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あなたと葡萄を

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 陽光を透かして、ステンドグラスのような赤が視界を埋め尽くす。目を凝らせば濃い薄い、オレンジがかったものから黒っぽいものまで、ひとつひとつ色調の違う子供の手のような小さな葉が無数に重なり合っているのだけれど。おびただしい様々な赤が集まって、圧倒的な色彩で飛び込んでくる。
 それは興奮を呼び覚ますよりも、どこか切ない気持ちにさせる。逆光で見上げる赤い赤い葉。こんなに美しいのに、やがてすべて散り落ちていくものだからかもしれない。今も、あるかないかの風にはらはらと葉を落とす。
 内の一枚が肌蹴た胸に落ちたらしい。僅かなこそばゆさを覚える。いつまでも眺めていたい一面の赤から、仰け反らせていた身体を起して、目前のコンラートに視線を戻す。
 はらりと落ちた葉を彼が摘みあげる。
「白い肌に映えて…綺麗だったのに」
 くるりくるりと指先で弄んで。ユーリの髪に挿す。百歳を超えた野郎にそんなことをして楽しいのかと密かに思うが、多分コンラートも少し浮かれているのだ。
「黒だったらもっとよく映るでしょうね」
 身をやつして旅の道中、髪も目も高貴な色を染め変えられている。言葉のわりには熱っぽくユーリの姿を眺めて。引き寄せて、溜息を零す唇に口づける。
 きつくなった角度に喘いだ声は、塞がれた口の中でくぐもって。コンラートの首に回した腕に力が籠る。
 真っ赤に色づいた紅葉の下で、向かい合うコンラートの上に座した形で睦み合う。街道を少し外れた森の中。時折、鳥の声と葉擦れの音。身体に直接響く互いの呼吸。
「そろそろ…――戻らないと…必死になっ…て…探してる彼ら…に悪いし…」
「判ってらっしゃる…なら…最初からしなければいい、の…に」
「あんた…だって、本気で…逃げた…じゃないか」
「あなた、について…行くのが俺の…仕事で、すから」
 姿を隠して付き従ってきている警護の兵を撒いて。
「だっ…て――紅葉がきれいで…」
 コンラートの体から引きはがした震える指を宙に向ける。降ってくる赤い葉がその先を掠めて落ちる。
 腰を強く抱かれ、寄せられる。そのまま後ろに倒されて。かさかさと耳元で、乾いた葉のすれる音。
 また、視界いっぱいに胸が痛くなるような赤が広がる。目を瞑っても、瞼の裏側まで。真っ赤に染まる。

 物憂い吐息をついて身を起こす。激情が去ってしまえば、深まった秋の空気に肌はすぐに冷え始める。
 甲斐甲斐しく後始末をしてくれる肩越し、乱れた髪を掻き上げしなに木立の向こうに目を向ける。髪に絡んでついてきた葉がぱらぱら零れる。木々に紛れるように立ちすくむ男が一人。
「あれ? お伴の人じゃないよ」
 コンラートにだけ届く声で告げると、ですね、と当然のように返ってきた。
「訓練された軍人ではないようなので――近くの村人が茸でも採りに来たんだろうと思っていたんですが」
 だが農夫の身なりでもない。手入れの行き届いた髪に服装。癖の強い赤銅色の短髪に日に焼けた肌。彫りの深い顔立ちは整っていて、コンラートよりも幾分年若い感じの美丈夫だ。背は高く、肩幅は広く。二百歳近くになってもしなやかな体躯は変わらないこの武人より、よほど頑健に見える。けど。
「…危険がなさそうだからってほっとくのかあんたは」
「無視以外にあの状況でどうしろと?」
 確かにどうしようもない。
「…いつから居たんだろー」
 だがさすがに少々気になる。幾ら何でも始めっからということはないだろう。それなら自分も気が付くし、恋人はそこまで悪趣味ではない。
「そんな前からじゃないですよ」
 悪趣味ではない…と思いたい。
 コンラートは背をむけたままで知らんぷりを続けるつもりらしい。だけど恋人の肩越し、自分は距離があるといえども、ばっちり目が合ってしまって。――とりあえず笑っとけ。
 恐怖に背筋が凍るとか、魂を食われる気がするとか、身内に大評判の笑顔を浮かべると。男は顔色のわかりにくい肌をどす黒く変色させて、慌てて身を翻すとけつつまろびつ森の中に逃げて行った。
 おや、動物的な反応。と呑気な魔王様の感想。生命の危機を感じた時に一目散に逃げられるタイプと、蛇に睨まれた蛙のごとくに凍りついてしまうタイプがあるが、彼は前者だったようだ。
 その場に凍りついてしまわれると、この場合気まずさが長引くだけなのでおかげで助かったのだが――結果論だ。
 さて。と身支度を終えて立ち上がる。色づいた梢の下から出ると、秋晴れの高い空が覗く。
 以前から気になっていた直轄領の視察を終え、そのまま足を伸ばしてヴォルテール領に潜り込んだのは、近くだったことと、ちょうどこの地方で祭りの真っ最中だったから。
 件の土地は土が豊かでないせいもあってか、労のわりに実りが少ない。税収が上がらない以前にそこで生きる困難を思えば、何か出来ることはないかと気にはなっていた。
 そして実際目にして思ったのは、開墾なり水利工事なり、何らかの支援が必要だということ。もしくはもっと専門的な農業指導かもしれない。実際任されて直接統治している貴族は真面目で仕事熱心なことには文句ないのだが、いまいち専門性に欠ける。
 誰か見繕って人材送った方がいいかな〜と漠然と考え。帰城したら選出するよう指示を出そうと心に書きとめて。さて、ここからは休暇だと勝手に線を引く。
 お忍びで視察をして、ついでに祭り見物。それが公務なのかプライベートなのか、そんな区別はきっと本人にしかついていない。傍から見たら全部プライベートだと、今は領主の職務をこなしている宰相あたりが言いそうだ。
 身も心も軽くなったせいかこの蒼い空のせいか、気持ちは澄んで浮き立つ。
 出発を察した二頭の馬が、もうよろしいんで?とでもいうように軽く嘶いた。



 かろうじてガラスだが、いびつで武骨。日頃使っている優美な脚付のグラスとは似ても似つかぬそれを満たした新酒は、陽の下で明るい紅色を呈している。
 もっともこの人が興味あるのはその中身で、グラスの質など気にもしていない。
 宝玉みたいな色をワクワク見つめている。
「ぶどうジュースってわけじゃないんだよな」
 早速香りを嗅いでの言葉に、ずっと昔、この人がこの新酒を果汁と間違えたことを思い出した。
 本人はすっかりそんなこと、忘れているらしく、今年獲れたばかりの葡萄で作られたワインに夢中だ。
「あぁ、やっぱりフレッシュな匂いがする。花とか果物みたい」
 ひと口含んで。凛々しくも優美な眉がわずかだが顰められる。
「どうです。今年の出来栄えは」
 コンラートが問うのに、まわりに遠慮してそれ以上表情は変わらないが。
 何しろこれはこの収穫祭に合わせて飲めるように作られた早飲みの新酒なのだ。本来のワインとはまた違う。
「んー…――若いな…新酒だからそりゃそうか…」
 声に張りが無くなっている。
「ヴォルテールのワインじゃないみたいだよ」
 確認するようにまた一口含んで。やっぱ軽いー。こちらに聞こえる程度の小声でそう零す。
 秋晴れの高い空の下、巨大なテーブルをしつらえて。この年取れた作物で作られた料理が数々並び、新酒が開けられる。村人全員で食卓を囲み祝う、ヴォルテール地方の収穫祭の風景だ。
 たまたまこの時期に兄の領地へ立ち寄ったウェラー卿も特別にその席に着かせてもらっている。国の英雄が宴に混じるとのことで彼の素性を聞かされた村の有力者達は相当の緊張を強いられていたが、従者の正体に気がつかなかったのは幸いかもしれない。
 その従者は干したあんずを齧ってはグラスを口に運んで。あるじを放ってひとりで瓶を半分ほども空けて御満悦である。
「来年からはグウェンに送ってこさせよう」
「文句を言いながら気に入ってるんじゃないですか」
 そのまま放っておけばすべて干されてしまうと、ユーリの前の瓶を取り上げて手酌で自分の杯を満たす。果実の香りが鼻をくすぐる。昔、この香りでユーリが果汁と間違えて飲んでしまったのだ。当時は成長を阻害するものとしてアルコールを遠ざけていたので、この時初めて、彼の酔った姿を目にしたのだった。
 ほのかに上気する頬とか、潤む瞳だとか。決して弱いわけではないのだが、飲めば情事の最中のような色を醸し出してしまうことが判明して。それでいて無自覚なものだから。徐々に嗜むようになってから暫くは、何かと苦労した。
 今は――素面であっても醸しっぱなしだが。呆れるくらい器用にご自分でコントロールできるらしいので、何の心配もない。ありがたいことだ。なのにそんな昔を懐かしんでしまうのは…――物哀しくなる季節のせいだと首を振る。
「何考えてる?」
 すっかり相手の心内を読むに長けたユーリが覗き込んでくる。
「いいえ…あなたのことを、ですよ」
「ふーん」
 胡散臭そうに頷いて。更に追及の手が伸びてくるところを、ガラスが割れる音が中断した。
 割れたワインボトルと、その中身と、立ちすくむ美丈夫。彫りの深い男らしい顔を呆然とさせて、まっすぐこちらを見ている。
「あ、あの人」
 ユーリが呟く。お知り合いですか?と振り返ると。
「さっき覗いてた人」

 通りかかっただけであんなところを見せられてむしろ被害者と思われる『覗き』の男は、奇しくもここの荘園領主の息子だという。
 支配者側が労いの為に祭りの場に姿を現すことはあるだろうが、彼の場合はそれとも違うらしい。周囲から遠慮も気遣いも介在しない口調でワインを一本駄目にしたことを責められ、客人の美貌の連れに見惚れていたことをからかわれている。
 男、イェリネック卿オリビエはそれを軽くいなしながら、コンラートの隣の席を空けさせて着いた。
 大層気まずいウェラー卿とその従者。
「先ほどはお見苦しいところを大変失礼をいたしました」
 他に言いようがない。
「いえ、こちらこそとんだ無粋をいたしまして」
 オリビエの口調に厭味はない。但し視線はチラチラとウェラー卿の従者に流れがち。
「あのあたりには晩生の山葡萄が自生してましてね――祭りの日にあのような所で何をと思われたでしょう。その山葡萄の木を探していたのです。そのまま食すには実が小さいのですが、畑の葡萄の継木に――」
 と、日に焼けた頬を更に赤くしてオリビエは捲くし立て、だがすぐに我に返って照れ笑いを浮かべた。元が男らしい整った顔立ちなだけに、その表情に騒ぐ御婦人方は多いはずだ。
「失礼、こういった話になると止まらなくなるのですよ」
 コンラートの杯に手近なワインを注ぐ。
「いえ、そんなことは。熱心でいらっしゃるのですね」
「ええ、作物は手を掛ければ掛けるだけ答えてくれますからね。お連れの方もどうぞ、自慢のワインです」
 不必要なまでに熱っぽい目で勧める。
 悪い人物ではないようだが、のぼせ上がっている。あの状況でどうやったら恋に落ちるのかそこのところは不明だが。ただ、この従者にひっかけられる不幸な人物の登場には既に慣れっこだ。
「お気づかいは嬉しいのですが、この者はあまり酒に強くないのでご勘弁を」
 それでも軽く邪魔したくなるのももう習い性。
 背中でチッと舌打ちするのを聞く。もちろんユーリの抗議はこの男と近づきになれなかったことではなく、その手の中のワインだ。



 其の夜の滞在先はヴォルテール城。主催でも主賓でもない夜会でのんびり飲み食いしてみたい、とのユーリの希望と警備のしやすさで一致した結果だ。地元貴族たちの一年の労を労う趣旨の夜会がヴォルテール領主の名の元に催され、ユーリはコンラートの従者として潜入中。
 もっとも上級者の中には魔王陛下のご尊顔を存じ上げる者も居るため、上座から遠く離れた広間の隅で小さくなっている。それでも時折気づいてしまう目敏い者もいるようだが、そこはそれ。知らぬふりを決め込むのが上流階級の作法だ。
 そしてその魔王様は、今、自分の行く末を左右する大変な場に居合わせている。
 昼間、村祭りの昼食会の場で気さくに話しかけもてなしてくれた荘園領主の跡取り息子が、もとより男前な顔を意を決したようにさらに引き締め、昼間の簡素な装いとは違う上質な夜会服に身を包み――結婚の申し込みに現れたのだ。
 但しその台詞は父親に対する『お嬢さんを下さい』ではなく。
「この者をご下賜いただけませんか」
 と、ユーリを従えるコンラートに。
 正しいのかもしれないが、それはユーリが本当にコンラートの従者であり、魔王陛下でなかった場合に限る。
 もちろんその場は凍り付く。唖然。呆然。いや、無理ですから。まいったなー。どうしよっかー。…微妙な目配せを送り合う二人をどう思ったのか、いや、もしかしたら目にも入っていないかもしれない。
 一介の地方貴族がウェラー卿にお気に入りを譲れと言っているのだ。恋情に煽られて冷静を失ってでもなければ、言えることではない。――その認識は更に間違っているのだけれど。
 たとえ賜るのが死だとしても――言わずに居られないのですと…訴えかける様は美男子であるだけに無残だ。
 おい、断ってくれ。と、従者が主人を目で脅してると。
「これはイェリネック卿、弟が貴殿に何か?」
 威厳に満ちた低い声がして、はっと振り返ればこの城の主人、ヴォルテール領主が立っていた。今夜の主催者だが、もっと広間の上の方で上級貴族相手に接待しているはずで、こんな末席にまで来るのは珍しい。もっともここに居た弟に用があってのことかもしれず…。
 案の定、なら弟を少しよろしいか、とどうやっても断らせない迫力で問うてくるので、一世一代の命をも賭けた嘆願の真っ最中にもかかわらずオリビエは名残り惜しげにその場を後にする。
 その背中を見送って、国で一番おっかないと噂のヴォルテール領主兼眞魔国宰相は不機嫌そうに眉をしかめた。
「イェリネック卿は優秀な男なのだから、いらんちょっかいはかけてくれるな」
 今までのやり取りを見ていたくせに、実は自らのあるじに注意する。
「おれのせいじゃない」
「ずいぶん村人からは慕われているみたいだったけど?」
 ユーリの抗議にはコンラートも無視だ。
「今日はあの荘園の新酒を飲んだだろう?」
 問いに問いで返してグウェンダルは給仕を呼びつけた。今年の新酒を持ってくるように伝えて。
「あの土地はもともと痩せていて大した作物も作れずにいたのだが。あの男がだ。地にあった品種を見つけ出し、肥を研究し、今では領内有数の産地にしてしまった」
 そして届けられたグラスを弟とその従者に無言のまま手渡した。
「今年は雨が多くてどこも葡萄の出来が悪かったのだ」
 勧められるままに口にして主従は顔を見合わせる。
「昼間飲んだのと全然違う…軽いのは一緒だけど、あっちはもっと華やかだったぞ?」
 主人を差し置いてそう感想を述べるユーリに領主は頷いた。
「それがあの男の仕事だ」
 なるほど確かに優秀な人材だ。
「自分の荘園内だけでなく、もっと広い範囲であの手腕を揮ってもらいたいのだが、頑固な男でな。自分が歩いて回れる広さでないと面倒見切れないというのだ」
 兄の物憂げな様子にコンラートはだけど、と続ける。
「昼間見た感じじゃ、人を纏めるのも指示するのも上手いようだったけど」
「だから事ある毎に口説いてはいるのだがな。本当に頑固で――」
「グウェンに頑固って言われてるー」
 ぼそっと呟いて、それも聞き流されて兄弟二人の会話が続いているのを見てとると、ユーリはそうっとその場を離れる。目指すは己の身を望んでくれた男の元。

 こっそり抜け出した魔王陛下を追いかけて兄弟が辿りついた時には、告白も佳境にさしかかっていた。
 テラスの隅で佇むウェラー卿の美貌の従者と、足もとに跪き、その手を押し戴くイェリネック卿オリビエ。
「私はウェラー卿に情けを懸けて頂いている身ですから」
「ですが閣下は魔王陛下の…と噂ではありませんか あなたもそのような微妙な立場より――このような田舎の未だ家督も継がぬ若輩ですが、私ならあなただけを大切にいたしましょう」
「では私の畑も大切にしてくださいますか?」
「はいっ、一生をかけて」
 と勢い込んで誓って。ところで畑って? この場にふさわしくなさそうな言葉が混じっていた気がする――身を滅ぼしてもいいとまで思いつめた一目ぼれの相手に受け入れられて、天にも昇る心地だが、何かがすこうし引っかかる。
 ユーリが満足げに笑う。オリビエの目にはにっこりと。それ以外の目にはニヤリと。
「おい、小僧っ!」
 優秀な人材の流出に領主が慌てる。もう随分御無沙汰だった小僧呼ばわりだ。
「イェリネック卿オリビエ。直轄領ゲルリッツの農業指導の任を貴殿に命ずる――あぁ、でもあんたも自分ちの仕事もあるだろうし、専任じゃなくていいから。アドバイザーみたいな感じでさ。ほら、ゲルリッツってこっから近いし?」
 未だ跪いたままのオリビエに合わせて、恐れ多くも魔王陛下も腰を落とす。
「あんたが一から十まで全部自分が見ないと気が済まない現場主義ってのは聞いてるけど、ね。その気持ちもわかんなくないけど。とりあえずやってみたらウマい方法もあるかもよ? それを一緒に考えていこうよ」
 よく事情が飲み込めていないオリビエ。捲くし立てるユーリをぼんやり見つめていたが、両手をとって、だから、末永くよろしくね?と見つめられると脳は思考を放棄して取り敢えず頷いてしまう。
 ウェラー卿は新たな魔王陛下のしもべを痛ましげに見遣って溜息。
「あ、それと、あんたんちのワイン、美味しいからこれから送ってきてよ。早飲みの軽いやつ。意外にあれって、癖になるかもー。そうそう、通常の醸造方法で作ったのも飲んでみたいんだけど――」


End


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