっそ優美。これで身を立ててきたその意味するところは差し置いて、溜息が零れる。いや、むしろそんな文字通り命をかけたところで作り上げられた物だからこそ、こんなにも美しいのか。
 自分を見つめる時はひたすら柔らかで甘いそれとは違う、厳しく乾いた横顔があまりに端正で。その、日頃見ることのない横顔、は貴重なのだ。
 俺の方を見ていない今だって。あのかっこいい男はおれの物なんだって思って…――更にだらしなくなりそうなのを頬の内側を噛んで堪えた。
 代わりにに護衛に付いてくれているヴォルフにしたら、やってられるか、な気分なのだろうけれど、任務に忠実な彼は黙って同行してくれている。
 ひょっとしてこのあたりは当の次兄よりずっと大人なのかもしれない。何しろ彼はおれの『婚約者』だ。それが目の前で自分の兄をぽ〜っとした眼で追いかけていて、面白いはずがない。そんなことをはじめ、何時の間にやら公然の秘密となったおれとコンラッドの仲やなんかに黙って目をつぶって、こうやってじゃれ合いみたいに膝で蹴るくらいで済ませてくれてるんだから。
 そんなことを考えながら、今は自分を見ていない護衛の姿を堪能していたら。一番年長の少年が気合いとともに振り下ろした長剣が冗談みたいにすっぽ抜けて。
 ボールは身体を張って取りに行くけど、折れたバットは逃げる、が基本だ。観客席に飛び込んでくるファールボールよろしく軌道を目で追って、…いや、だからボールじゃないから取りに行かないんだって。狙ったみたいにまっすぐこっちへ飛んでくるのを見極めて避ける。
 微妙に読み切れず、ガキャンと欄干にぶつかってイレギュラーバウンドしたのが更におれ目掛けて飛んでくるなんて計算外で。いや、逃げるけどっ。
 ただ、こちらでおれは単なる野球小僧じゃなくて国の重要人物。職務に忠実な護衛が自らを盾にして守るとか、本気でアリなわけだ。飛び退るより先に、おれの上に身を投げ出すようにしてしてきたヴォルフの勢いのままに後ろに倒れ込んだ。
 さっきまでおれが立っていたあたりを掠めて、石造りの床にぶつかった長剣がガランガランと転がって行く。
 強張った顔で顔を見合せて、危機一髪をほうと息を吐いて確かめて。したたか打ちつけた尻の痛みに顔を顰めた。
「すまない、大丈夫か」
 乱暴な庇い方だったと引っ張り起して貰って。いえ、そんな身体を張ってもらって文句なんて言えませんって。
「うわっ、おまえ大丈夫かっ?!」
 びっくりしたのはヴォルフの上着の背がすうっと裂けていたからだ。
「あ?」
 本人は判ってないみたいで――本当に上着一枚が切れていただけなのを確かめて…指が震えた。まさに紙一重。今更ながらに恐怖が沸き起こる。
「服が、切れてる…切れてんぞっ――あ、いや服だけだけど…気を確かに持てよ、ヴォルフっ」
「おまえが落ちつけ」
 当の本人は妙に冷静で、階下を顎でしゃくった。
「このまま放っておくな。奴ら大逆罪になるぞ」
 あ…ああ。そうだな。事故だって言ってもおれに刃物向けちゃさすがに不味いんだろう。
 下を覗き込むと、滅多に見ないくらい怖い顔をしたコンラッドと顔色を失くした少年達が身じろぎもせずこちらを見上げていた。
「あぁ、大丈夫だから。今の、なかったことで」
 手を振ってみせると、コンラッドはふうっと息をついて表情を緩めたけれど、三人組は相変わらず凍りついたままで。剣をすっ飛ばした少年に至ってはガタガタ震えているのが見てとれた。やっぱりそういう物騒なハナシになるんだな。
 だけど裂けたヴォルフの背中を見ると、足が震える。
「こんなことでいちいちびびるな。へなちょこが」
 はい…刃傷沙汰にヨワいへなちょこです。



「俺のせいであなたが余計な反感を買ってしまう。年若いあなたが俺に誑し込まれているんだとか――そんな下世話な陰口をさせる隙を与えているのは、事実ですから」
 おれの頬を、傷だらけだけど形の綺麗な指で繰り返しなぞりながら、コンラッドはいっそ静かな口調だ。
「そんなの、言いたい奴に言わせとけばいい。そういうのは例えおれとあんたがこうじゃなくったって、なんかイチャモン付けて言ってくんだから――魔王は世襲制じゃないだろ。おれが誰と恋愛しようがおれの勝手じゃないのか」
 レンアイ、なんて甘ったるい言葉も口にできるのは、まさにその甘ったるい行為の最中だから。
「ええ、まぁ、それはそうですけど」
 そう言いつつコンラッドの顔は感情を窺わせない静かなままだ。こういう場面では実は表情豊かな男にしてはあまりないことで、訳もわからず胸がざわめく。うっすら汗を滲ませる肌に手をやってその熱を確かめるけど、もどかしい違和感は去らない。
「ですが、あなたが王位についている間は、魔王妃の実家はそれなりの影響力を持つでしょうし」
 おれの結婚が全く政治と無関係ではいられないのだと、優しい口づけで伝えてくる。
「もっと頼りになる辺りを味方につけておくことも大事なんじゃないかと思うんですよ」
 何の後ろ盾を持たない俺よりも。言外に告げられた言葉に感じたのは憤りより哀しみだ。
「あんた、ひょっとしておれがヴォルフと結婚したらいいとか思ってる?」
 声が震えるのを堪えて、溜息に乗せて出したら。
「あいつはいい男ですよ」
 相変わらず柔らかな口調でそう返すから。
「知ってるよ。そんなこと」
 だけどあんたがいいんだからしょうがないじゃないか――これはもう、口になんて出したくなかった。コンラッドは馬鹿野郎だ。

「俺は陛下の為にならない」
 掠める吐息に混じって零れたそんな言葉。
「陛下って言うな――」 
 切なく追い上げられる中ではそれだけ返すが精いっぱいで。
 いいよ、為にならなくったって…いっそ役立たずでいいよ…あんた一人くらいおれが抱え込んでやる…とか。英雄なんて言われている男を腕の中に抱いて、夢うつつを漂うからこその埒もないことを考えた。

 目が覚めたら、護衛の姿は無くなっていた。

 置いて行かれたような強迫観念じみた感情の高まりを呼吸3つで抑えたのは、昨夜の交わりが妙に予感的だったから。
 高ぶりを抑えるように無意識に持っていった指を噛みながら、馬鹿だ馬鹿だと心の中で繰り返した。
 そしてこんな馬鹿な仕打ちを受けるのは残念ながら初めでもない自分は、すっかり打たれ強くなってしまったのか。はたまたふてぶてしくなったのか。
 もう選ばせてやるなんて、そんな余裕もないんだよ。
 いつぞやは彼に選択を委ねた左の手を、白くなるまで握りしめて。
  コンラッドはおれの物だ 。自分のものは、自分で取り返す。

 失踪するってもコンラッドは、行先は部下に言い置いて行ったらしい。
 迎えに来て欲しいだけなんじゃないかと弟は穿った意見を吐いたが、まぁ、それはそれで可愛いと思ってしまうあたり、自分も大概毒されている。
 その潜伏先は娼館だなんていう高校生的に刺激が強すぎる商業施設で、そこで彼がいったい何をしているのかなんていうことを考え始めると、目眩まで襲ってくるのだけれど。
「おい、ユーリ、お前は本当にあいつでいいのか?」
 なんて真顔で聞かれるとちょっと怯む。でも。おれじゃなくっちゃコンラッドはこんなにも甘えられないんだろうな――。
 彼しか要らない、そんな風に思う隅っこで感じている自負。
 それを頼りにコンラッドを迎えに行く。

 初めて足を踏み入れた娼館は、まだ昼前という時間もあってか、開店前の飲食店みたいにテーブルの上に椅子がひっくり返されていて、人気もなく静まり返っていた。日本のフーゾクとかのそんな即物的なギトギトした感じはなくって、昼日中のせいもあるんだろうけれど、小奇麗な酒場みたいな感じだ。――もっとも、どっちにしてもまったく健全な野球小僧には縁のない世界だったわけだけど。
 扉につけられた鈴が揺れるのに、はあい、と若い女の声がして、コトコト奥で物音がする。
 水仕事でもしていたのか濡れた手を拭き拭き出てきたのは、焦げ茶色の髪を婀娜っぽくまとめたお姉さん。化粧っ気がないながら料理人にしては過剰に過ぎる風情。支度前ならばこんな感じなのかもしれないと、服の襟元ギリギリで見え隠れする赤い痣に気がついて、ぼんやり思った。
 お姉さんはおれの後ろにつく軍装のヴォルフをちらりと見遣った。おれは出掛けにひっ被せられたフード付きの長いコートのせいで、一発で身元がばれてしまう禁色は隠されている。
 それでも上級士官を従えている様子から訳ありだと察したらしい。勝気そうな大きな瞳が緊張したように眇められる。
「ウェラー卿に火急の用なんだ。会わせてもらいたい」
 緊張に擦れ気味の声はだけど、上擦らなかっただけマシだ。
「あら、こんな処までお仕事が追っかけて来るなんて大変ねぇ」
 揶揄を含んだ声音で、呼んでくるから待てと。
「取り込み中でなければこちらから伺う」
 まさかここまで来て逃げるとは思わないけれど、それでも。
 取り込み中ってなんだよ――内心そんな風に突っ込みながら、声はどこまでも固くなる。
「いいえ、それは大丈夫よ。ちょうど何か食べさせようとしていたところですから――二階の三番目の部屋よ」
 薄紅色に彩られた指先で、奥の階段を示しながらの言葉に、血の気が引く。
 この人がコンラッドの相手をしているんだと、胃の腑が熱くなって。身の周りの世話を任されている馴れた台詞に胸が妬けつく。もう冷静な顔を作っている自信なんて無くって、わき目もふらずにそちらへ向かう。
 腹に溜まった熱は階段を昇ってドアを数える間に再び頭に流れ込んで――乱れた気持ちに押されてドアを開け放った。
 爛れた姿が目に飛び込んでくることも覚悟したわけだけど、そこには視界を遮るように衝立が配されていた。蔦を彫り込んだオーク材の衝立に引っ掛けられた、見覚えのある上着。奥歯がキリっと鳴る。
 甘ったるい女物の香水の匂いと、すえた酒の匂い。
 づかづか足を踏み入れた先に、長椅子に寝そべる彼の姿があって。
 服こそ着ていたけれど、シャツの前は開いたままで、こんな明るい日の下でありえない怠惰な様子で。視界の端に入った寝台のシーツの乱れや、気だるげに身を起こす強烈に色めいた風情が、ぞろりと身体の奥を刺激して、だけどそれは艶めかしい感覚よりも純粋な怒りに変換される。
 とろっと酔いに潤んだ目が驚いたように見開かれて、擦れた声で「ユーリ…」と、呆然と呟くコンラッドの、襟首を両手でひっ掴んで起こした。
 こんなところで何やってんだ、とか、今更びびって逃げてんじゃないとか、あんたはおれを嘗めてんのかとか――言いたいことは胸の中、零れそうに渦巻いていたけれど、高ぶった感情に息が詰まって言葉が出ない。ドクドクと血の流れる音がこめかみに響く。体温がぶわっと上がって、シャツを掴んだ指が細かく震える。
 こくりと息を呑んだコンラッドの口唇が、何事か紡ぐように開きかけ、躊躇うように噤み――やがて決したように薄く開いたのに、ぶつけるようにして塞いだ。
 さっきの女の人の首筋に残っていた、まだ赤い鬱血。あんなの付けてくれるのはおれだけにじゃなかったのかと、我ながらうんざりするくらいの独占欲で口唇を擦り合わせた。
 酔っ払いの抵抗は、シャツの襟をぎゅうぎゅう絞めあげることで封じ込める。コンラッドはおれの身体を引きはがすように肩やら頭やらを掻いたけれど、アルコールに浸された指先はそれほど力が入らないのか、いまひとつ本気で抗いきれないのか。いつの間にやらずれたフードの下の髪に指を絡めて口づけに応えていたんだから、それが彼の本心だと都合よく解釈することにした。
 癇癪を起こしていることを自覚しながら、コンラッドの口を犯した。そうやって更に高ぶったんだか、ちょっとは散ったんだかわからない感情のままに吐き捨てた言葉は吃驚するくらい俺様で。
「あんたはおれのもんだ、覚えとけっ」
 ――いいんだ。おれは魔王様なんだから。コンラッドだって毒気を抜かれたみたいな顔でこっちを見上げていたし。
 目で念を押したら呑まれたみたいにこくんと頷いたのを確かめて。
 昇り切っていた血がある程度下がってきたところで、いつの間にか増えていたギャラリーに気付く。
 凶悪なくらい不機嫌な様子でそっぽを向いているヴォルフラムと、美人な顔にはっきり呆れを見せているさっきのお姉さん。
「ウェラー卿みたいな破格の上客は、怒鳴り込んでくる恋人も破格ね――」
 彼女の視線に頭に手をやって、すっかりフードが脱げてしまっていることを知った。 まぁ…もういいよ。
「そんなわけでお姉さん、おれのコンラッドがずいぶん世話になったみたいだけど、もう連れて帰るから。お代は血盟城のシブヤユーリ宛てに請求書まわしといて」
 多分に嫉妬や八つ当たりを含んだ台詞を、お姉さんは玄人が持つ余裕の笑みでかわしてくれた。

  □  □  □

「ねぇ、お姉さん転職しない? 血盟城の侍女にさ」
 昼下がりの柔らかな光が入る窓辺に寄せた椅子で黒髪の少年が娼婦を口説く。
「はぁ? 私が?」
 やすりで爪の形を整えながら適当に流していた女は面食らった声を上げる。
「ん。だって相談事があるたんびに、ここまで来るのも大変だしさぁ」
 少年――この国の王の恋愛相談にのって半年あまり。確かにその度に娼館に出入りするのも如何なものかとは思うけれども。
 だからと言って…。
「娼婦が侍女になんかなれるわけないでしょう」
「んー。それはなんとかなるんじゃない? おれ、魔王様だから――慣れるまでお姉さんは苦労するかもしれないけど」
 自分は向上心は人並み以上だと自覚している。それと、いつまでもこの仕事で稼いでいけるものでもないことも。
「ふーん。まぁ魔王陛下直々のスカウトだったらねー」
「あ、コンラッド付きには出来ないけど」
 恋人への素直な執着を見せる少年は慌てて付け足す。
「はいはい。あんな痴話喧嘩に巻き込まれるのはこっちだって願い下げよ」
 良い男だけど、何かと面倒くさいというのは経験済みだ。むしろこの二人のすったもんだを見ている方がいっそ楽しい。
 ――王宮勤めなんて笑えない冗談みたいだけど、世の中、そんなこともあるのかもしれない。
 削った爪の先をふっと吹いて、女は次の雇い主にお茶を入れるべく立ち上がった。


End


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