『夜に溺れる』




 ずっと、好きでしたと伝えてしまえればどれだけ幸せだろうか。
 相手は年端もいかぬ少年で、光栄にも名付け親にはなれたが主でもある。そして何より、彼には婚約者がいた。
 伝えられるはずがない。言えるはずがない。
 元々彼の恋愛の対象は女性だし、考えが変わったとしても相手は弟がいる。
 だから伝えてはならない。知られてはならなかった。
 口にしてしまえば悩んでしまうだろう。素直な方だから、態度にも出てしまうだろう。
 俺を避けるようになるかもしれない。優しい人だからそうしてしまう御自分を責めてしまうだろう。
 己に向くことがないとわかっていて、わかっているからこそ、言えるはずがなかった。想いは全て胸に秘めて、決して悩ますことのないように。
 それでいい。きっとそれが一番いい。だからどうか。
 この想いに気付かないでいて。





 重厚な扉を開けると、分厚いカーテンが閉まったままの部屋は薄暗く静か。光源は隙間から差し込む朝日だけだった。きらきらと輝き入る光は穏やかに外の明るさを示している。
 踏み出してすぐに柔らかい絨毯が足を受け止め、音を吸収した。

 起こすために訪れたというのに、起こさないように足を忍んでベッドへ近付く。不意に泣き出したくなるほど優しい日々は、これから先も続いてくれることを願うばかりだ。
 のぞき込んでみると寝相の悪い弟の足が乗っていて、寝苦しそうに眉間に皺が寄っている。それをそっとどかしてやると、途端に穏やかな寝顔へと変わった。
 どうして、こんなにも。
 胸が甘く疼く。鍵をかけて閉じこめておくべき恋情は、彼の何てことない仕草に容易く開けられて溢れ出してしまう。
 今もそうだ。どうして、こんなにも無防備なのだろう。
 寝顔を眺めている男は誰より彼を欲していて、穢らわしいほどの想いを持ってここに立っているというのに。
 そんなことを知らぬままに眠り続ける少年を、本当ならかき抱いてしまいたいほど執着しているというのに。
 いざというときには勇ましく前を見据え、年齢以上の凛々しさを見せる彼は眠っているとまるで幼子のようだ。その頬に触れたくなって伸ばした指を、すぐに握り込む。こんな想いを持ったまま触れてしまえば、汚してしまいそうだった。
 どうすれば気持ちを消せるのだろう。どうすれば忘れてしまえるのだろう。
 考えるたび深みにはまって、底なしの沼にいる感覚に陥る。大切だから触れられなくて、けれどいっそさらってしまいたくなるほど、暴力的なまでの衝動が生まれて戸惑う。
「……ら、…」
 眠ったままで彼の唇が動いた。それはとても幸せそうな声で、ヴォルフラムの名を呼んでいるのかと身を屈める。
 甘えたようなそれは、夢でも見ているのかと微笑ましくなったが、違った。
「コンラッド、」
「……っ」
 呼んでいるのは自身の名。そんな声で、幸せそうに笑みさえ浮かべながら紡がれて。狂おしくなるほど愛しさが増す。
 鼓動が彼にまで聞こえてしまうのではと不安になって、息を潜めるのをやめた。
「朝ですよ」
「んー、あと五分…」
 そうして始めるのは、いつものやりとり。何てことない会話だというのに、どうしようもなくざわめく理由を知りたくはなかった。
「起きてください。カーテン、開けちゃいますよ?」
「えー」
「残念ですね、じゃあ今日はキャッチボールはおあずけですか?」
 わざとそういえば、慌てて彼が起き出した。用意していたジャージを渡してカーテンを開ける。眩しい日差しが部屋を照らし出し、薄暗かった部屋は途端に明るくなった。
「おはようございます、陛下」
「陛下って呼ぶな、名付け親だろ」
 拗ねたような声だが実際はそうではないのだろう。この問答が嬉しくて、ついわざと間違えることもあった。
 けれど、今日は言い直せない。
 あまりに彼が大切すぎて、名を呼ぶだけで想いが伝わってしまいそうで。
「すみません。さあ、すぐに着替えて」
 どうか小さな違和に気付かないでいて。

 足掻き続ける無様な姿を、あなたにだけは見せたくはないから。




境界線


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