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時を駆ける獅子

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 定例の城内警備の打ち合わせを済ませて、コンラートは回廊をあるじの部屋に向かっていた。朝からの謁見を終えてユーリは着替えに戻っているはずだ。
 中庭から吹き込む風はからりとして心地よい。ひと月前ならば、この時間の太陽は息苦しいほどの烈しさで地表を焼いていたのだが。今は空気も清く澄んでいる。水色の高い空。
 昼から……時間が取れれば、ユーリを外に連れ出してあげるのもいいかもしれない。魔王に立って一年以上が過ぎても、彼には青空の下で笑っているのが似合う。――もっとも、この世界にいらしていても、大抵が旅の空の下、なのだが。
 愛しい人の笑顔を思い描きながら、寄木細工が美しい奥宮への渡り廊下に進む。

 真っ直ぐ続く廊下。段差などないところだ。滑ったわけでもない。なのに急に、踏み外したような足元を救われる感覚に襲われた。
 ジーンと耳鳴りがして吐き気が込み上げる。床が回転する――いや、回っているのは自分か……ふらふらと、それでも倒れて頭を打ったりしないようにしゃがみこんだ。
 目を閉じて回る周囲に身をまかせ――じきに、来た時と同じように、唐突に眩暈は治まった。
 深呼吸してゆっくり頭を上げる。不快感は既にない。
 ゆっくり立ち上がって、今度は腹立たしさに眉根を寄せる。健康管理にも体力にも多少なりとも自信が有る分、唐突に眩暈などに襲われたのが不本意だった。
 だが、ため息ひとつで押しやって、再び歩を続ける。
 大切なあるじのおわす、血盟城の最奥まではもう少し。

 角を曲がって、応接室のひとつまで来たときだった。前方の扉が開いて中から人が出てきた。
 相手に目礼しようとして思わず息をのむ。目が合った相手も凍りつく。
「フォンヴォルテール卿……?」
 無意識につぶやいた名は震えていた。
 何故なら目の前の人物は、もう何年も前に他界しているはずだからだ。
 黒に近い灰色の髪。息子にもしっかり受け継がれている眉間の皺。周りを畏怖させずにはおけない厳格な空気を身にまとった、グウェンダルの父親、フォンヴォルテールの先代当主――。
 幽霊でも見ているのかと、だがあまりにもリアルな存在感に否定する。
 これは確かに生きて息をしている人間だ。
 グウェンダルの親戚筋で二百五十歳程の人物をあれこれ思い浮かべてみるが、ここまで先代に似ている人物には思い当たらない。とりあえず当たり障りのない礼をしてみた。
 それで相手は我に返ったようで、何度か唾を呑み込んで
「へ、陛下が自室にいらっしゃるから――すぐに行け」
 グウェンダルと同じ――先代と同じというべきか――低い声音でそう言うので。あとでグウェンに聞いてみようと一礼してその場をあとにした。

 ようやくユーリの居室までたどり着く。
 ここへ至るまで調子の狂う出来事が続いて……自覚はないが少々疲れているのだろうか。だが、あのひとの姿を目にすれば、そんなもの。吹き飛んでしまう――。
 緩みがちになる口元を引き結んで扉の前に立つ。なぜかそこを護る二人組の衛兵がぎくりと身を強張らせた。
「どうした?」
 怪訝に思って声をかけるが――誰だ? 奥宮警備の兵はすべて見知っているはずなのにこの二人は。
 焦ってノックもせずに扉を開けて飛び込んだ。

 部屋の中、ソファに掛けている黒衣の男に息を詰める。
 ユーリ、では、ない…?!
 なのにとっさに行動をとれなかったのは相手が。
 作り物みたいな美しさに、気圧されるほどの存在感――。
 肩までたらした髪は漆黒。その瞳も濡れたような黒い輝き。
 男は年のころはグウェンダルぐらいで。組んだ膝の上に紙の束を広げ、凍りついたようにこちらを見上げている。
 だけど。ぎょっとするくらい美しいその姿は、驚くほどあのひとに似通っている。
 へ、陛下?……誰だこれは?
「陛下はっ?!」
 切羽詰った声に目の前の男はやっと動きを取り戻した。
「びっくりしたぁ」
 と頬を緩める。そして闇色の瞳を興味深げにきらめかせて「コンラッド、わかーい」。
 は?  自分をそう呼ぶ。この口調で呼ぶ。だがしかし。
 混乱。逡巡。やっぱり疲れているのか俺は…。
「へ、い…か?」
 半信半疑、かすれ気味の声が出る。
 そんな様子を、じっと観察するように眺めて男は笑った。魂をも奪われそうな笑みで。
 自分の知っている彼よりもシャープな頬。笑みを刻む赤い唇。通った鼻筋にきりりと引かれた眉。そして彼の貌を綺麗、だけに収めさせない、きつめの大きな黒い瞳――見るものすべてを引きずり倒し、屈服させずにいられない瞳、だ。
 心臓を鷲掴みにするかのような壮絶な美貌で、男は言った。
「陛下って呼ぶな。名付け親ー」
 膝が崩折れそうになった。何か言おうと喘いで――。
 目の前の人物がぶぶっっと噴き出すに至って、ようやくその呪縛から抜け出し、声を発することができた。
「へ…ユーリ、どうして、そんな急に、大人になっちゃってるんですか?」

 勧められるがままに椅子に掛けて。ユーリ手ずから淹れてくれたお茶を飲んでようやく、少し、落ち着いてくる。
 しかしあくまで少し。ユーリの顔は直視できない。
 うっかり見てしまうと、捕らわれ、そこから外せなくなるからだ。
 ユーリはひどく楽しそうだ。「そっかー。なんか新鮮だなー」だの「かわいいなー」だのと言いながら。…かわいいっていうのはひょっとして俺のことですか…?
 たしかに自分は、ユーリが言うところの二十歳程度にしか見えないし、ユーリは――なぜかわからないが――突然その二十代後半に育ってしまっている。しかもえらく綺麗にお育ちに…。
 朝は。朝食の席まではフツーだった。いつものユーリだった。
 それが二刻程お傍を離れて戻ってきてみれば……そうっと横目で左手に座るユーリを伺う。
 微笑ましげ(?!)にこっちを眺めている。目が合いそうになって慌ててそらした。
 大体、この余裕は何なんだ。突然十歳ほども年をとってしまったら、取り乱すだろう。少なくともユーリなら大騒ぎだ。
 ――まさか自分で気が付いてない?
 思い付きはあまりにもありえそうで、しかし、はて。
 この場合何と伝えれば良いのやら。「ユーリ、急に成長してますよ」か?
 まず、なぜ急成長?、とかいう根本は常識の範囲外の出来事すぎて今は素通りだ。
 眞魔国屈指の剣豪も超常現象は守備範囲外。
 現実逃避とも言える疑問にぐるぐるしていたら、また、我慢できないというようにユーリが笑い出した。
「ごめんごめん……あんまりあんたがかわいいから。つい、」
 ユーリの声はいつものものより少し低く、微かに鼻にかかって甘く響く。
「俺が急に年とったー、とか思ってない?」
「はい」
 自分よりずいぶん年上に見えるユーリには、この思考などお見通しらしい。
「そうじゃなくて――」
 ユーリは目の前のテーブルの隅に重ねられていた書物の下から、畳まれたシンニチを引っ張り出した。
「あんたがタイムトラベルしてきちゃったんだよ。ほら」
「タイムトラ…はあ?」
 少しばかり節だって伸びた指が日付の部分を示す。そのとき左手に細い銀の指輪をみつけた。ユーリと装飾品という組み合わせに軽い違和感を抱いたが――目に入った数字にそんなものは消し飛んだ。
 秋の初めのはずだった。なのにその月を示す数字は四ヶ月も前の新緑の季節のもの。何より年号が――思考停止しそうな脳みそを叱咤して引き算をさせる。
「…百……二十年後、ですかぁ…」
「あぁ。そんな時代からとばされてきちゃったんだー」
 ふんふんと納得しているユーリと新聞を交互に見やる。
 担がれているのかと――が、ずいぶん大人になって怖い位に美しくなっているが、確かにこれはユーリで。ニコニコ楽しそうに笑う顔も、キラキラ瞬く瞳も――しまった。また。
 ユーリの手が伸びてきて、頬にやって前を向かせてもらって、呪縛が解ける。
「失礼しました…」
 コホン、と取り繕って、で。タイムトラベルだと?
「何なんですか、そのハリウッドくさいネタは」
「アニシナさんが時間随道、とかいうの作っちゃって」
 アニシナ――
 その一言ですべて納得、というのがなんと言うか。
 深々と嘆息して、椅子に背を預けた。そういえばこの椅子も今朝までこの部屋にあったものとは違っているし、ほかの調度も少しずつ違う。
「まぁいつものように…まぁ…失敗してくれたんだけど」
 失敗して良かった、という響きが伺われる。
「城の中に時空の歪みみたいなのができちゃったらしくて、年明けからこっち、時々飛ばされてくる人がいるんだよねー」
 視線を天井の辺りにさ迷わせて聞いていると、声の響きが色っぽくなっているが口調はユーリのままで、なんだかちょっとほっとした。

 ユーリが空になったカップにポットからお茶を注いでくれる。優雅な所作にこれが百二十年の重みか、などと感じる。こういうトンデモ事件の類に適応力がついてしまうのは血盟城の住人の宿命だ。アニシナに感謝か――いや。彼女が元凶だし。
 それよりも。
「あなたの百二十年の治世にお慶びを申し上げます」
 あなたならば、それは予定されている未来だと信じていたけれども。だけれどいつも無鉄砲に現場に飛び込んでいくあなただから――。
 そう告げて――視線は微妙に逸らしたままだ――ひっかかりを覚えた。
「百二十年後にしてはお若いですよね?」
 ユーリの成長は魔族的な緩やかさを得たようだ。だが、それにしても。
 『魔族の見た目÷5=人間の見た目』で計算してももう壮年であっていいはずが、目の前の人物は二十代後半――人間でいうところの――にしか見えない。
「あー、あんたと同じだ。百歳くらいまで極端に成長がゆっくりになったからな。その後は普通の魔族みたいに年とってるけど」
 そこでユーリはおかしそうに笑った。
「あんたは普通に……人間の五分の一位のスピードで年くってるから、だんだん洒落にならなくなってきてさ」
 どういうことかと目で問い掛ければ、にまにまとこっちを見てる。
 なんだか先程から年上のユーリにいじめられている気がしないでもない。それに。何か企んでるみたいなそんな笑顔も――どうして無駄に綺麗なんですか…。
 またユーリの手が伸びてきたので、性懲りもなく捕らわれてしまった自分の視線を外させてくれるんだと思っていたら。
 頬に触れさせた手はそのまま、ユーリは腰を浮かせて、至近距離から覗き込む。
「新鮮だなぁ。コンラッドのこういう反応。いいな。たまには」
 きらめく闇色の瞳に引きずり込まれる。
 口角のあがった唇は紅をはいているわけでもないのに艶めいていて――激しくなる鼓動に苦しくなる。頬を撫ぜて、親指の腹が唇をなぞる。
 ユーリは僅かに目を伏せた。しゃらりとすべる黒髪が頬に触れる。
「かわいい」
 囁くような声は唇に吐きかけられる息で聞いた。
 しっとりとくちづけられて。
 ユーリとのくちづけは、心ときめくもので、身体を熱くさせるもので、切ないほどに穏やかな気持ちにさせるものなのに。
 ただ呆然と。何も考えられない。自分の心臓の音だけがうるさい――。

 触れるだけのくちづけをほどいて、ぎゅっと抱きしめられた。
「あぁ、身体も細いー」
 妙に嬉しそうなユーリの声に我に返る。
「……からかってますよね?」
「だってこんなにかわいいんだよー、夢のような下克上〜」
 下克上。下克上なのか? 下克上でいいのか?!
「だってさー、俺が十七歳の時はまだよかったんだよ。あんた二十歳位に見えるし。だんだん、だんだん見た目が開いてきてさー。――俺の見た目が地球で言うところの成人前位であんた三十代後半だぜ? 並んでると援助交際かって見られるんだ」
 親子には見えないらしい。
「そ、それは……ご苦労をおかけしました…」
 …で、いいの…か?
「まぁこのごろは俺も年とるようになってきたから、以前程違和感ないけどさ」
 それでもこっちの俺は不惑の年のはず。あ。俺もまだ生きてますか。百二十年後の自分に対面とかしてしまうのか、な?
 ぽんぽん、と宥めるように頭を叩いてユーリが離れていった。あんまりなしぐさに口の端が攣りそうになるけれど――そういえばすべて日頃自分がユーリに対してやっていることだと気が付いて、ちょっと反省した。

「こっち来る?」
 ソファに戻ったユーリは自分の横を示した。
「並んで座った方が目に入らなくていいんじゃない?」
「――あなたを視界に入れたくない日が来るとは思いませんでした…」
 それでも、このままではやはり不都合なので座を移すと、待ち構えていたように抱き寄せられて、罠に嵌ったと思った。
 すっかり大きくなってしまって包容力みたいなものまで身につけているようだが。視覚からの影響を制限してしまえば、気配は馴染んだ愛し子のものだった。
 抱きしめてくる腕。それがつながる胸。腰。足。すべてが知っているものよりひとまわり大きいのだけれど。全く知らないもの、でもない、不思議な既視感。
 しなやかに伸びた姿態を包むのは、ごく限られた者にしか纏うことを許されない色の衣。生地も仕立ても極上だけれど、普通の貴族が着るようなもの――から装飾を取り払って、更に色彩を排したそれは、彼によく似合った。余分なものをそぎ落としたデザインは彼の美貌を神秘的にまで見せる。
 まぁいつまでもハイスクールの制服というのも、なんなのだけれど。

「未だに俺の見てくれに対する評価ってのは理解しにくいけど、まぁ、美人らしいから。使えるものは利用しないと損だしね」
 ぴったり身体を寄せて、襟元に鼻先を突っ込みながら他人事の口調で言う。
「美人、で括ってしまうには違和感があるんですが」
「それは試行錯誤の末っていうか、努力の賜物っていうか。いつまでたっても見てくれが小僧だからさ。がんばって身につけた貫禄ってやつだ」
 横顔にユーリの視線を感じる。しゃべりながらきっとまだ、かわいい、なんて思われているんだろう。
「玉座についてなかったらみんなグウェンが魔王だと思うんだもんなー」
 あ、と思い当たった。
「さっき、グウェンに会いました。てっきり彼の親族だと思ったのですが。で、陛下をお訪ねしろと言われまして」
 確かに百二十年分年を重ねてはいるが、あまりにもそのまんまだったグウェンダルを思い出して笑いがにじむ。というより魔王陛下が変わり過ぎなのか。
「丸投げかよ」
 その魔王陛下は呆れたようにつぶやいている。
「しかし今のあなたはグウェンよりも迫力をお持ちですよ。方向性は違いますけど」
「そうそう。グウェンみたいなのを目指そうと思ったんだよ。迫力魔王ね。けど鍛え方が足りないのか遺伝子の問題か線の細さが立っちゃって。髪や目の色が黒ってのもイケナイよね。ミステリアス系に行っちゃうんだ」
 いや、だから双黒ってのは…。
「で、まぁ、黒を前面に押し出して、こういうセンで。どう?これでも結構評判良いんだよ」
 評判良いと言うには凶暴過ぎる気がしないでもない。
「大丈夫、三日で慣れるから」
 声ににっこり笑みが載る。

 それからぴったりくっついたユーリに、髪を梳かれたりこめかみにくちづけられたりしながら――弄(もてあそ)ばれながら――聞かされたところによると。
 どういう加減かこちらに飛ばされて来た者は一日二日で消えるという。煙のように霧散して、それで元の時間へと帰るらしい。
 何でも一番最初に飛ばされてきたのが十年位未来の衛兵で、このアニシナ作の時空の歪みを知っていたらしい。
 他の時代からやってきた者は、本来ならば知ることのない未来の話などしてしまったり、もしくは知ってしまったりする前に、出来るだけ速やかに意識を奪って帰るまで眠らせておくことになっていたそうで。歪みも一年しないうちに勝手に修復しますからと、それだけ証言して後は自発的に眠って翌日に消えた。
 それ以来時折迷い込んでくる被害者達は、発見され次第強制的に眠らされて対応しているのだというが。
「さすがにあんた相手にどうこうする勇気がなかったんだろうね。グウェンも」
 それであなたに「丸投げ」ですか。
「どうりで。俺を見た衛兵の様子がおかしいと思ったら」
「だよねえ。ウェラー卿相手にしなきゃいけないのかと、びびったろうね。やたら若いし」
「その、さっきから若い若いって、俺、どれだけ老けてるんですか」
 まさか腹は出てたりしない、はず、だ。きっと。そんなこと武人として自分が許せない。
「あぁ、大丈夫。凶悪な位かっこいいから」
 ちょっとユーリの声のトーンが変わった。照れている? ふてぶてしい(!)までに落ち着き払って自分をからかい続けていたユーリが。
「残念ながら今は国に居ないから会わせられないけどね」
 つぶやきみたいな声と傍(かたわら)にいない、という台詞にひっかかる。
「百二十年後はもう俺はあなたの護衛ではないのですか?」
 あなたの恋人でもないのですか?
 まるで裏切ったかのようにそばを離れることがあって、あれからユーリは絶対もう何処へも行かないでくれと、片時も離さないと言ってくれて――。
 確かに未来など知るべきではない――。
 ひょい、と覗き込んできたユーリが、掠めるようにキスして、よしよしと頭を撫でた。
 だからそういうしぐさは……。
「コンラッドは今もおれの護衛だし、最愛の人だよ」
 耳元で囁かれた言葉は、やさしい響きとあいまって胸に染みる。
「今は紛争地域の武装解除に行ってもらってる。戦闘自体は収束してるんだけど、やっぱりウェラー卿コンラートの名前は大きくてね。彼が行くだけで無駄な血が流れないから」
 口調にわずかに混じる誇らしさ。

「あなたは。もう、大丈夫なんですね」
 どうしてそんなことを言ってしまったのか。
 俺から離れることを極端に嫌がるようになったユーリが、自分なしでも居られることに安堵を覚えてなのか。自分が居なくても平気そうなユーリを責めているのか。
 だが、百二十年だ。これはもうあの自分の知っている、切実なまでの目で自分に縋ってくるユーリではないのだし――。
「任期は三ヶ月だから。来月には帰ってくる」
 それは我慢と諦めに理解という名を与え慣れている口調だった。
 すうっと心の裏側が冷えるような――切ないでも苦しいでもないのだけれど。けれどあまり良い感情ではない何かを感じた。
 ユーリが大人になって、分別を身につけて――どうして自分はそれを喜べずにいる?
 逡巡を、明るいユーリの声が払った。
「だからあんたは俺に付き合って」
「は? 眠らされるのではなかったのですか?」
「こんなかわいいコンラッドを、そんなもったいないことできるか」
 ぎゅっと抱きしめられて。もうユーリをかわいいとかいうのは…出来るだけ…やめよう。



 絶対無理だと思った。いくら髪や目の色を変えたところで、こんなただならない雰囲気で城下に降りるなど。
 それでも大人しく連れ出されたのは、百年も未来に対する遠慮と、どうもこのユーリは苦手だというのが理由。
 決して嫌だとかいうのではない。
 腐ってもユーリ。
 ただ、どうも距離が掴みきれなくて戸惑いが先立つ。主導権を握られるこの状態に慣れていないのだ。

 器用な芸を見せられたのは城門を潜ったときだった。馬を並べるユーリの纏う空気が変わった。
「凄い技だろ?」
 ユーリは得意げだ。
 目の前で起こった変化に瞬きを繰り返す。どうやら見間違いや気のせいではないらしい。
 辺りを払う王気も、見る者をぞっとさせる程の美貌もなりを潜めている。いや、顔かたちが変わったわけではないのだが。
 纏う雰囲気が違うだけでここまで印象が変わるものか――。たいそう美しいが魔族ならばアリだろう、程度に見えるから不思議だ。
「魔王垂れ流しじゃ悪目立ちするからさ。おしのびの為に習得したんだ」
 一定レベルの武人なら気配を殺す、ということもするが。その応用だろうか? まったく見当もつかないが。
「年月は偉大ですね」
 十七歳のユーリに良く似た空気を纏って百三十七歳のユーリは朗らかに笑った。

 彼いわく『魔王を垂れ流さない』ユーリには、もう妙に萎縮することもなく。日頃と同じように、とまではいかなくとも――背丈も体格もほぼ同じに成長したユーリに庇護は不要だった――とても親しい友人くらいの感覚で、賑わう市をひやかして回った。
 国内では見ることのないはずの食べ物や装飾品が目につく。今の眞魔国は、人間達の国とも盛んな交流があると理解する。
 中でも南方の国でしか栽培できないはずの果物を見たときは驚いた。傷みやすい果物が入ってくる程活発な交易と、物流経路が整備されていることの証明だからだ。
 目を見張る俺にユーリは無言だが、でも口元は得意げに笑っている。
 盛んな経済活動はそのまま国力を示す。
 この時代の俺は国外の調停に出ていると言っていた――眞魔国は国際社会でそういった役割を求められる程の地位も確立しているのか。
 ユーリの御代は繁栄し安定している。
 それがひどく嬉しい。
 二百歳以上の者は、孤立し、戦で疲弊しきっていたこの国の記憶を持っている。彼らはどう思っているだろう。この繁栄を。この繁栄をもたらした魔王を。
 まるで自慢の息子を誉められているような誇らしさとくすぐったさ。それと――一抹の寂しさは自分には過ぎた逸才に育ってしまった我が子に感じるものか。

 運び込まれた昼食を二人で食べた後。おしのびに行くから髪を染めるのを手伝えと、言われた時は唖然とした。
 城の中で迂闊に誰かに会われるのも厄介だから、と言っていたが。この年になってもおしのび好きはそのままだったのだと、呆れるやら可愛らしいやらで。
 その時のことを思い出していたら、
「なんだニヤニヤして」
とユーリに不審がられた。
「いえ、出てくるときの段取りが、やはり大人になってしまわれたのだと思いまして」
「悲しいかな、いつまでも少年のままではいられなかったんだよ」
 言葉どおり悲観している様子もなく口の端で笑って、目は先程から乾燥した種実を品定めしている。
 お忍びと言えば宰相や王佐の目を盗んで抜け出すものだったはずなのに。ユーリは半時ほど席を外したかと思えば、取り急ぎの案件に指示を出して、魔王本人でなくてもよい仕事はグウェンに振ってきたのだという。
 明日の夜は外国からの客と晩餐だから、昼過ぎには帰らないといけないけど、と。すっかり王の仕事を自分で取り仕切っている様子に少し寂しいものを感じたのも事実。
 警護にしてもそうだ。人ごみに交る兵士の気配を確かめる。
 本来ここにいるはずのない自分が手配しなくても、ちゃんと城から警護の隊がついて来ていた。

 さんざん見比べてはいたものの、ユーリはそのまま店を離れた。
「買わないんですか?」
 自分の知っているユーリは、こういう種子や豆を炒ったものが好きだ。
「また今度」
 あっさり言って肩を寄せた。背丈はほぼ同じなので、屈まなくても落とした声はそのまま耳に入る。
「あんたにやたらと毒見させて、腹でも壊したら過去に申し訳がたたない」
 まただ。本来よろこばしいことに違いない、そうでなくては困るのだけれど。こういう分別――。
「腹へってんならそろそろメシにする?」
 黙り込んだのを勘違いしたのかそう言ってユーリは馬を預けた宿の方へと足を向けた。



 そこは以前よりあった老舗の宿屋だったが、今では王室御用達になっているらしい。ユーリが迎えに出た主人に小さく頷いたら、彼も心得ているらしく、緊張は隠し切れていないものの、一般の客と同じように対応した。
 宿帳にはミツエモンとカクノシン――まだお使いですか。その偽名。

「近頃は国外からやってくるスパイスの取り扱い量や種類が増えて、ちょっとしたエスニックブームなんだよ」
 食堂の席、並べられた料理を前にしてすすめてくれる。
 ひとすくい口にして……慣れない味付けに少し戸惑うが、南方ではよく口にする味だ。他に不審は感じられない。
「おいしいですね」
 答えると、だろ?とユーリもスプーンを手に取った。
 まわりの者は毒見をしている、など誰も思わないだろう。そんな自然なやりとり。
 宿の部屋数に比べてかなり大きなそこは、食事を楽しむだけに訪れる者も多い。まだ早い時間にもかかわらず、そこそこ席は埋まっている。その中に紛れて警護のものがちらほら。
 日が沈む前の夕食も、腹がへった云々より、ワケありの客は混み合う前に、という配慮だったらしい。

 まぁ、彼がすっかり大人の振る舞いに始終していたかといえば、それだけでもないのだけれど。
 店の一番奥のテーブルに壁を背にしてユーリ、その向かいに自分は座していた。
 その左側の席から、時折こちらに向けられる不躾な視線。そういった誘惑の類を知らないわけではないが、そこそこ格式の高いこういう店では珍しいことで。
 気になるらしくユーリも時折俺の隣をちらちらやっていた。供されている料理の説明だとか、最近の味付けの傾向だとか話しながらも、言葉の端々に苛立ちが混じって。
「ホントに。女ったらしの彼氏を持つと苦労するよ」
 わずかな唇の動きがこぼしている。
 身をやつしてもこの美貌、の自分のことはどこかにうっちゃっているらしい。市場ではすれ違う人々を、もれなく振り返らせていたのに。

 それは、食事も終盤、デザートの皿が運ばれてきたとき。
 小さなケーキが美しく盛られている。ユーリはおもむろにそれを一口分掬い取って。突きつけてきた。
「あーん」
 と甘い声で。小首を傾げ、目を細めて。口元には柔らかな笑み。
 ただ、目の前の空気が確実に密度を増した。辺りを払うようなそれに、うなじがちりちりする。
 震えないよう意識してそれを口にした。
「……おいしいですよ」
 ユーリは、そう? と笑みを深くして、隣へ視線を流す。睨みつけたわけではない。口元には凄艶な笑み、見るものすべてを凍りつかせる凶悪眼力、なだけで。
 ガシャン、と横の席でグラスが砕ける音がした。
「あれ? 食べないの? おいしいよこのケーキ」
 鋭すぎる牽制球で一塁走者を刺して、すっかり機嫌が直ったらしいユーリは、にこにことデザートをたいらげている。
 とばっちりを受けて凍りついていたが、我に返って、冷汗をぬぐった。
 とっても綺麗な魔王陛下は百三十七歳。その気迫、何か使い方を間違えている気がします…。
「もういいだったら――」
 満足した魔王陛下はさっさと席を立った。あとに続くべく腰を浮かせた俺を見下ろす視線で止めて、横を通り抜けざま、頬につうっと指を滑らせる。
「行こうか? 部屋へ」
 なんだかいろいろ含みのある声と目つきで。見てしまった食事中の人々を、またもや凍りつかせて――。
 ある意味、大人な行動――少なくとも十七歳のユーリには不可能。なのだけれど…。



 客室に入ったとたん、まるで被り物でも脱いだように現れる王気。
 ここまできたらワザとやっているようにしか思えない。
「本当に器用ですね。さっきの小出しといい」
 のまれまい、とわざと軽く言ったならば、その反応がお気に召さなかったらしい。
「もう慣れちゃったんだ」
 つまらなそうに口を尖らせる。やはり、からかって楽しんでいたらしい。
「慣れたわけではないですけど。うかうか見惚れていたらこの身が危ういので…」
 半分本気だ。まさかユーリ相手にこんな危機感を持つ日が来ようとは。
 それにおかしそうに笑ってユーリは、馬にくくりつけてきた革袋の中から酒瓶を取り出した。
 とぷり、琥珀の液体が揺れる。食事の時に供されたワインを普通に口にしていたので、さすがに飲めるようになったのだとは思っていたけれど。それはアルコール度数の高い蒸留酒。
「クライスト産の二十年物だぞ」
 すっかり酒呑みの顔で誘う。
「素晴らしい」
 寒冷で水が綺麗なクライストは良質な蒸留酒を産出する。
 グラスを用意して、渡された酒瓶の封蝋を短剣で開封すると、蜜の様な芳香が立ち上った。
 芳醇な香りがもたらす期待に頬が緩む。そんな俺を見つめるユーリは、まるでわが子を慈しむ親の視線だ。
 いつもとはまるで逆の立ち位置。だけど。半日共に過ごした後では戸惑いも薄れ始めている。
 事実ユーリは俺より『大人』なのだ。
 それに。ユーリに甘える心地良さは、よく知っているところではないか。

 ユーリは靴を脱ぎ捨ててベッドに陣取る。傍に自分の分の椅子を引き寄せながら笑いが漏れた。ユーリにはすぐに裸足になる癖がある。
「家の中で靴を脱ぐのは日本人のDNAだよ」
 笑った理由を正確に読み取ってユーリがうそぶく。
 琥珀を満たしたグラスをお互い掲げて、一口含めば予想に違わぬ芳香が広がった。アルコール度数を感じさせないまろやかさで喉の奥を転がる。
「旨いだろ〜?」
 得意げなユーリに頷いて見せた。
「クライストの二十年物は最高級ですけれど――これ程のものは初めてです」
「ギュンターに誕生日に貰ったもんだからな」
「なるほど。魔王陛下への献上品ならば、領主として気合いが入りますね」
 ユーリは人さし指を唇にあてて笑って見せた。
「俺よりあんたが気に入っていることはギュンターには秘密だ」
 それはきゅっと上がった口角も、すがめた瞳も、十七歳のユーリには出来ない蠱惑的な代物で。不意を突かれて背筋にぞくりと震えが走った。
 平静を装ったがわずかな視線の揺れを、この魔王陛下が見逃すはずもなく。
 半日付き合った成果は、この後の展開が予測できることと、綺麗な顔の裏で面白がっているのが読めるようになったこと。
「そんなに警戒すんなよ。期待に答えちゃいたくなるだろ」
 気のない風にそんなことを言って、グラスを持った右手の人差し指で中の酒を掻き混ぜる。
 いくら高級宿といってもこの季節、酒に氷など入れられない。生の酒を混ぜる必要はないのだが。
 と思ったら。グラスをサイドテーブルに置くと濡れた指をゆっくりと口元に持って行って、舐めた。舌を出して。
 ひた、と視線を当てて、指先を含む。指を濡らした酒を味わう、よりはもっと淫靡な表情が、何を暗示しているのか語っている。根元まで含んで歯を立てる様子を見せつけられて。
 ――居たたまれない。
 なんとかこの空気を打ち破ろうとするが、喉の奥が干上がってしまっている。
 ユーリの右足がシーツの上を滑ってこちらに寄せられる。腿に触れる。
 日に晒されることのない裸足の先はぬめるみたいな白を保っていて、撫でまわす動きと相まって酷く卑猥だ。内股を辿って、股間を押さえられる。
「ねえ。抱きたい? 抱かれたい?」
「なんで二択なんですか」
 このまま黙っていたら不味いことになりそうな焦りに、気力と声を振り絞る。
 だが決死の抵抗も魔王陛下の前では所詮は無駄。口の端に浮かべた笑みで抑え込まれて。
「十五の年から仕込まれているから、俺、上手いよ」
 ……ふっ、復讐?
 ユーリは足先を強弱をつけて押しつけてくる。
 濡れた指先で唇をなぞると、蜀台の明かりを反射してきらめく艶を帯びる。もとより濡れたような輝きを保っている瞳は、熱を含んでこちらに当てられている。
 その視線だけで体は金縛りにあったかのように指一本自由にならない。内の心臓まで絡めとられ、縛り上げられる。
 手を伸ばせば届く距離にある恍惚。この先に待つはずの官能と、本能が覚える恐怖がない交ぜになって思考を埋める。
 とんでもないいたずらを仕掛けていた足先が、撫で降ろすように動いて足の間に落ちた。
 ユーリは体を傾けて、首に腕を回す。それを支えに身体を持ち上げて、狭い椅子の上、膝の上に向き合うように移ってくる。
 俺の身体を跨いで、少し上の位置から眼の中に凄惨な色を流し込んでくる。ふ抜けていても落とさなかったグラスを、掴む指ごと取り上げられた。呷って、今度はその酒を口に流し込む。
 むせないように少しずつ含まされるそれは、ユーリの体温を吸って口中に馴染む。
 残りをすべてそうやって口移されて、
「こうやって呑むともっと旨い」
耳元で囁かれて――脱力した。

 膝から降りたユーリはケラケラ笑っている。息苦しいほどだった性愛の空気が笑い飛ばされる。
 キスされただけなのに、なんだろう、このヤラレちゃった感――。ぐったり椅子の背に身を委ねて天井を仰ぐ。
 過剰な緊張が切れた反動は思った以上の疲労を呼び覚ました。身体より精神の疲労。今日一日、時折顔を覗かせた、あまりたちの良くない感情に揺さぶられ、消耗していた。
 自分に全幅の信頼を置いてくれていた。すべてを委ねてくれて。その心さえも全てあんたのもんだと、だから俺の傍を離れるなと言ってくれたユーリ――喜ばしいことですけれど、百二十年後のあなたは俺なんかいなくっても、立派に魔王として素晴らしい治世をなさって、健やかに麗しくお過ごしです。
 身も蓋もなく言ってしまえばそういうことだ。名付け子の成長も喜べない狭量な独占欲。
 知らず眉根をきつく寄せていたらしい。ユーリが人差し指で眉間を揉んでくる。
「難しい顔して。どうした?」
 すっかり淫靡な艶を払拭した瞳は暖かな闇色。俺とは違う器を感じさせる余裕で、自然に気遣ってくる。それがまた苛立ちを増す。

「俺みたいなのは、もしかしたらあなたの傍にいてはいけないのかと思っていたところです」
 言葉にするとそれは改めて己の胸を抉った。
「だいたい、俺が大シマロンに居たときだって、ユーリは立派に王として立って――」
 口にしながら、これは言ってはいけないことだと警鐘は鳴っていたのだけれど。
 あるじのギラリと剣呑な光を帯びた目と、浴びせられる怒気が避けることを許さなかった。
 拳が飛んでくる。衝撃で椅子ごとひっくり返って派手な音が響く。それから、殴られた頬がじんわり、と熱くなる。
「三ヶ月だぞっ」
 襟首つかんで引き立たされて、怒りを露にした強い調子で吐き出された言葉に我に返った。
「どんだけ我慢してると思ってんだっ。俺はあんたが居ないと駄目なんだぞ! 夜は眠れないしメシも食えなくなるっ。  ――正しい精神の在り方じゃないってわかってるさ。だけど、それがどうしたって開き直るくらい、俺はあんたなしじゃ居られない。  それをあんたはっ!」
 突き放すように手を離して踵を返すと、ユーリはサイドテーブルの酒を注いで乱暴に呷った。
 ひりつく口の端をぬぐったら切れていた。殴られたところは急速に熱を帯びて疼きだすけれど、口元は緩む。
 どれだけ大人になって、どれだけ王として手腕を振るっていても。三ヶ月すら、離れていられないのだと――。
 そんな風にユーリに言ってもらって。
 ユーリは苦しんでいるのに。俺の動向は、精神を不安定にしてしまうくらい彼を追い詰めてしまうと言われているのに。なのに、どうしてか、安堵し喜びを感じてしまう自分がいる。
 そんな様子をユーリは忌々しそうにねめつけてくる。
「さっきの。そっちの俺には絶対言うなよ」
「え……俺が居ないと駄目だ、とかいうのですか…」
「ちがうっ。あんたが居なくても俺はやってけるだろうってヤツだっ あんた、俺がどんだけあんたのことが好きかってわかってんのか!  あんたはトクベツなんだよっ」
 美人が怒ると本当にこわい。だけどその内容は俺の表情を崩壊させる。
 心底厭そうに顔を歪めて魔王陛下がまた怒鳴る。
「あんたもう帰れ!」
「帰れと言われても――」
 こんなあなたを放っては。

「――自分ではどうしようにも…」
 突然、真っ白な光に焼かれて眼の奥が痛んだ。何が起きたのか――瞼の裏側で起きるハレーションが収まるのを待たず目を開ける。徐々に視力を取り戻す中で見えてくるのは、眩しい白昼の光。真っ直ぐ続く廊下。寄木細工の床。暑気の中にも爽やかさを感じる乾いた空気。
「ユーリ!」
 無人のそこに、もちろん答える人は居ない。
 ――帰って、きたのか……ユーリに追い返された? アニシナの失敗で出来た時空の綻びでタイムトラベルのはずが。しかし、いくら強大な魔力を持つといっても、時空を操るなどできるものだろうか。
 つい今まで、目の前で激昂していたユーリが浮かぶ。俺が居ないと駄目だと言った綺麗な魔王陛下。怒りの奥に見えた寂しさとやりきれなさ。
 抱きしめたいと思った。そうして――ああ。
 しかし。それは百二十年後のコンラートが任務を終え帰ってからの役目、か――。
 この俺が本当にそうしたいのは。
 まだまだ子供で、机の前でじっと座っているのが苦手で、やっぱり綺麗な十七歳の魔王陛下。
 命つきるまで傍にいて欲しいと言ってくれた、あなただ。

 王の私室を守る衛兵は、よく知る二人。この姿を認めて敬礼で通してくれる。
 ノックをすればいつもの応え。それは少年の声。
 ソファで焼き菓子をつまんでいるのは、もちろん十七歳のユーリ。
「どっか行ってたんだ?」
 問われて初めて、自分が軍服ではなく、向こうのユーリに用意してもらった平服であったことに気がついた。
 驚いたユーリがソファから立ち上がった。
「っつーかどうしたんだそれ! すげー腫れてる」
 指差された頬に手をやるとズキリと痛んだ。
 心配そうに寄って来て「冷やした方がよくない?」と覗き込んで。ユーリの眉が寄る。
「あんた、酒飲んでる?」
 昼間っから、の非難の色が混じるが――向こうは夜だたんですよ。
「いえ、酔っぱらいに絡まれまして。たぶんその匂いが移ったんだと」
「どんな酔っぱらいだよ、あんたをボコれるって……ってまさか、相手を半殺しとかしてないよな?」
「まさか」
 酔っぱらって絡んだことにされているあちらのユーリが聞いたら、更に怒りまくりそうなことを口にしながら。
 なぜ先程の体験を隠したのだろうかと、今更ながらに考える。
 怖いくらいの美貌になっていたのはさておき。一緒に魔族の長い生を生きて行くのだとか、ユーリの治世の繁栄の様子だとか。
 身長が俺くらいになっていたって教えたら、目を輝かせて喜んでもらえそうだ。

 だけど。
 今俺が言わなくても。それは近いうちに実現していく未来。
 今でさえ、ユーリの側近たちは、俺が見て来たような世界を確信している。

 それに――。
 ――大人になったユーリに好いように転がされていたなんて。
 絶対、言えないし。

「午後から久しぶりに、アオを外に連れ出してやりませんか。今日はとても気持ちのいい天気ですよ」
 誘ったならば、ユーリの顔がぱっと輝く。
 それは、まるで今日の空みたいに。


End


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