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女王様とお呼び!

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■ 前 編 ■

 半ば無意識で、傍らで眠る温もりに手を這わす。昨夜の情事のまま一糸纏わぬ肌は、滑らかな手触りを伝えてくる。きめ細かく柔らかな…心地よい感触をまどろみながらに楽しんで――違和感を感じた。
 柔らかな? 確かにユーリはすべらかな肌をしているけれども。だけど。丸い腰の曲線。撫で上げた背中に筋肉の張りが…ない。
 ぎょっとして飛び起きた。微かな常夜灯の下で、すぐ隣で掛布に顔を埋めるようにして眠る人の、漆黒の髪を確認した。ああ、確かにユーリだ、と、ほっとして。
 そして寝惚けていたとはいえ、自分はなんて思い違いをしたのかと腹立たしくなった。自分がユーリ以外と、女性と夜を共にするなんて。あるはずもないのに。
 再びベッドに潜り込んで、寝直すべくユーリの身体を抱きよせる。
 腕が余る感じがして、未だ混乱を引きずっていることに苛立ちを感じた。それでつい、力を込めてしまっていたらしい。寝苦しさを訴えてユーリが身じろぎする。
 夢うつつでも恋人に抱き締められているこの状況は認識できているらしい。ユーリが擦り寄って抱きついてきた。居心地いいように収まると、再び規則正しい寝息を立て始める。
 肌をくすぐるその呼吸を数えながら。コンラートはやはり違和感を拭い去れずにいた。
 何なのだろう。さっきから自分とユーリの間に挟まっているこの柔らかいものは。

 また彼を起こしてしまうのが忍びなくて堪えていたが――徐々にしっかり頭が冴えてくるに従って、看過できなくなってくる。
 ユーリの肩をそうっと押し、覗き込む。
 見慣れないものがあった。
 いや、見たことがないわけではない。だが、ここにあることに強烈な違和感が。
 状況が理解しきれずにぼーっとしてしまうが、一瞬後には痺れにも似た焦燥が襲って来て、追われるように俯いているユーリの顔を上げさせた。無理矢理に灯りの方を向けさせる。
 突然の狼藉に顰めた顔は、確かにユーリ…?
 眩しげに目を眇めながら。
「なに…」
 かざした手で灯りから庇って、どうしたんだよ、とこちらを見る。
「ユーリ、ですよね?」
「ああん?」
 叩き起こされて聞かされた間抜けな質問に、答える声が不機嫌になる。
「寝惚けてんのか――まだ暗いじゃねーか…ほら、寝るぞ」
 高めの声が寝起きに掠れて、華奢な手がコンラートの腕を引っ張る。
 が、それには従わず、かかる髪を払ってユーリの顔を覗き込んだ。切羽詰まった行動を寝惚けているのだと納得したらしく、ユーリは不機嫌と眠気を引っ込めた。
「ちゃんとおれだろ?」
 漆黒の瞳の奥に面白がる色を湛えて。わざわざとっておきの表情を作ってみせる。そして伸びあがってコンラートの唇に――。
 コンラートは半ば無意識に身を引いた。むっとユーリの眉が顰められる。
 だが、やはりその違和感が無視できなかったのだ。
「すいません、だけど、あの…」
「何っ」
「ユーリ…ですよね?」
 寝惚けているとしか思えないような質問を発するコンラートの視線を追って、ユーリが自らの晒した身体に目を落とす。
 蝋燭の柔らかな灯りを受けて陰影を作るのは。なまめかしい曲線で出来た、二つの膨らみ。
「うわっ――何、何こんな腫れてんのっ?」
 キスを避けられたどころでない状況に、ぎゃっと飛び起きて自分の胸とコンラートを見比べる。
「わぁぁ…あんたが吸いすぎるからぁ…なんか悪い菌とか入ったんだよ――つーか、どうするよ何て言うよっ吸われすぎてこんなんなりましたとか…恥ずかしすぎるだろっ」
 混乱しつつもユーリの中で一番説明のつく理由はそれだったらしい。責任をなすりつけられながら、だがユーリの姿を客観的に見ることのできるコンラートには、それがバイ菌が入ったのでも腫れているのでもないことがわかった。
「ちょっと失礼」
 言うなり掛布を捲ってユーリの足を持ち上げる。
「えっ、何?」
 と、傾いだユーリが状況を把握する前に、コンラートは引っ張り上げたシーツで丁寧にその身体を包み込んだ。
「理由はわかりませんが――原因はわかるような気がするので…どうぞ落ち着いて聞いて下さい」
 妙な前置きにユーリはこくこくと頷く。どうやらこの腫れ物に関して恋人は答えを知っているらしい、と。
 だがその実コンラートとて、何がどうなっているのやら、だ。しかし、まずは事実を伝えなければ始まらないだろう。
 コンラートは出来るかぎり冷静な口調で告げた。
「どうやらあなたの御身体は…女性になっているようですね」



 コンラートに任せておけば何とかしてくれるはず。この腫れの治療法だって知っているかもしれないし、誰にもばれないように薬を調達だって――そんな全幅の信頼をおく男が発したのは。
「は? 女性にって? おれが?」
 変な言葉の並びに頭が付いていかない。いや、単語が変なわけじゃない。その並びがナンセンスなのだ。しかし。
 自分の身体をきっちり包み込んでいるシーツ。胸元を引っ張って緩める。覗き込む。
 恐ろしい予感に引き裂く勢いで全て剥ぎ取った。
「――っ…!」
 そういうナンセンスなチョイスにならざるを得ない状況が。起こっているのか本当に?
 …えーっと。俺って女だったっけ。
 きゅうーっと抱きしめられて、我に返った。いつしか再びこの身にはシーツが巻かれていて、その上からコンラートに抱きしめられていた。
「大丈夫ですから――きっと、なんとかしますから」
 大丈夫って、何が。なんとか――なるのか? ってかこれってどういうコト?
「なぁ…魔族ってのは途中で性が変わるもんなのか?」
 メスのメダカばかりを水槽の中に入れておくと、そのうちの何匹かがオスになる――むかーし高校生だった頃、授業で聞いた話を思い出した。
「いえ、普通は変わりません」
「じゃあやっぱり、男同士ってのはまずかったのかなぁ」
 ついでに当時の倫理観も思い出した。
 抱きしめたままにコンラートが首をふる。声に少し憂いが混じった。
「あなたはまだ、そんなことを仰るんですか」
 ――って、そんなところに引っかかっている場合でもないだろっ! 別にあんたとどうこうを後悔してるわけじゃない。そんなことを言ってるわけじゃないし。
 自分で言い出したことなのにむかっとして、この非常識な事態に自分はかなり混乱しているらしい。ユーリは頭の隅っこでそんなこともぼんやり考えながら。
「じゃあ、なんでいったいっ」
 苛立ちのままに声を荒げて、きっと睨んだ先のコンラートと目が合って。あ、と思った。
「ええ。まずは彼女を当たってみるのが順当かと」
 とたんに気が抜ける。あぁ、そうだ。血盟城でおこる超常現象の九割八分は彼女で説明がつく。
 ふぅ、と、安堵でもない息を吐いて。だがほっとしたのも確か。
 奇天烈な状況が理解できたら、コンラートを掴んでいた自分の手が目に入った。
 まるで遠近感が狂ったように見える。広げる。握る。広げる。確かに自分の手なのにほっそりして一回り小さい。
 その手を自分の顔に持って行った。ただ、目鼻の位置はそう変わらないのか、違いが感じ取れなかった。朝には浮いてくるざらっとした手触りがなく、頬がすべすべなことには、なるほど、と思ったけれど。
 じゃあ、とそうっと足の方を捲ってみたら、確かにすべすべでびっくりする。――それよりっ!
「ええっ?!」
 慌てて腕を見る。
「何、これっ」
 再びシーツを剥ごうとしてコンラートに止められた。
「ないっ!ないよ! なくなっちゃったよおれの筋肉っ!」
 知っているものより全てが一回り小さく、柔らかくたおやかな手足。張りつめた弾力ではなく、力を込めれば沈み込み、そのまま握りつぶしてしまいそうな、やわい感触。
「お、おれの筋肉がぁ…」



 息を呑む美貌の持ち主でありながら、本人にとってそれより大切なのが筋肉である。自分の容姿の有用性は知っているけれど、それ以上でも以下でもない。それよりもっとも関心と執着を感じてしまうのが、筋肉。
 食事に気を配り、せっせとトレーニングに勤しんでも、もとよりの体質なのか本人の希望には及ばないが。それでも頑張って育んだそれを、彼は何より大切にしていた。
 なのに。一夜にしてその身体から失せてしまった。
 もっとも、いくらその身が女性になってしまったからといっても、ちゃんと呼吸してしゃべって動いているのだから消え去ってしまったわけではないのだ。むしろ標準的な女性よりもはるかに――きゅっと締まったふくらはぎとか、腰やら背中やら、官能的なプロポーションを維持するためのはしっかり感じるのだけれど。
 それでも、女性特有のふわりと柔らかい肌の手触りが、彼には余程ショックだったらしい。
 自分に乳房ができてしまったことより、男性器が消失してしまったことによりも衝撃を受けて、ユーリは茫然自失を続けている。だが、これは決定打になってしまっただけなのかもしれない。
 異物がその身に発露して、男性であることの拠り所である器官を失くす――そんな非常識な事態よりも、もっと現実的で解り易かっただけに。

 降って湧いた事態に二人とも今更寝直す気にもなれず…そうこうするうちに夜も明けてくる。いつまでもユーリを裸のままでいさせておくわけにもいかず――。
「風呂に入りますか?」
 この状態のユーリに自らの身体状態を思い知らせるような行為は酷かとも思ったけれど。昨夜のままというのもはばかられた。
 ユーリはくしゃりと髪を掻き上げまろい頬を晒すと柔らかそうな唇で「ああ」と応えた。躊躇なく身にまとうシーツを抜け出して、いつものようにすたすたと浴室へ消えて行く。
 湯を使う音が聞こえ。しばらくして髪をふきふき戻ってくる。何のためらいもなく用意してあった下着をつけ、シャツを羽織る。ボタンをかけながらふと怪訝なな表情をしたが、どうやら元の身体より一回り小柄になったにも関わらず、膨らんだ胸のせいで止めにくいらしい。
「ユーリ…」
 何となく見ていられなくってそう声をかけたが、自分でも何を言うべきなのかわかっていなかった。俺のシャツを貸しましょうか、とでも?
 だがユーリは、あんたも風呂入ってきたら、と全くいつもの調子で着替えを続けている。
 その普段っぷりが不安でしょうがないのだけれど、大急ぎで身体を清めて出てくると、身なりを整えたユーリがベッドの縁に腰かけて、じっと手を見ていた。上着の袖が掌の半ばまで覆っている。
 何も変わったことなどないようにごくごく普通に、いつもどおり振舞っていたユーリだが。そのとき初めて、途方に暮れたように呼んだ。
「コンラッドぉ」
 恋人である以前に魔王の護衛である自分がこの人を守るのは当然で、それは細胞のひとつひとつにまで染み付いていることなのだけど。それとは違う何かがじりじりした。
 彼は女なのだ。変化はその体つきだけではなかった。いつもの口調はそのままで、だけど鈴を転がすような声と。どことはなしに甘くあどけなく変化した顔容。
 美人美人と言われてもやはりユーリは男で、凛々しい眉だとか、強すぎる目が美貌をたおやかなものには落ち着けず、繊細だがシャープな作りは決して女性的ではなかった。それを。パーツを少しずつ柔らかくしたら。これほどまでに愛らしく見事な女性になるのだ。
 いくら当事者といえども、鑑賞の対象は女性に置いているユーリが自分の容姿に何の感慨も抱かないのが、いっそ不思議だと思う。それほどに、彼の美女ぶりは素晴らしかった。
 それが、不安に震えながら自分の名を呼ぶ。
 ただでさえ全く勝てない相手なのに、ここまで…痛々しいまでに頼りなげな風情で呼ばれたら。
 傾国の美女という言葉が大げさでもなんでもないことを身をもって知る。もっとも彼はすでにこの国を手中にしているけれども――世界を手に入れて来いと言われたら…この美女の歓心の為に自分は必ずやりとげるだろう。
 跪き、小さくなってしまった手を取る。
「アニシナに言って治してもらいましょう?そしたら筋肉だってちゃんと戻ってきますよ」
 上着の袖を折ってやりながらそう言うと、涙をこらえるようにこくんと頷いて、縋る目で見つめてくる。
「大丈夫ですよ」
 髪を撫で、包んだ頬の感触が淡雪のように柔らかだった。
 ざわめくこの気持ちが庇護欲なのだと理解して、その時初めて。ユーリがこちらの世界にやってきたその当初にすら、自分はユーリにそんな感情を抱いたことがなかったのだと気がついた。



■ 中 編 ■

 きつい印象がやわらぐと、大きな目はその顔をぐっと愛らしいものにした。元が怜悧な美人なだけに、それだけで随分可憐なふうになってしまう。幾分ふっくらした頬や唇もユーリをただただ甘くする。
 上王陛下の化粧係もその辺は十分に心得ているらしく。
 ぱっちり強調させた目も、薔薇色に色づく頬も、瑞々しい艶を湛えた唇も。成熟した女性のものでありながら、どこかいとけない危うさを感じさせた。
 その儚い唇が、動く。
「変じゃない?」
 繊細なラインを入れた瞼が瞬いて、コンラートを見上げる瞳がゆるりと潤んだ。
「まさか。素晴らしいです。――ほら、泣くとお化粧が崩れちゃいますよ」
 目の前の存在が生身だという事実を忘れそうだった。どうしてこれは動くのだろう――ユーリを慰めながら、そんな不思議な気持ちに捕らわれる。うっかり壊してしまわないよう、手の触れないところに仕舞っておかなければならないのでは。
 結い上げるには足らなかった髪はいつものように垂らしたままだ。その不完全な様が、あどけなさを漂わす美貌にアンバランスななまめかしさを添えていた。
 誰の目にも触れさせないように。
 着せられた上王陛下の禁色のドレスは比較的露出の少ないものであったが、詰まった襟の代わりに肩が剥き出しになっていた。
 日頃の激務はユーリを太陽から遠ざけていて、特に衣服に隠される部分などは象牙のようななまめかしさだったが、晒された肩や二の腕はさながら内から発光しているかのようで。
 光を弾くほどにするりと明るい肌。蝋燭の明かりでなく、陽の下で見るから、とも思えたのだが。
 吸い寄せられるように、その肌に触れる。すべらかな手触りに、僅かな産毛まで手入れされたのだと知った。
 どうりで、この憔悴ぶり――母上や侍女たちに寄ってたかって仕立て上げられたのであろう状況が目に浮かんで、深く同情したが、でも。
 人形のように愛らしい素材を前に夢中になる気持は素直に理解できる。むしろ、「こんなにも可愛らしい陛下に無粋な格好をさせておくなんて!」と強引にあの人に連れ去られる前に部屋に連れ帰って、自らの手で磨き上げたかったと、嫉妬のような気持ちすら浮かぶ。
 どんどん倒錯的な方へ転がって行きそうな思考を止めるべく、寒くはないですか、とショールを用意するよう侍女に言いつけた。

 人目を忍ぶように早朝の城内を移動して、地下の研究室に向かった。幸い、アニシナは起きていた。起床していた、というわけではなく、宵っ張りが高じてまだ就寝していないだけだ。
 応答にドアを開けたら、彼女は実験机の上にずらりと瓶を並べて書き物をしていた。赤い液体が入った手元の瓶をその列に戻しながら、こちらを見遣って、おや、と少しだけ驚いたような声を上げた。だがそれだけで隣の黄色い液体の瓶を取って引き寄せる。
「そちらの方は陛下だとお見受けしますが、えらく可愛らしくおなりですね」
 前に並べた器具で試薬をその中に落とし、ゆすって色が赤く染まるのを見届けてまた紙になにやら書き記す。
「アニシナさんじゃあないのかっ」
「はて」
 ここに来ればすべて解決すると思っていただけに、アニシナの感心の薄さにコンラートの後ろに隠れるようにしていたユーリが飛び出す。実験の手を止めることもなく、ながらにそんなユーリを頭の上から足の先まで検分して。
「陛下にもついにお解りいただけたようですね、女性が生物にとっていかに優れた形であるか」
 それでも興味を示していることは確からしいので、かまわず説明する。目が覚めたら、こうなっていたと。
「それでは何ですか。陛下は改心して自ら女性を選択したわけではないと、そう言うのですね」
 操作を繰り返しながらちらりとあげた視線で冷やかに告げられて、ここで機嫌を損ねられてはとユーリが焦って取り繕った。
「あ、いや、次生まれてくるときは是非とも優れた方でお願いしたいけれども、途中で変わるってのもずるい気がするしっ」
 たとえ原因が彼女でなくとも、こんな非常識、対応できるのはアニシナしかないと必死だ。
「なるほど。それもそうかもしれません。途中で変わることを認めてしまえば、自ら高める努力を放棄して安直に女性を選択する者が続出するとも限りませんからね」
 うんうん、と縋る目で同意を示すユーリの表情がいとけなくって。
「元に戻すのに、力を貸して貰えないだろうか」
 口ではそう言いながら、それがとても罪なことのような気もする。このように愛らしく儚げな存在を、どうして否定せねばならないのか。
「よろしい。ではどうしてこのような変身を遂げたのか――目が覚めたらこうなっていた、だけではないはずです。その前に何か変わったことは感じませんでしたか」
 目の前に並べた瓶を全て処理し終えて、一段落ついたらしい。アニシナは抽斗から新たな紙を取り出して、魔王の問診に取り掛かったが。
「そう言われても…本当に何も」
 困惑に唇を噛む仕草が――やっぱり…。
 助け船を出そうと、口を開きかけたところにノックが割り込んだ。
 今朝はこのような時間から千客万来ですね、とアニシナが応えると、このような時間に居るはずのない――あら、先客がいらしたのね、とツェツィーリエが入ってきて。コンラートと、その向こうに魔王を捉えた。
「まあ陛下ぁ!」
 目を輝かせ、両手を広げて駆け寄って、抱き締める。
「きゃあ!なんてお可愛らしいのっ」
 恐ろしく実年齢を裏切って今も華やかな前魔王と、多少愛くるしくなっても涼やかな美貌の現魔王。二人のタイプの違う美女が抱き合う姿は、大層豪華でそしてどこか倒錯的だ。もっとも、喜色満面の母上に反して、ユーリに浮かぶのは戸惑いばかりだけれど。
「素晴らしいわアニシナ!」
 やはりアニシナだと皆思う。
 当人は不本意そうに口の端を曲げて、だがそれには触れずに。
「それで上王陛下はどうしてこんな時間に?」
「あぁ、そうなの、あなたに作ってもらった秘薬入りソープね、効果は抜群なんだけどなんだか具合が良くなくって…」
 ツェツィーリエは手にしていた花の染付が美しい陶製のボトルを机に置いた。片手はユーリの腰に巻きつけたままに。
「具合が良くないとは?」
「んー、なんだか身体がだるくって。あまり食欲もわかないし。昨夜も例の殿方と御一緒するはずだったのにそんなんで結局お断りして――せっかくお肌だってツヤツヤピカピカになったって言うのによ! もう、わたくし悔しくって眠れなくって。相変わらず気分もすぐれないし…」
 それで朝イチ駆け込んできたらしい。
「それは明らかな副作用ですね…薬効成分が多すぎるのかもしれません。少し調整してみましょう」
 アニシナは瓶の蓋をポンと開けた。広がる果実のような甘い香り。ふと、何処かで嗅いだことがあると、気になった。それも最近。
 記憶をたどるように飛ばした視線の先でユーリが、あ、と声を上げた。
「そ…それ…ただのボディソープじゃ、ないの?」
 指し示す華奢な指先が震えている。
「ユーリ、これを使ったんですか?」
 何の秘薬か知らないが――それだ。
「だって風呂に置いてあったんだもん」
 あー、チェックしなかったのは自分の大失態だけれど…。
「アニシナ、どういう効能なんだ、これは」
「女性ホルモンの分泌を促して肌にツヤとハリを取り戻し――しかしだからと言って男性を女性にしてしまうほどのものではないはずですよ。使用者の魔力によって増幅することは有り得るでしょうが、大体経皮摂取でそこまでの効果はおかしいです――まさか陛下、口にしたりなさらないでしょう?」
 それを聞くユーリはすぅっと蒼ざめ、かっと赤くなった。
「あ…」
 思い至って思わず声を上げると、ユーリがぎん、と振り返った。
 絶対言うな、と視線が厳命している。
「どうかしましたかウェラー卿?」
「あ、いや、それで、例えばそのソープが原因だとしたら、どうしたらユーリは元に戻るんろうか」
 何食わぬ顔を装って尋ねた。
「摂取を止めれば、すぐに…長くとも数日中には効果はなくなって元に戻るでしょう」
 アニシナにしたところで、経皮摂取程度の微量であるとか言うのも誤差の範囲内らしい。
 昨夜、入浴を済ませて訪ねてきたユーリはこの香りを肌から漂わせていた。入念に洗い清めてきたらしい身体の奥からも。
 どうやらユーリは女性ホルモンの分泌を促すというそれを、胃とは違う粘膜で吸収してしまったらしい――。
 だからと言ってここまでの効果はどう考えても物理的におかしいとは思うけれど――アニシナだから、で済ませていいの、か?



 魔王執務室付き事務官になって12年目の彼は、止む得ない事情だとかで午後になって執務室に現れた魔王陛下を目にして――顎が重力に従う音を聞いた。
 いつものように護衛を従えていらした陛下は今日も大層麗しく――あとは理解できなかった。ソレが陛下だというのは判った。他のものには有り得ない禁色。艶やかな御髪の色は陛下か大賢者猊下だけのものだ。すぐ後ろにコンラート閣下。なんと言ってもお顔立ちは陛下なのだが。
 誰なんだろう…この方は…当たり前のことが理解できない心もとなさに、泣きたくなる。
 そんな混乱は幸い陛下には伝わらなかったらしい。どこか浮世離れした表情でいつものように「御苦労さま」――いつもより涼やかな声でそう声をかけて下さって、奥の執務室に入っていかれる。
 自分の正気を疑って呆然となっていたのを現実に戻したのは、扉の向こうから聞こえてきた宰相閣下の怒号と王佐閣下の絶叫だった。
 それで初めて、自分が見たものが幻でもなんでもなく現実だと認識して。同じ状態であったらしい同僚たちと顔を見合わせ。はーっと安堵の息をついたのだった。


後編


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