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Happy Valentine!

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 昼をすぎてもなかなか気温の上がらない、冷蔵庫の中みたいな日曜日。
 だったら一日暖かい家の中にいれば良かったのだけれど、昨日の練習で穴をあけてしまったストッキングの補充に、休みのうちに行っておかないといけなかったから。
 あとはついでに新モデルのミットとか指咥えながら見て。そう言やあレガース、だいぶ傷んできた…まだ買い替える気はないけれどちょこっと下見を。
 息するだけで鼻の奥が痛い、冷たい空気の中を歩いて。駅前ロータリーの手前まで来たときだった。
「渋谷君っ」
 女の子の声で呼び止められた。声の方を振り返ったら。
「あ」
「久し振り」
 さらりと揺れるショートヘア。ファー付きのダウンベストに白と黒の複雑なチェックのヒラヒラしたスカート。かたち良い膝小僧とハイソックスのしまったふくらはぎが伸びてる。可愛らしい顔立ちで笑いかけてくれるのは。
「橋本麻美」
 前に一瞬だけお付き合いすることになった、中学ん時の同級生だった。
「どっかおでかけ?」
 自然と肩を並べて、駅構内への階段へと向かう。付き合おうと言われて、一旦は了承したくせにすぐにやっぱり…ってお断りしちゃって…――どう考えても口もききたくない相手だろうに、その辺の屈託はないらしい。
 こういうサバサバしたとこって、いいんだよなー。お付き合いとか、そういうのは置いておいてもさ。
 失礼をした手前、こっちの方がどぎまぎしちゃうのに…――あ。その辺まで気遣われてんのか?
「野球の靴下買いに。そっちは?」
 やっぱいいな。可愛いし。 
「ん。私も買い物。友達と行くはずだったんだけど、風邪ひいて来れなくなって」
「あー、流行ってんもんなぁ」
 金曜もクラスで三、四人休んでいた。
 橋本が横から覗き込むみたいに聞いてきた。
「渋谷君はひとり?」
 え? 三、四人…ってそっちじゃないか。
「うん。靴下買うくらいだし」
 質問の意図を考えるでもなく答えると、橋本はいいことを聞いたと笑顔になった。
「じゃ、付き合って」
 付き合って――って。いや、だからそれは…橋本はしょうがないなぁあって了承してくれて…――もしかしてこの屈託のなさは、違う、の、か?
「違うって〜」
 戸惑いは顔に出ていたらしい。けらけら笑って腕をぶたれる。
「買い物に付き合ってって。ひとりで行ってもつまんないじゃない――それとも何? 一緒に買い物に行くのもダメ? 遠距離恋愛の彼女に悪いのかな?」
 ――遠距離恋愛の彼女…。
 正しいような違うような…その言葉に引っかかってると、小首をかしげて覗き込んでくる。その目にあるのは悪いものじゃない。
「一緒に行こっか」



 休日の午前の電車は座席に空きなんかなくって、戸口のそばに並んでつ。
「チョコ買いに行くんだ」
 橋本が買い物の目的を告げた。
「へぇ。バレンタインだもんなぁ」
 そっか。女子にはそんな用事もあるのか。
「ごめんね」
 唐突な謝罪に、何が、と聞き返す。
 買うのにつき合わせといて義理チョコも渡さない、とか、そういうのが?
 じーっと橋本がおれを見上げてくる。
「今、おれにふられたらもう次なんか、とか、カケラも思わなかったでしょ?」
「は?――思わないよ。って、それ、おれどんだけ鬼なんだよ」
 ぎょっとしたら、橋本がふふっと笑う。
「渋谷君、今幸せでしょ」
 また唐突に。話が見えない。
「ヨリ戻した彼女とラブラブ幸せいっぱいに免じて許してほしいことがあるんだけど」
 彼女…ラブラブ…――ヤメテくれませんか…。
 電車の中、暖房効きすぎじゃないのか。顔が火照る。
「私さ、中学んときのウチの顧問が好きなの」
「怪我したときにお姫様抱っこ…じゃなくて車で病院連れて行ってくれたんだっけ?」
「そうそれ。――お姫様抱っこの噂ねー。それ村田君とこの文化祭んときに言われて、あぁ、やっぱまだ誰も忘れてないんだぁってなんかイロイロ嫌になっちゃって――ったあ…責めてるんじゃないからそんな申し訳そうな顔しない」
 違う汗が出てきそうになっていたら、ほっそい女の子のものでしかあり得ない指がふにっと頬を抓る。
「渋谷君がどうとかじゃなくて。世間はそう思ってるんだってことでよ。――もう…ますます謝りづらくなってくるじゃない…」
 威勢のいい口調や行動とは裏腹、らしくない頼りない表情にすんなり納得できるものがあった。確かにあの場の勢いは、ホント勢いとしか言いようのないもので。好きだとか恋しいだとか、そういった『付き合う』ことに付随する生々しい感情はあの場には何一つ存在しなかったのだ。
「いや、あの時はおれがはっきりしなかったから。一方的に悪いわけで。橋本が謝ることなんて何もないよ」
 自暴自棄になって適当に無害そうな自分に白羽の矢が立ったんだろう内幕は、今更改めて聞かされる不愉快よりも、後悔している彼女が不憫だった。
 気障ったらしいことを言うつもりも柄でもないが、橋本麻美にはこんなふうにしょぼくれていて欲しくない。凛として。前を見て。彼女が一番可愛く見えるのはそういうのだ。
「おれもまんざら捨てたもんじゃないって、いい気分にさせといてよ」
 肘でつつくと、釣られたように口角を上げて。眩しそうに眼を眇めて橋本は小さな声でありがとうと言った。



 先にスポーツ用品店に行ってくれたのは優先してくれたわけじゃなくて、その後心置きなくバレンタイン特設会場を周回するためだった。
 ごめん、おれには全部同じに見える。さっきの店とこの店と、違いなんてわからない。それよりも。
「チョコの値段にビビってんですけど――コンビニの箱買いして貰う方が嬉しいっていうか…」
 とりあえず体育会系高校生の端くれとしてすぐにエネルギーになるものはいくらあっても困らない。
 そしたら、その発言は彼女が泣く、と窘められて、バレンタインの相場はこういうことなのだから、貰った時にちゃんと対応できるようにしっかり勉強しておけと叱られた。
 いや、貰わないし。そんな風習はあっちにはない。しかも奴は男だ…――
 小言をくらいながらそんなことを考えていて、ふと思ったのは――ひょっとしておれがコンラッドに遣らないと駄目なの?
「なぁ、外国…アメリカとかでもバレンタインってするのかな」
 唐突な質問だったけれど、橋本の答えは。
「渋谷君の彼女ってアメリカ人だったの!」
 いや、そっちじゃないから。それでも小首を傾げて考えもって。
「よくは知らないけれど…恋人たちの記念日には変わりなかったと思うけど…あっちは男の人が彼女にプレゼントするんじゃないかな」
 ちょっと、渋谷君やばいじゃない! と橋本が慌て出した。
「あ…あ、いや、あいつがバレンタインに参加するかどうかもわかんないし…」
 そもそも男からっておれ、…は男だ確認するまでもなくな! 互いに贈りあうというのはアリだろう。けど…だな。
 そうタイミング良く二月の十四日をあちらで過ごせるだろうか、だとか。おれだけが地球の行事を意識してもなぁとか。
 おまえも買え、今すぐ買え、とせっつく橋本をやんわりと押しとどめる。どうどう。
「だけどあいつチョコとか別に好きでもなさそうだし」
「ん、多分向こうの場合はチョコに限ってなかったと思うよ。普通になんかちょっとしたプレゼントで…花とか」
「花…もっとあり得ない…」
 贈るのもあり得ないけれど…貰うところを想像して更に慌てる。コンラッドから花を貰うぅぅ〜?
「ま、まぁおれはいいから。ほら、橋本さんの買おうよ。ね」



「ねぇ、もしかしたら渋谷君の付き合ってる人って、男の人なのかな」
 ほろっとこぼされた質問は、問いの形はとっていたけれど、こんな疑問、何かよほどの確証がない限り口にしない類のものだ。
 どうにかこうにか買い物を済ませて疲労困憊、休憩に入ったスタバで、座面の高い椅子に並んで腰かけて。
 おれはというと、その瞬間ばちっと硬直して、血の気の引く音を聞いていた。何か気の利いたことを言ってはぐらかさなくてはと焦るが、頭は思考を放棄する。
「あ。否定しないんだ」
 しかも呆けているうちにブッチリ退路は断たれてしまった。
 引いた血が、今度はひどい熱を伴って帰ってくる。きっと真っ赤になっているおれの顔を見て、橋本は馬鹿にするでもなく微笑んで。
「まぁ、そんなことはどーでもいいんだけどね」
 さらっと流した声は、あっさりすぎていて、思わず。
「どーでもいいの?!」
「まぁ下世話な興味も無いでは無いですけど」
 物騒な笑みを覗かせる。でも、すぐに至って真面目に。
「渋谷君はその人が好きなんでしょ。向こうも渋谷君が好きなんでしょ。なら良いんじゃないそれで。――ガッコの先生ってさ、こっちが好きになればなるほど困るんだよ。はじめっから恋愛の対象から外してるっていうかむしろタブーで――なーんか、そんなたっかいハードルの向こうに恋してへこたれてるとね、渋谷君みたいな話はちょっと勇気づけられるよ」
 そう言って橋本は、視線から逃れるように両手に囲ったコーヒーを啜った。
「あいつもおれよかずっと年上なんだ」
 ついぽろっと漏らしたのは、同情か共感か。こっちの世界じゃアブノーマルな関係をするっと受け入れられた安堵だったかもしれない。
「オトナは色々考えなきゃいけないんだってよ。年少者に対する責任があるから、おれらみたいに突っ走るわけにはいかないんだって」
 突っ走ってるわけでもないんだけどなーと橋本はミルクの泡を睨む。
「これが恋愛感情なんか単なる憧れの履き違えなんかとか――考え始めるとねー。しんどいよ。だけど宥めきれないんだもん…」
 知っている。その苦しさは。だから、この恋心を認めた時、自分はすごく楽になった。好きなんだと自分が認めるだけで、自分の中に詰まっていた気持ちと折り合いをつける方法がわかって。片想いだって幸せだった。――まぁ直にそれだけでは飽き足らなくなってまたモダモダしたわけだけど。
 ひとを好きになるのは苦しくってしんどくって、だけどほんのりと幸福だ。
「そうだ。結局渋谷君、あたしのケーバンとか知らないよね?」
 橋本はカップをトレーに戻すとカバンを引き寄せて中をごそごそやり始めた。紫色のボールペンを取り出しておれの右手を取る。
「なに」
「だって紙だったら失くされそう」
 そんなガサツに見えるのか。
「消える前にちゃんと控えてね」
 釘を刺すその目が怖くて、失くすより無視する方を危惧されたんだとわかったけれど。
 掌にぐりぐりペン先を押しつけられて痛い。解放された時にはアサミという文字に続いてハートマーク、その下に数字の羅列が残されていた。
 このハートマークに特別の意味なんてない。これは女子たちのクセみたいなものだというのは、携帯持っていた頃に学習した。可愛いからつけた、それ以上の意味なんて勘ぐったら出てくるのはせいぜい冗談、くらいなものだ。現に。
「彼氏にフラれたら掛けてきていいよ。聞いてあげるから」
 ほら。すっかり友達ポジション。
「じゃあ橋本がフラれたら聞いてやるよ。家電だけどな――あと、おれはフラれないし」
「ナニその自信?!」
「あいつはおれにメロメロだからー。オトナは落とすまでがタイヘンだけど、逆にその分、落としたら濃いいぜ?」
 むしろ戦友かもしれない。ニヤっと笑って見せたら、よし、と橋本は拳を握って闘志を燃やしていた。



 向こうの世界に呼ばれたのは、橋本麻美と別れた駅からの帰り道だった。靴の底を濡らすほどの水たまりで溺れるなんて、何処でもいいのか?!
 あんな話をした直後、いまだ高ぶった気持ちのせいでコンラッドとは顔を合わせ辛いことこの上ない。だけどどぎまぎと甘ったるい混乱に浸っているうちに、世話焼の恋人に見られてしまった。
「おや。あなたも隅におけないですね」
 カタカナで記された女性名までは読めなくても、それが女の子の電話番号だと正確に理解して。だけど彼女との関係はむしろ同志だとか、そんなことまでわかるわけもなく。
「そんなんじゃないしっ」
 オトナの濃いい情を身をもって思い知らされることになった。
 もちろん番号は控える前にきっちり洗い落とされてしまって、オトナったって結構可愛く思えるとこもあるんだよなぁ――彼女に言いたくなったけれど、それももう無理だ。


End


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